2. 世界に存在する唯一の矛盾
死の恐怖に触れるために、「我々は死ねばどうなるか?」ということを考えてみよう。これについては色々な意見があるだろうし、「死んだ後のことなんか一度死んでみなきゃわからない」という身も蓋もないことを言い出す人もいるだろう。勿論確定的なことは何もわからない。ただ、今生きている現実世界を材料にしてある程度の想像と予測は出来るはずだ。論理的な結論を出す必要はない。ただ、その予測はある程度合理的であるべきだ。そして合理的であるならば、それは十分科学的な態度だ。
もっとも、この現実さえ全てまやかしで脳が見せている電気信号かもしれない、と主張する人はいるかもしれない。もしあなたが本当にそれを信じているのであれば、あなたに私が言えることは何もない。それを本気で信じた上でこの現実をどうやって生きているのか不思議で不思議で仕方ないが。
さて、では、「我々は死ねばどうなるか?」について考えよう。やがて土に還り、モノとして地球の一部になる――というのはあくまで他人の視点から見た時の話だ。ここでは、我々の主観は死後どういう体験をするか、ということを掘り下げていく。たとえば、天国や地獄といった死後の世界はあるだろうか? 精神がこの物質世界の相互作用による結果生まれているという前提に立てば、死んだ瞬間に相対性理論に反する運動が起こるはずで、未だ観測されていないのだから合理的に考えればあり得ない。では、人間が観測出来ない霊魂として残る、というのはどうか? それもないだろう。もし精神が霊魂という形で人間に宿っているのだとすれば、我々は生まれた時から明確に心を持っている必要がある。では、生まれ変わりはどうか? 生まれ変わりも似たような理由で否定できる……とは実はいかない。なぜなら我々の主観を支えているのは「自分は一瞬前と同じ自分である」という無意識のうちに行われる自己認識であり、そこさえ欺けてしまえば、たとえどのような形でも地続きの主観として成立してしまうのである。つまり、あなたが死ぬ直前の脳の状態と全く同じ状態の脳を持つ人間がどこかに誕生すれば、あなたの主観のうちで生まれ変わりは起こり得るのである。あなた自身の脳がその事実を否定しない限り(しかし本気で否定できるとすれば、そもそも毎朝起きる時に同じように自己同一性を否定できるはずなのだ。意識に断絶があるのに自己同一性を否定できないということは、あなたの脳は都合のいい自己認識に騙されることをよしとしているのだ)。さて、では同じ状態の脳が生まれる確率はどれほどだろうか? それは別々の先祖から生まれた同一のDNAを持つドッペルゲンガーが世界のどこかにいる確率よりも低いだろう。つまり限りなく0に近い。自分こそその恩恵に与れるだろうと信じるのは、あまりにも無邪気な楽観だ。
このような反証を挙げていけばきりがないが、死後の主観が体験することとして最も合理的な予測は「無の時間を過ごすこと」であることは、多くの人に納得していただけるだろう。そう、我々は死んだら「無」になるだけ――そんな風に考えていないだろうか? その「無」がどのような体験なのか、どのような主観の状態なのか、もっと掘り下げてみよう。
主観が体験する「無」の時間に一番近い身近な現象は何だろうか? 多くの人は「夢を見ない時の睡眠」を例に出すだろう。捻くれた人だと、「毎分毎秒体験している」と答えるかもしれない。思考が感じている時間の流れは自己認識によるパッチワークであり、本来の時間の流れは連続的なものではなく断絶的なものであるとして。――いや、捻くれた人と言ったが、私も「無」とはまさしくそういう体験であると考えている。主観としては何も認識出来ないために、一瞬にも満たない隙間の中に押し込まれる。「夢を見ない時の睡眠」だってそうであるはずだ。あなたは自分の記憶が断絶されているから、瞼が閉じているから、状況証拠的に「自分は寝ていたのだ」と認識できているにすぎない。でも実際に寝ている時間を認識できているわけではない。
では、死んだらその感じ方はどうなるのだろうか? 勿論、変わらない。主観は「無」の時間を認識できない。あなたの主観では、死後に感じる「無」の時間は一瞬にも満たない時間の隙間の中に押し込まれ続ける。いつまで? ――永遠に。
そう、永遠に、だ。宇宙が膨張しきって冷え切って完全に停止してそこから何千兆年も何千京年も経って尚、何千京分の一も経過しない程永遠の時間だ。あなたは主観の上で一瞬にも満たない「無」の時間を永遠に過ごすことになる。これは大きな「矛盾」だ。現実世界が物理法則に従っている限り、現象としての「矛盾」は存在しないはずだ。しかし死が主観にもたらす体験は紛れもなく「矛盾」している。このあまりにも気持ち悪い「矛盾」が私を苦しめ続けるのだ。
死ぬのが怖いと言うと決まってこう言う人が現れる。「でも、永遠に生きる方がもっと怖くない? それよりは死んで終わる方がいい」と。なら逆に問おう。「死だって永遠だ。それでも永遠の命より永遠の死の方がマシだと考えるのか? 『永遠』からは決して逃れられないのに?」と。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。だが全て死ぬことに比べれば些事だ。一度生まれてしまった主観は自身の死を認識できないのだから、本当は終わりがないのだ。一度停止して、その後は永遠に稼働しないだけで。あなたが主観に則って生きる限り、死に直面したあなたの主観は、あなたの意志信条その他にかかわらず、次の瞬間には再び意識が繋がっていることを信じ、いつも通り深い眠りにつくのだ。一瞬に過ぎ去る永遠の中で。
これが、私が死を恐れている最も核心の部分である。では、その矛盾を回避できるような希望に満ちた仮説は全く立てれないのか? 実は全く立てれないわけではない。そのいくつかの仮説の中にはこの章で少し触れたことに関連しているものもあるが、次の章でそれについて深掘りしてみようと思う。
25歳から始める遺書作成 雨樋棒棒 @amadoi_banban
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