薄青い空

古川卓也

薄青い空

 病棟10階の大きな窓から見える薄青い空。もう一度あの眼下に見える街路樹のある道を自分の足で歩きたい、そう願う伊山史郎は、この窮屈な4人相部屋となっている病室をゆっくりと出た。長い長い一日が懶惰(らんだ)にまた始まる。同じ時刻に起きて、同じ時間帯に朝食を摂り、昼食を摂り、夕食を摂る。運動不足から毎日、病棟の長い廊下を飼育された動物のように行ったり来たり散歩する。南側の廊下の端から端まで70メートルぐらいを歩き、北側の廊下にまわって再び歩き出す。檻(おり)とまでは言わないが、病院からは許可が出るまでは出られない。

 病室の自分のベッドに戻り、本を読んでいると、死刑執行人の由良之助がカーテンを開けて、「ちは。ご機嫌いかがかな。ほう、まだ生きてたかいな。顔、えろう白うなって、蒼ざめてんなあ。ま、もう少しや」と赤い顔を腫らして言った。目の前に突っ立った由良之助は両腕を組んで、左指4本を右腕の上でピアノを弾くように上下に動かしながら、

「案外しぶといやんけ。苦しかったら、いつでも、手伝ったるで」と言った。

「お前には、時間切れが読めるのか」と史郎が訊くと、

「読める読める。お前はあすの明け方、廊下の東側窓が真っ赤な朝陽で赤く染まる頃に、やっと病院から解放されとるわい。昇天まで一年もかかったぞ。ワシも待ちくたびれたわい」

「なら、下から見上げた薄青い空も、やっと、青く見えるんだな」と史郎は微笑んだ。すると、由良之助は言った。

「おおっ、見える見える。雲の上はいつも快晴じゃ。真っ青な青空がよく見えるわい。早う来い。ナマコもクラゲもお前さんが来るのが待ち遠しい言うて、ワシにせがんでおるんじゃ」

 すると、史郎の病室のカーテンがまた開けられて、

「こんにちは。もう待てないから来ちゃった」とナマコの不夜子が現れた。

「ハ~イ。わたしも付いて来ちゃった」とクラゲの芽芽子が、不夜子の後ろから丸い顔を覗かせて史郎に声をかけて来た。

「キミたちは僕の夢の中によく現れていたけど、ほんとに実在してるの?」と史郎が訊くと、

「そうよ。時間切れが近づくとね、居ても立ってもいられないのよね、私たち」と不夜子が返事をした。芽芽子も首でうなずいて「うんうん」と言った。

「ナマコちゃんもクラゲちゃんも意外と可愛いんだ」と史郎。

「意外は余計だけど、私たち、思ってた以上に可愛いでしょ。天国には卑しい人間界とは違って、とてもステキな生き物たちばかりなんだから、なるだけ早くいらして、伊山さん」

 と不夜子は史郎を誘った。最早まるで史郎のベッドは海の水底(みなそこ)のようだった。たくさんのクラゲがふわふわと水中を漂いながら、史郎にまつわりついて来た。史郎の脚の脛(すね)には数匹のナマコが吸い付いて、膝までよじ登ろうとしている。

 史郎は「オレは明日の夜明けまで待たずに、もう天国の門にいるのだろうか」と自問すると、

「いやいや、お前さんはまだ衆生(しゅじょう)に未練を残しとるわい」

 と由良之助が言った。

「本当はもうあの世を彷徨(さまよ)ってるんだろ。廊下を毎日歩いているのは、オレの肉体じゃなくて、アバターなんだろ? 人工呼吸器で生かされてるオレの脳が、まだ死にきれてないから、脳死判定ができないだけなんだろ、由良之助?」と史郎は突き詰めた。

「なんだ、わかってたのか。ワシの姿は、お前さんの眼には、どんなふうに映って見える?」

「赤く腫れた顔の死刑執行人さ」

「具体的に、どんな顔なんじゃ?」

「目も無く鼻も無く捉えどころのない赤い塊かたまり…」

「ほう。肉体から切り出した癌(がん)のようなものか。そいつは歩くのかい?」

「そこに立ってるじゃないか」と言って、史郎は由良之助を睨んだ。

「まあまあ、そんな難しいお話し、つまんないわ。ねえ史郎、わたしの唇、舐めてみない」とナマコの不夜子が史郎に近寄って来た。

「甘いハーブ味を塗ってみたのよ。きっと好きな味になると思うわ」と不夜子。

「あ~ん、ずるい。不夜子姐さんったら、ちょっと、史郎から離れなさいよ」とクラゲの芽芽子が二人の間に入って、不夜子を押しのけた。

「ね、史郎。部屋から出ましょ。二人きりでお話ししたいの」

 と芽芽子は言いながら、史郎の腕を引っ張った。

 二人はすうーっと浮いて、病室から出て行った。



「もしかして、ボクたち、廊下の上を飛んでる? クラゲちゃん」と史郎が訊くと、

「史郎。そのクラゲちゃんはやめて、芽芽子って呼んでくれないかしら。芽芽子だけが史郎のお嫁さんになるのよ。誰よりも史郎のことをいちばん愛しているんだから」

「そうだったね。夢のなかでは芽芽子がいちばん光ってたし」

「わたしのこと、電気クラゲに思ってる?」

「そういう意味じゃなくて、どの脚もスラリと長いし、優雅な泳ぎ方してるんだなって見惚れてたんだ。その美しい脚にボクも絡まれたいなって、前から思ってたんだよ」

「じゃあ、こんな風に、絡めましょうか」と言いながら、芽芽子は史郎の両脚に絡んできた。絡まり合った二人は、病院の10階廊下を突き抜けて、薄青い空を舞い上がっていった。

「ああ、ボクたち空を飛んでるんだ。車や人があんなに小さく見えてる」

「史郎。この日が来るのを、ずっと待ってたのよ」と芽芽子が言うと、

「わたしの史郎。もう離さないから」と不夜子がどこからともなく現れて、芽芽子の細長い脚をつねった。

「イタッ。不夜子姐さん。どこに隠れてたのよ」と芽芽子はおどろいて訊いた。

「史郎の太腿(ふともも)にきまってるじゃない」と不夜子は、芽芽子の絡まった脚を史郎から払い除けた。

「三人で空飛んでる」と史郎は、眼下の街並みを俯瞰(みおろ)しながら小声で叫んだ。

「ワシもさっきから飛んどるわい」と由良之助が言うと、

「なんだ、お前もいたのか」と史郎は笑いながら言った。

「いちゃ悪いかの。ワシは死刑執行人であると同時に、お前さまの天国の番人でもあるんじゃ。ほれ、右にまわれば、あそこに大きな門が見えるじゃろ。あれこそが天国の門なんじゃ。恋しい恋しいお前さまが望んでた、磔刑(たっけい)の門じゃ」と由良之助は微笑んだ。

 モクモクとした雲の上にそれは聳え立っていた。まるで地上の凱旋門のようでもあり、その何倍もの高さで聳えて見えた。次第に近付いてゆくと、巨大な石の門柱には磔刑された罪人たちの彫刻像が天高くまで薄気味悪く彫られていた。うなだれている者や藻掻き苦しんで叫んでいる者たち、苦痛から逃れようとして絶望的に笑う者や、悟りをひらいて瞠目する者、ひたすら打ちひしがれて悶絶する者たちばかりのレリーフだった。天国の門とは名ばかりの、苦痛の茨に突き刺さっている人々の阿鼻叫喚におもえた。

 この門の先にいったい何が待ち構えているのだろう、と史郎は恐怖をおぼえたが、不夜子の澄んだ声でハッと我に返った。

「史郎ったら、ちょっと目を離したら浮気っぽいんだから。芽芽子なんか忘れなさい」と史郎の頬に顔をすり寄せて目くばせをした。しなやかな肢体を持った不夜子の大きな瞳と長く反ったあでやかな睫毛が、次第に史郎の顔に覆いかぶさってきた。ぬるぬると首筋を這い上がり、史郎の顎(あぎと)と唇を舐めた。

「史郎はわたしのものよ。不夜子姐さんには渡さないわ」と芽芽子が反撃して来た。

「あなたねえ、クラゲの分際で生意気なのよ」と不夜子。

「なによ、姐さんなんか人間の食卓に切り刻まれて、オカズになって大人しく食べられてればいいのよ。コリコリとして珍味だし」と芽芽子。

「じゃあ、あなたはどうなのよ。水族館に幽閉されて、人間たちの見世物になってれば。さぞかし珍重されて、人間の子供たちの夏休みの宿題になってれば。クラゲの観察日記にでもなるのね。ホホホッ」と不夜子。



「おいおい。姉妹でケンカするもんじゃない。ここをどこだと思っとる。天国の番人としては示しがつかんだろが。人間の男の取り合いっこはするんじゃない。史郎にだって選択の権利があるだろうしな。そうじゃ、エイの王女さまが史郎のような人間を欲しがってたよなあ。何も考えない人間どもが数多(あまた)おるなかで、哲学者のような史郎を確か探してたと思うぞ」

 と由良之助が不夜子と芽芽子のあいだに割って入ってきた。

「王女さまが、史郎を …」と不夜子は怪訝そうに由良之助を睨んだ。

「大王さまは私に約束してくれたのよ。稀有な史郎はお前に与えよう、って。王女さまには釣り合わないし、史郎を摩耶姫さまの下僕に使うなんて、許されないことよ」

「史郎が王女さまの下僕に? あり得ないわ」と芽芽子も動揺した。雲に霞む天国の門を抜けて上空を見上げると、大きな黒い影が弧を描くようにゆったりとまわっていた。

 空を舞う大きい黒い影は、死にゆく人間どもをエイの大王渤海(ぼっかい)が悠々と輪廻を折伏(しゃくぶく)する慣習だった。下界の海に生息する最大エイの大きさを9メートルとするならば、天界ではざっとその10倍にも見えてしまう大きさとなり、100メートルちかい姿を現わす。見上げた史郎の眼には、まるで宇宙船のように見えた。

「あれはキミたちの宇宙船かい?」と史郎が訊くと不夜子が、

「わたしたちの大王さまで、エイの渤海さまが天を支配なさっておられるのよ」と説明してくれた。

「エイなのか? 海にいる、あのエイかい? 大きいエイだなあ。あんなにでっかいエイが空を泳いでいるんだ。天国はすごい所だなあ」と史郎は感心した。

「じゃあ、もしボクが奇跡的に生還して、病院を無事に退院できたら、不夜子はナマコに戻って芽芽子もクラゲに戻っちゃうの?」と二人に問いかけると、

「イヤよ。史郎はここで生きるの。下界の卑しい人間たちのところには戻らないで」と不夜子は涙目で訴えてきた。

「わたしも史郎を絶対に下界には帰さないから」と芽芽子が史郎の体にきつく絡まって来た。

「ハハハハハッ。二人とも大丈夫じゃ。安心せい。史郎はもう天国の門をくぐり抜けて、お釈迦さまになっとるわい。年齢もずいぶん若うなって、二十歳の青年のようじゃ。不夜子も芽芽子も史郎を好きなように料理したらええ」と由良之助が言ったので、史郎は慌てて、

「ボクはここで魚にでもなるのか、由良之助」と訊いた。

「そうじゃのう。お前は鮟鱇(あんこう)に似とるから、鮟鱇がよかろう」と由良之助は答えた。

「げっ。アンコウとは失礼な。ボクがアンコウなら、お前は茹蛸(ゆでだこ)じゃ」と史郎。

「そんなタコは天国にはおらんわい。じゃが、クラーケンなら海底だけとは限らんぞい。天国の門をくぐれば空にも現われるわい。さっき、お前さまの背後に大きい目玉がチラリと見えたが、ありゃきっと怪物のクラーケンじゃな」と由良之助は史郎を脅した。史郎は後ろを振り向いたあと、

「すると何か、死んでも恐怖は付いて来るのか。何のための天国か、わからないじゃないか」と突っ込んだ。由良之助は「ふ~ん」とうなずいて、肩に乗せた重い鉞(まさかり)の柄を降ろした。



「なあ、由良之助。さっきからボクたちは雲の上を歩いているようだけど、ここは本当にあの世なのか?」と尋ねた。

「歩いておるようで、歩いてはおらん」と由良之助。

「なんだ、禅問答でもしているつもりなのか」と史郎。

「下界には重力があるでな。歩くか、泳ぐか、立つか、寝るしかなかろう」と由良之助。

「じゃあ、この雲の上を歩いているということは、この空中にも少しは重力が残っているということなのか」と史郎。

「ならば、この鉞を持ってみるとわかるじゃろ」と言って、由良之助は史郎に鉞の柄を差し出した。言われるままに史郎は鉞を握った。

 と、その瞬間、史郎は真っ逆さまに下に落ちていった。

「助けてくれえッ!」と史郎が叫びながら急降下していると、由良之助がすぐに現われて、

「鉞から手を放すのじゃ。いつまでも握っとらんと、放すんじゃ」と由良之助から言われるままに史郎は素早く鉞を手放した。すると、今度はいきなり史郎が急上昇していった。鉞は見る見るうちに地上の方へ落下していった。

「なあ、史郎。これでわかったか?」と由良之助が訊くので、

「さっぱり分からん」と史郎は言った。

「下界じゃ3キロの重さなんじゃが、この天国じゃ30キロの重さじゃよ。人間が肩に担いだら30キロの重力になるが、ワシは人間じゃないからの。3グラムの葉っぱを肩に乗せてるようなもんじゃ。一見、見かけは重そうな鉞に見えるがの。切れ味抜群の刃でな、史郎の首をちょん切るにはもってこいの鋭さよ」と由良之助は高笑いをした。

「さっきの鉞は地上で3キロと言うなら、地上に落下した時には何トンもの威力が働くんじゃないのか、隕石みたいに」と心配する史郎は顔が蒼ざめた。

「心配は無用じゃ。とっくに回収しとるわい、ほれ」と由良之助は言って、史郎にその鉞を見せた。

「アメリカ映画の『マイティ・ソー』を知っとるか? 主演はクリス・ヘムズワースでアスガルドの第一王子ソーが持つ全能のハンマー・ムジョルニア、あれと同じパワーをこの鉞も持つのじゃ」と得意げな由良之助。

「死刑執行人のお前は、映画が好きなのか?」と史郎。

「ここは映画天国でもあるのじゃ。人間の作り話はみんな知っとるわい。ワシの持つこの鉞にもパワーが宿っておっての、史郎は鉞の重さで落下していったのじゃ。鉞からお前さんが手を放したら、いつでもワシの元へ鉞は戻って来るんじゃ」

「まるで映画みたいな話だな、由良之助」と史郎は再び雲の上を歩き始めた。

「そうじゃろう。天国の門をくぐったら、ここは魔法のような楽園じゃ」と由良之助は言った。



 薄青い空が次第に濃い青色に変わってきた。いつの間にか不夜子と芽芽子が側(そば)に現われて、二人は何やらひそひそ話をしている。よく聞こえないので、史郎は二人に近づいた。

「何か楽しそうな話のようだけど」と史郎が口をはさむと、

「右足がいいわ、って不夜子姐さんに言ったの」と芽芽子。

「右足? 誰の右足なの?」と芽芽子に訊くと、

「史郎にきまってるじゃない」と答えた。

「ボクの右足が、どうかしたの?」

「左足には傷の痕がいろいろ残ってるでしょ。だから、キレイな右足を選んだの。右足から頂くわ」と芽芽子は妙なことを言った。

「わたしは耳たぶから食べてみたいな」と不夜子まで不気味なことを言い始めたので、史郎は二人の側から後ずさりして、踵を返すと、二人を遠ざけるように歩き始めた。そして、逃げるように走ったが、走っても走っても足が空回りするのか、さっきから同じ場所、同じ雲の上だった。

「どうしたの、史郎。汗かいて」と不夜子が艶めかしい口をあけて舌を出してきた。

「ボクは美味しくない。やめるんだ」と史郎は血相を変えて怯んだ。

「可愛い、史郎ったら。生身の人間って、寿司よりも美味しいんだから」と芽芽子は言いながら、すっぽりと史郎を絡めて丸呑みにした。史郎が小さくなったというよりも、クラゲの芽芽子が突然10倍に肥大化したのだった。5メートルの半透明ドーム状内に、史郎は丸められていた。よく見ると、史郎の顔の横に何かがくっ付いている。史郎の右耳にナマコの不夜子が覆い被さっていた。すでに耳たぶが消えている。不夜子がもう食べてしまったのだろう。反対側の左の耳たぶも無くなっていた。

「ねえ、芽芽子や。史郎の耳たぶって、フォアグラよりも美味しいわよ」と不夜子。

「史郎の右足も美味しいわよ。鶏(とり)もも肉みたい」と芽芽子は、史郎のふくらはぎを頬張りながら言った。



「やめてくれッ!」と史郎は病室のベッドから起き上がってハッと目が覚めた。大声を出してしまったので、小さな声で「すみません」と病室の患者たちに謝ったが、誰もしゃべらなかった。病室はシーンとして寝静まっていたが、一人だけ微かに鼾(いびき)をしている。史郎が病室から廊下に出ると、東側廊下の突き当たりの窓がうっすらと赤く染まっていた。廊下も少しずつ赤く染まって、朝焼けを迎えているようだった。もう一日だけ、生きていたいと史郎は思った。(完)

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薄青い空 古川卓也 @furukawa-ele

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