最終話

 新学期が始まった。

 以前の僕のままだったら——もしかするとどこか誰にも邪魔されない場所で今度こそ自殺を遂げていたかもしれないし、でなければもはや家から一歩も出ない生活を始めてしまっていたかもしれない。

 けれど、僕の足は、ちゃんと学校へ向けて歩いている。それも、真っ直ぐに背筋を伸ばして。

 今朝もいつものように朝5時に起きた。窓を開けてあの薬を一粒噛み砕き、きちんと朝食を食べた。

 時間があるから、以前母さんが気まぐれのように持たせてくれたランチボックスに、今日は自分で弁当を詰めてみた。作ったのはぐちゃっと見栄えの悪い卵焼きと炒めたウインナー。あとは炊飯ジャーの白飯と、冷凍食品をチンして適当に入れただけ。それでも、心は何か明るい充実感に満たされた。

 夏休みの間通い続けた駅を降り、今日は道場とは逆方向の通りを行く。同じ制服の生徒達が横を行き過ぎる。中にはクラスメイトの顔も混じっている。けれど、どの顔に出会うのも、もう怖くはなかった。

 新学期初日の朝に、こんなにも穏やかな心で登校するなど、まさに奇跡だ。教室に入り、誰にともなく「おはよう」と小さく呟いて、席に着いた。

 以前と変わらずポツンと取り残される休み時間も、もう卑屈な寂しさは感じない。

 これでいいんだ。

 そんな気持ちが、静かな湖のように僕の中に満ちていた。


 昼休みも、どうせひとりだ。気持ちいい場所で食べよう。僕は手にランチバッグを提げ、緑が涼やかな木漏れ日を作る校舎の裏側へ向かった。人気ひとけのない出入り口のコンクリートの階段へ座り、弁当を広げた。


「あれー、鳴海くん? ぼっちな自分が悲しすぎてこんなところでシクシク泣いてるのぉ?」

 2、3口箸を動かした時、不意にそんな声が背後から投げつけられた。

 振り向くと、いつものメンバーが3人揃って半袖シャツの裾をズボンの外へ垂らして歩いてくる。


「——!……」


 その姿を目にした瞬間、静まっていたはずの恐怖が一瞬にして僕に襲いかかった。

 夏休み前に散々痛めつけられた惨めな記憶が、僕の心臓をぐいぐいと締め上げる。

 僕はひとり。あっちは3人だ。敵うわけがない。僕は弁当を膝に置いたまま、全身の筋肉を強張らせて俯いた。

「なーんかガッコ久しぶりでさ、俺らも体動かしたくてたまんねーんだよ。な」

「あーそうそう。鳴海くんってさ、めっちゃ殴り心地いいサンドバッグじゃん? 夏休み中会えなくて寂しかったわ〜」

「いつも俺たちに気前よくお小遣いくれるのがまたたまんねーよな。サイコーのトモダチかよ? ギャハハ」

 そんなことを言いながら、彼らは僕の周りをぐるりと囲んで立つ。

「……」

「相変わらずダンマリかよ? いつも何の反応もしてくんなくってさびしーなあ、おい!」

 正面の男にがっと膝を蹴られ、膝の上にあった弁当箱が地面へ転げ落ちた。

 砂塗れになった卵やウインナーを、黙って見つめた。

 気づけば、僕は縮こまった膝をほどき、静かに立ち上がっていた。


「あ〜〜ごめんな、大事なお弁当落としちゃって!」

「それ、ママが作ったの? うあ、めっちゃビンボー臭えウケる」

「食べもの無駄にしちゃダメだよなあ? ちゃんと拾って全部食えよオラ!!」


 正面の男が、拾ったウインナーをガシガシと口へ無理やり押し込もうとする。

 そいつの手を、僕は右腕ですいと払い退けた。

 びしっと鋭い音がして、そいつの手が勢いよく横へ跳ね飛ばされた。

 手を跳ね除けられた男とその両脇の二人は、一瞬何が起こったか分からないように固まった。


「……あぁ!? てめえ、ふざけた真似しやがって……!!」

 一気に逆上したそいつの手が、今度は激しく僕の胸ぐらを掴んだ。

 その瞬間、咄嗟に腰が下へと沈み、足が自然といつもの構えを作った。乱暴に胸元を掴んだ奴の手を自分の左腕が鋭く払い落とす。

 呆気なく腕が払われ、ガラ空きになったそいつの鳩尾みぞおちが僕の真正面に晒された。

 ああ、ベストポジションだ。

 次の瞬間には、そのど真ん中に会心の正拳突きを叩き込んでいた。


 奴は、文字通りぶっ飛んだ。

 派手な勢いで後方の地面に転がり、呼吸を奪われてもがきながら目を白黒させている。

 両脇にいた二人は、仲間のみっともない姿を突っ立ったまましばし見つめた。


「……なあ」

 そいつらに、声をかける。

「あんたらもどう?」

「ひぃ!! ご、ごめん、鳴海くん、ほんとごめん!!!」

「マジ悪かった、すごい強いんだねーびっくりした!!」

 真っ青になった二人は意味不明なことを口走り、仲間を置き去りにしてジリジリ後退り、逃げ去った。

「おい」

 やっとフラフラ立ち上がった男に歩み寄り、声をかける。

「ヒィィ……」

 呼吸が苦しいせいなのか、怯えているだけなのか、おかしな声が返事をする。

「あそこ、汚したのお前だよな。全部拾って掃除しておけよ」

「……」

「わかったか?」

「ヒィィ……った、わかったから!!」

「ならよろしく。今のは正当防衛だ。文句言っても無駄だから」

 地面に転がったランチボックスを拾い上げ、僕はその場を後にした。


 その翌朝。

 僕は薬の最後の一粒を掌に振り出し、静かに噛み砕いた。

 



 その日の学校帰り。

 あの雑居ビルを訪ねた。

 薬の効果を、あの男に報告するためだ。


 古びたドアをガタリと開けたのは、若い女性だった。

「はーい。どちら様?」

「え……と、あの。こちらで、薬をもらった者なんですが……」

「あー! もしかしてヒロヤくんが薬渡したのって、君かな? 

 そっか、まあとりあえず入って」

 あの男とは正反対の陽気な空気を振りまく女性に促されて、僕はあの日と同じ黒いソファに座った。


「薬の効果を教えて欲しいって、あの人……に言われてたもので。すみません、彼の名前もちゃんと聞いてなくて」

「ヒロヤくんね。私はミキ」

 冷蔵庫から缶コーヒーを出して僕の前に置くと、彼女はニコッと笑った。

「あ、僕、鳴海 光って言います」

「光くんかー。ごめんね、彼今出かけてて。インドかどこか行ってくるって月末まで帰ってこないの。今日はクレームつけに来たんでしょ? 全然効かない薬飲ませやがって、って」

「え」

「そりゃそうよねー。あれ、ただのフリ○クだもん。まあ私好みにミントオイルふりかけてあるやつだから、スースー感100倍増しにはなってるけど」


「……」


 彼女は構わず続ける。

「私さ、彼の助手っぽくここにいるけど、実は彼が研究とか実験でやばい物作っちゃうと困るなーって密かに監視してるの。あの日も、『すごい薬ができた!』とか言って出かけたから、こりゃやばいと思って。あの黒いケースの中身、そっくりすり替えといたんだよね。彼が完成させた薬とフ◯スクが見かけそっくりだったしバレないだろうと思ってさー。ただのお菓子渡された方はたまったもんじゃないわよねー」


「…………あの薬、効いたんです。すごく」

「へ?」


 今度は彼女がぽかんとする。


「あの薬のおかげで、僕の世界が変わって。

 奴らをぶっ潰すっていう願いも、叶いました。

 あれがなければ、僕は死んでいたかもしれない」


「……それは、薬の力じゃない。

 君自身の力だよ」


「え?」

「君自身の『生きたい』っていう気持ちが、君にその世界を開いたの」


 僕は、半ば呆然として彼女の言葉を反芻した。

「僕自身の力……」

「そう。

 君はもう、あの薬がなくても、前を向いて歩いていけるよ」


 コーヒーを飲み終え、僕は静かに立ち上がった。

 ミキさんへ向けて、深く頭を下げる。

「ミキさん、ありがとうございました」

「えー、私は何もしてないよ」

 ミキさんが明るく笑う。


「来月、またここに来てもいいですか?」

「え?」

「ヒロヤさんにも、お礼を言いたいから。

 僕が歩き出せる最初のきっかけをくれたのは、彼ですから」


「うん。ヒロヤくん、喜ぶよ」

 ミキさんは、パッと嬉しそうに微笑んだ。



 ビルを出て、僕は考える。

 さあ、次は何を叶えようか。

 その願いを言葉にすれば、声に出せば——きっと叶う。何かが変わる。

 僕は大きく息を吸い込んだ。

 あの爽やかなスカイブルーの風が、身体の中を巡った気がした。



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やりたいことが全部叶う薬 aoiaoi @aoiaoi

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