消えた3分間をやり直せ!
淡 湊世花
消えた3分間をやり直せ!
やかんの汽笛が鳴り、テレビ番組の時計が11時55分になった。キャスターが明るい声で天気予報を伝えている。今日の降水確率は0%らしい。赤い太陽マークがきらりと光る。
「やったー!」
ペットのチンチラが、パッと彼女を見た。だが、桃子はチンチラには目も向けず、手のひらほどの、小さな銀色の球体を持ち上げた。桃子は、この球体を完成させたことに、歓声を上げたのだ。
「ついにできた……タイムマシン!」
ガチャガチャの景品に見えるこの球体。実は、未来や過去へ移動できる奇跡の発明なのだ! 桃子の高笑いが、11帖のダイニングキッチンに響き渡る。
しかし、彼女が完成させたタイムマシンには難点があった。3分後の未来か、3分前の過去にしか、時間移動できない。裏を返せば、カップ麺を食べたいときは、最高に適していると言えるわけだが。
桃子はヤカンの火を止めると、熱々のお湯を魔法瓶に注いだ。食卓にカップ麺の緑のたぬきを置き、蓋をぺりっと剥がして、お湯を注ぐ。
桃子はキッチンタイマーを3分後にセットしてから、タイムマシンの起動スイッチを押した。
タイムマシンは、赤と緑のランプを点滅させ、猛烈な勢いで回転し始めた。タイムマシンからすさまじい遠心力が広がり、桃子はそれに巻き込まれる。叫びそうになる未体験の感覚に、桃子は乗り物酔いに似た気持ち悪さを覚えた。
ところが次の瞬間、キッチンタイマーの電子音がけたたましく響いた。
桃子は我に返ると、緑のたぬきの少し丸まった蓋を、ぺりぺりっと剥ぎ取る。閉じ込められていた豊潤な出汁の香りと湯気が、桃子の鼻先にほわっと触れた。
「……緑のたぬき、できあがってる……」
桃子は思わず声を漏らした。たった今お湯を注いだばかりの緑のたぬき。セットしたばかりのキッチンタイマー。テレビ番組の時計は11時58分を示している。全てが3分後の姿になっているのだ。
タイムスリップできた……!
カップ麺が出来上がるまでの3分間を、スキップできたのだ!
言葉にならない感動が、桃子の胸いっぱいに広がった。ところがそのとき、扉が閉まる乱暴な音が、玄関のほうから聞こえた。桃子が飛び上がって振り返ると、さらに仰天する光景が広がっていた。
「……えっ?」
部屋が、信じられないくらいに散らかっている。棚から飛び出した無数の本、倒れたフィギア。おまけに、ペットのチンチラの姿が見えない。
「ど、どうしてこんな…」
桃子が戸惑っていると、テレビから緊張した声が聞こえてきた。
『番組の途中ですが、ここで地震速報です。震度6の大きな揺れを観測しました。落ち着いて、命を守る行動をしてください』
「地震!?」
桃子は仰天してテレビにくぎ付けになった。お昼のワイドショーを放送していたはずなのに、緊急地震速報のテロップが羅列され、報道室の慌ただしい様子が、アナウンサーの口調から伝わってくる。
どうやら桃子が時間移動をした3分の間に、大きな地震が起きたみたいだ。
「あ、
桃子はスマホを手に取り、通話ボタンを押した。
桃子は安易な気持ちで電話をかけたが、一抹の不安が桃子の脳裏をよぎり、タブレットでSNSを開いた。
「……嘘でしょ!」
表示された書き込みを見て、桃子は叫んでしまった。青也の通う学校に、近所の建設現場のクレーン車から、鉄骨が落下したというのだ。桃子は学生たちの書き込みから、写真の添付を見つけた。そこには、青也がいるはずの研究室が、ぺしゃんこに潰れた恐ろしい姿で映っていた。
「そ、そんな」
青也の電話は、ついに応答がないまま切れてしまった。
桃子が時間を飛び越えた3分の間に、とんでもないことが起きてしまった。どうすれば、弟の無事を確かめられるか。
茫然としていた桃子だったが、握りしめたタイムマシンのスイッチを、今度は逆に起動させた。
今、桃子がやることはわかりきっている。3分前の時間に移動して、弟に危機が迫っていることを伝えるのだ。
桃子は、あの気持ち悪い遠心力に振り回され、たまらず食卓に手をついて身体を支えた。
すると、たっぷりの湯気を閉じこめた緑のたぬきが、目の前に置いてあった。桃子は我に返りテレビを見る。テレビ番組の時間表示は11時55分。キッチンタイマーも鳴っていないし、緑のたぬきはまだ固そうだ。
3分前に戻ったことを瞬時に理解した桃子は、スマホで弟を呼び出した。すると、3分後の未来とは打って変わり、すぐに通話がボタンが緑から赤に変化した。
『もしもし、姉ちゃん? どうしたの~?』
青也の気の抜けた声が聞こえてきた。よかった、無事だ!
地震が起きる3分前だから当たり前だが、桃子は安堵の気持ちでいっぱいになった。しかし、悠長に話している時間も、くどくどと説明している時間もない。研究室に籠っている宇宙工学の学生たちを、クレーンが落下する場所から追い出すには、なんと言えば良いか。桃子は頭をフル回転させ、一気にまくしたてた。
「今ワイドショーのお天気お姉さんがアンタの通ってる大学から天気予報してる!」
『えっ、マジで!?』
「あんたのいる校舎の東側でやってるよ!」
口から出まかせの話だが、桃子の賭けは的中した。青也の弾んだ声と、研究室の仲間と連れ立って外に飛び出す音がする。その間、桃子は上着を着こみ、チンチラの籠を抱えて、身構えた。
次の瞬間、タブレットから不穏なアラームが鳴り響いた。緊急地震速報だ。間髪入れずに、すさまじい横揺れがズドンとマンションを揺らした。電話口からは、青也たちの叫び声と、すさまじい轟音が聞こえてくる。経験したことのない揺れに、桃子も思わず悲鳴を上げてしまった。
揺れが収まると、桃子は散らかり放題の部屋を恐る恐る見渡した。電話口は、ゾッとするほど静かになっている。
「青也、無事!?」
桃子が呼びかけた瞬間、青也の普段と変わらない声が帰ってきた。
『姉ちゃん無事か!? やべえよ、おれたちの研究室がぶっ潰れたよ!』
「無事なのね、ああ、よかった! 今から車で迎えに行くから、電話切らないで待ってなさい!」
桃子はスニーカーを履くと、チンチラの籠を抱えて玄関を飛び出した。そのとき、部屋の奥からキッチンタイマーの電子音が聞こえた気がしたが、桃子には振り返る余裕はなかった。
大地震で町中が混乱していた。大規模な停電が起こり、信号はどこも無点灯。桃子は、車で20分もかからない道のりを、1時間かけて弟の大学に到着した。クレーンから落下した鉄骨で、弟のいた宇宙工学研究室はぺしゃんこに潰れていた。幸い、事故当時は誰もおらず、深刻な怪我をおった人は一人も出なかったそうだ。
桃子はがれきの撤去を手伝う青也を見つけて、数年ぶりに強く抱きしめた。そのあと、弟の友達を車に乗せられるだけ乗せて、彼らが身を寄せられる親戚の家とか、恋人の家とかに送り届けた。
そんなこんなで、丸藤姉弟とペットのチンチラがマンションに帰宅したとき、日はどっぷり暮れて、明かりの一つもついていなかった。姉弟のマンションも停電に見舞われ、部屋は真っ暗だ。
「姉ちゃん、昼飯も食わないで来てくれたの?」
ダイニングキッチンに入った青也が、冷めきった緑のたぬきを見つけ、申し訳なさそうに桃子を振り返った。桃子は思い出したように、強烈な空腹に襲われた。だが、停電で調理ができないうえに、保存食もない。
「姉ちゃん、魔法瓶のお湯がまだあったかいぜ! カップ麺ならすぐ食えるよ!」
魔法瓶のお湯を見つけた青也が、懐中電灯で照らしながら、赤いきつねと緑のたぬきを食卓に並べた。
「おれ、緑のたぬき食っていい? 姉ちゃんが食べ損ねた冷えたたぬきも足して食うわ」
「時間経ってるけど大丈夫?」
「へーきへーき。緑のたぬきって、時間たっても美味いからさ」
青也は手際よく二つのカップ麺にお湯を入れていく。しかし、空腹に耐えられない桃子は、もう一度タイムマシンに手を伸ばしかけた。ペットのチンチラだけが、桃子の動きに気づいて振り向いた。
そのとき、青也が桃子を呼んだ。
「姉ちゃん、こっち来てみろよ!」
ベランダにいる弟の傍に行ってみると、キラキラと輝く星空が広がっていた。桃子は歓声を上げ、青也の隣に並んだ。
「すごーい、いつもより星が見える!」
「停電してるから、星の輝きが見つけやすいんだ」
桃子と青也が停電した街の夜空を見上げていると、二人のすぐ目の前で、星が一滴、さらりと流れた。
「流れ星!」
二人の声が重なり、姉弟は顔を見合わせて笑いだした。
「カップ麺を待ってる3分間でも、何が起こるかわからないな」
「ほんと、その通りだよね」
弟の言葉に、桃子は大いに頷くしかない。悪いことが起きることもあれば、良いことが起きることもある。だけど、この3分を一緒に待つ家族がいることが、何よりも幸せだった。桃子は、タイムマシンに伸ばしかけた手を、そっと戻した。今は、使うべきときではなのだ。
部屋の明かりが灯った。停電が復旧したらしい。二人は明るい部屋に戻ると、小さな食卓を囲んで、赤いきつねと緑のたぬきの蓋をぺりぺりっと剥がした。
豊潤な出汁の香りが、ほわほわっと広がり、二人の冷え切った鼻先を撫でる。
「いただきまーす」
桃子も青也も、まずはスープを飲み込んだ。
「あー、美味しい~」
全身に染み渡る優しい暖かさ。姉弟は揃って笑顔を浮かべ、喜びの声を漏らした。
幸せな時間は、いつだってここに存在している。どんなに些細なことでも、決して省いていいことではないのだ。
全てを見ていたペットのチンチラは、こっそり笑みを浮かべ、やれやれと首を振っていた。
消えた3分間をやり直せ! 淡 湊世花 @nomin
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