盤上に眠る記憶

悠井すみれ

第1話

 毎週土曜日、穂香ほのかは同じバスに乗る。始まってから、もう三年目になった習慣だ。夏は扇で汗を冷やしながら。冬は首に巻いたマフラーに顎を埋めるようにして。最寄りのバス停から十五分ほどかけて、父が入居している老人ホーム、サクラハイムに見舞いに行くのだ。同じ目的地なのだろう、バスの車内には穂香と同じ年配の女性が目立つことが多い。彼女たち手に抱えた大きな荷物は、着替えや日用品だろう。


 孫世代と思しき少年少女が、退屈そうにマンガ本やスマートフォンに目を落としていることもある。バスの路線沿線には若者が目指しそうな施設もショップもないから、やはりサクラハイムの見舞い客だろう。穂香の息子たちは祖父の見舞いになど付き合ってくれないから、親と子、祖父母と孫の関係を想像すると少し羨ましくなることもある。




 サクラハイムは、見た目には普通のマンションとそう変わらない小奇麗な建物だった。ガラス張りの扉のエントランスは明るく、解放的な雰囲気を醸している。受付のスタッフの表情も常に朗らかで、見舞いに来た家族に、両親や祖父母をここに預けて良かった、と思わせてくれる。

 今日も、顔なじみのスタッフは穂香の姿を見るなり破顔した。


「須藤さん、こんにちは。お父様が楽しみにしていらっしゃいますよ」

「いえ、もう私だと分からないですもん。母と間違えるから機嫌良く見えるだけなんですよ」

「そんな。娘さんが来てくれたらどなたも喜ばれますよ」

「うちの父に限って、ないですって」


 入館証を首から下げてもらいながら、冗談めかして笑いながら、穂香は律儀に訂正した。こんなもの、入居者の家族に対する社交辞令だ。でも、決まり切った言葉だと分かっていても、受け流すことができないのだ。

 彼女は親孝行な娘ではないし、父に特別何かしてもらったという記憶も少ない。もちろん育ててもらった感謝もあるし、母に先立たれたことへの同情もある。でも、裏を返せばそれだけだ。

 穂香はずっと、父と疎遠だった。




「お父さん、元気だった? 穂香だよ。顔、見に来たよ」


 答えを期待せずに声を掛けながら入った父の部屋は、いつ来ても片付いている。散らかるほどのものがないのだ。

 南向きの窓からはどの季節でもたっぷりと陽光が射し込み、昼間は照明を点ける必要がないほどだ。条件の良い個室に入居することができて、父は幸運だったと思う。

 畳に換算すると十畳ほどのフローリングに、カーペットを敷いて。その片隅にベッド、真ん中にローテーブル。そこに本や新聞を広げて座椅子に座っているのが父の定位置だった。


「ん……? ああ」


 耳は遠くないはずなのに、父はぼんやりとした眼差しを娘の顔に投げて寄こした。続けて発したのは、挨拶でもない脈絡もない、短い言葉。


「『お母さん』。将棋。一局」


 ほら、やっぱり。やっぱり父は娘の顔なんか分からない。見舞いが来たのを喜びもしない。口にするのは自分の都合と欲求だけ。

 覚悟はしていても、穂香が失望と苛立ちを呑み込むのに一瞬の間が必要だった。


「──ちょっと待ってね。色々替えなきゃだから」


 認知症が入ってはいても、徘徊も乱暴な言動もなく、身体はまだ丈夫で食べ物に関する制限も少ない。しかも将棋の本を与えておけばいつまでも大人しく没頭している──父は、スタッフからは評判の良い入居者らしい。

 実の娘にしてみれば、変わってしまった──あるいは、こうなっても変わらない父の素の姿を見るのは、辛いのだけど。


「まだ? 早く指そうよ」

「まだ。暑くなってきたでしょ? 下着、さらっとしたの持って来たんだよ」


 将棋の駒を置く手真似をする父は、評判通りの溌溂ぶりだった。でも、父の頭からは色々なことが抜け落ちてしまった。仕事のこと娘のこと孫のこと。辛うじて残ったのは、母と将棋のことだけだった。父らしいことでは、ある。


「お母さん──」

「待っててってば! 私なんて下手なんだから、詰め将棋でもやっててよ」


 しつこく呼びかけられて思わず尖った声で応じると、父はむっとした顔で押し黙った。理不尽に叱られたとでも思ったのだろう。

 母なら、父の扱い方をもっと心得ていた。忙しい家事や育児の合間に対局をせがまれても、もっと優しくあしらっていただろう。母がそうやって甘やかしたからこその、父のこの有り様なのかもしれないけれど。


 穂香は奥歯を噛み締めて、父の下着や歯ブラシ類の点検に専念しようとした。言われた通りに将棋雑誌に手を伸ばす父の姿を目の端に見ると、どうしても胸が苛立ちに騒めいてしまう。父の「一番」は、いつでも将棋なのだと、思い知らされるようで。




 着替えや歯ブラシ類の点検が終わると、穂香は部屋の隅に置かれた金庫に向かう。四桁の暗証番号は一一一七。父が好んで使うこの数字は、家族の誰の誕生日でも記念日でもない。十一月十七日は「将棋の日」なのだそうだ。まったくもって馬鹿馬鹿しいと、穂香はダイヤルを揃える度に思う。

 金庫の扉を開けると、中には木の箱が鎮座している。本榧ほんがやの将棋盤に、黄楊つげ材の駒はいずれも名品で、値段をつけるとしたらゼロが六つはつくそうだ。父がよく自慢げに語っていたから、嫌でも覚えてしまっている。


 蕩けるような飴色に、細かな木目がレースのように現れる駒は確かに宝石のようで、幼いころの穂香は見蕩れたものだ。子供が迂闊に手を触れることは許されなかったという点でも、高価な宝石と同じだったけれど。だから穂香は、駒の磨き上げた輝きを遠目に見るだけだった。


 今も、心はいつの時代を彷徨っているか分からない父に怒鳴られるのではないかと思うと、無意識に身体を強張らせてしまう。


「お父さん、お待たせ」

「おっ、やっとか」


 込み上げる苦い思いは呑み込んで声をかけると、父は喜色満面で本を閉じていそいそと座椅子を空いたスペースにずらしてきた。母が対局に応じてくれたと思っているのだろう。家事を急がせたとか母の自由時間を奪ったのだとは思いもしないで──いや、今さら穂香が責めたところで遅すぎる。


「面会時間があるから、一局だけね?」

「ああ、分かってる」


 明瞭な言葉とは裏腹に、多分、父は分かっていない。自分が何歳で、どこにいるのか。娘が見舞いに来るのは週に一度、それも限られた時間だけだということ。だから、娘との会話の時間をわざわざ持とうと思わないことについて、怨みがましく思うのは間違っているだろう。それは、穂香にも分かっているつもりだった。

 別に、勝つつもりで臨む必要はないのだけど──穂香は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。将棋盤を挟んだ父の向かいに正座すれば、自然と背筋も伸びる。


 七寸もの厚みがある将棋盤をテーブルの上に置くと肩が凝ってしまうのだ。実家の和室の縁側でしていたように、正座で盤上を見下ろすのが父の好みだった。プロでもないのに、棋士を気取っているのだ。


「四枚落ちだな。先手はこっちだ」

「はいはい、お願いしますね」


 飛車と角行、左右の香車を除いた布陣の父は得意げに笑い、対する穂香は淡々と答える。親孝行なんだから、と自分に言い聞かせて、苛立ちと反発を押し殺しながら。また、深呼吸が必要だ。


 アマチュアの何段だったかを持っている父と、付き合いで駒の動かし方から覚えた母では棋力に歴然の差がある。駒落ち──ハンディキャップを設けるのも当然のことだ。それでも父の圧勝になるのだから、恩着せがましい言い方は「母」をやり込めて悦に入ろうとしているとしか思えない。父と将棋を指す母は、にこにことして楽しそうだったけれど、大人げない父の機嫌を取るのによくうんざりしなかったものだ。穂香にはずっと不思議でならなかった。こうして、父の対局相手を務めるようになるまでは。




 母は、病気で痩せ細った姿になっても鷹揚に微笑んでいた。見舞いに行くのに将棋盤を携えるとはどういうことかと、憤る穂香を前に、惚気るように。


『お父さんはねえ、将棋がないとダメな人だから』


 父は、これでも結婚を機に将棋をだいぶ控えた、らしい。特に穂香が生まれてからは、大会に出る機会も、将棋仲間と家を行き来することも少なくなった。といっても、それで父が家族サービスに努めたかというとそうでもなく、行き場をなくした将棋熱は、母が一身に受け止めることになったということだった。


『そうだね。本当に将棋だけの人だよね』

『それだけ奥深いのよ、将棋って。定跡が分かってくると楽しいし、ね。だから、お母さんだってだんだん楽しくなっていたんだから』


 娘との会話が噛み合っていないのは気付いていただろうに、母はかなり無理矢理に父をフォローしていた。自分の命の灯が消えかかっている時になってまで、残される父の心配をしていたのだ。


『だから、お母さんがいなくなってもたまには穂香が相手してあげてね』


 あの時、穂香は何と答えたのだったか。はっきりと頷きはしなかっただろう。トイレに立つとか飲み物を買いに行く振りをして、誤魔化したかもしれない。痩せた母の心からの願いなのは分かっていたから、無下に首を振ることもできなかったけれど。でも──母が心配するのも当然なほど、穂香は将棋に一切の興味がなかった。


 もっとはっきり言えば、嫌いだったのだ。




 穂香には、幼いころの忘れられない記憶がある。ぬいぐるみを抱いて、父と母の対局を眺めている場面だ。父に遊んで欲しい、なんて期待は当時すでになくなっていた。父が将棋を指している時は静かにしなくてはいけないのも、しっかりと理解していた。

 ただ、一局だけ、の約束で母を貸し出したつもりだったのに、その一局は子供には耐えられないほど長かったのだ。


『お母さん、まだあ?』


 お人形遊びがしたいのに、と。母の側から盤面を覗き込んだ穂香を、母は申し訳なさそうに膝に抱き上げた。


『ごめんね、もう少しだから』

『穂香。気が散るから静かにしていなさい』


 母と同じ視点で見下ろしたところで、本当にもう少しで終わるのかどうか穂香には分からなかった。今、同じ局面を見せられたってどうだろう。将棋の中継番組も父は好んで見ていたけれど、穂香にとっては訳の分からない暗号を見せられているようで退屈でしかなかった。そしてもちろん、当時の彼女にチャンネル権などなかったのだ。


『本当に……?』


 疑り深く呟いて──穂香は、盤面に香車の駒が残っているのに目を留めた。


 香車は穂香にとって特別な駒、彼女の駒だ。


 香車の動きに倣って、どこまでも真っ直ぐに前を向いて進めるように、という願いを込めて娘の名づけに一字を借りたのだと、父が語ってくれたことがある。その時は、珍しく穂香の手に香車の駒を握らせてくれた。だから、あれは触っても良いものだと思えてしまった。穂香は短い手を素早く伸ばし、香車に触れた。


『こうすれば良いんでしょ? これで、終わり!』


 ミニカーを疾走させる男の子を真似た動きだった。穂香が盤上を走らせた香車は、木を引っ掻く音を立てながら歩も桂馬も跳ね飛ばし、父の王将を盤外に叩き出した。王を取られたら負け、くらいは穂香も理解していた。子供の癇癪は大目に見てもらえるだろうと小賢しく計算してもいたと思う。強引にでも対局を終わらせて、これで母と遊べると思ったのに──


『なんてことをするんだ!』


 父の怒鳴り声が、穂香の甘い予想を打ち砕いた。


 ひどく叱られるならまだ良かった。でも、父はすくみ上った穂香に目もくれず、まずは盤面に傷がついていないかを顔を近づけて念入りに確かめた。それから、周囲に散らばった駒にも同じことをして、ひとつひとつ、もとあった場所に戻したのだ。

 あるていどの実力者なら、対戦した棋譜は過程も含めて記憶できて当然なのだと知ったのは、だいぶ後になってからのことだ。当時の穂香には、父は異様な機械に見えてしまって、泣くことさえできなかった。


『そこまで言わなくても……。穂香、ごめんね。お母さんが遊んであげる』


 母は、さすがに父を叱った上で穂香を抱き締めてくれたけれど。母の温もりは穂香の恐怖や衝撃を和らげてくれたけれど。でも、父や将棋への反発を拭い去るほどではなかった。




 父にとっては大したことではなかったのだろう。その後も、穂香に将棋を教えようとしたくらいだったから。小さいうちに始めないと伸びないから、とか言って。穂香にとっては大きなお世話なのに、父は気付きもしなかった。棋譜は読めても、娘の心ひとつ察せない人だった。


 そういう父だったから、結婚して子供に恵まれた後も、穂香は孫たちに将棋を教えさせたりなんかしなかった。おじいちゃんは動いたほうが良いんだから外遊びに誘ってあげて、なんて言って。


 それ自体は決して嘘でも間違いでもないはずだ。父が引き籠りがちなのは、健康に良くないのは確かなのだから。今時の子供も、放っておくとゲームやマンガにのめりこむもの。太陽を浴びさせて身体を動かさせるのは、祖父と孫と、いずれにとっても良いことだ。そのはずだった。


 でも──サクラハイムに向かうバスの中、祖父母を訪ねるらしい子供たちを見るたびに、穂香の胸を罪悪感の棘が刺す。双方気乗りしない遊びで関わらせたからか、彼女の感情を敏感に読み取ったからか。穂香の息子たちは、母と同様に祖父と疎遠だ。彼女が毎週ひとりで荷物を抱える羽目になっているのは、彼女自身のせいでもある。

 父は、当然のように孫たちのことも覚えていない。だから悲しむことも寂しがることもない。孫たちのほうでも同様だ。だから穂香だけが心を痛めて、そして一方でほんの少しだけ満足感を覚えている。




 穂香は、左から三つ目、角行の右上の歩を前進させた。後手だから3四歩、と言うべきなのだろうけど、棋譜の読み方は彼女にはいまだに馴染まない。


「居飛車か……ちゃんと勉強したんだね」


 穂香の初手を見て、父は楽しそうに呟く。若々しい口調は、実際、若いころの気分に戻っているからだということを、穂香はもう知っている。


「『瑞穂みずほ』は真面目だなあ」


 母の名を呼びながら、父は自陣から穂香と同じ場所にある歩を動かした。7六歩。ぴしり、と。駒が盤を打つ気持ちの良い音が響く。これもプロの棋士の凛とした所作に倣っているのだろう。対する穂香は、そっと駒をつまんでは動かすだけだ。例の記憶のせいで、音を立てて駒を盤に打ち付けるなんてできそうにない。


「だって、何も知らない相手と指してもつまらないでしょ」

「そんなことない。好きな人と好きなことをできるのは、すごく楽しい」


 角行の進行路を空けて──つまりは飛車は初期位置に置いて進めるのが、居飛車。相手も同じ戦略を採れば、相居飛車になる。将棋の序盤の、ごく初歩的かつ手堅い定跡らしい。逆に、序盤から飛車を振り飛車はもっと攻撃的な戦法。初心者には手が余る。


 穂香が辛うじて覚えたていどの手は、新婚当初の母のころの知識に相当するのだろう。父は今、当時の母と指しているつもりになっている。


「嘘。お父さんは将棋が一番なんだから」

「お父さん、は気が早いなあ。まだ新婚気分でいたいのに」


 長考する振りで、穂香は呼吸を整えた。深呼吸、深呼吸だ。自分が生まれる前の両親のやり取りを垣間見てしまった恥ずかしさに、顔が熱くなるのを冷まさなければ。遥かな過去を彷徨っている父には、母が照れているように見えるのかもしれないけれど。


『お父さんはねえ、将棋がないとダメな人だから』


 母の言葉をやっと本当の意味で理解したのは、父の相手をするようになってからだった。父が、穂香と母の見分けがつかなくなってからだった。

 だって、一方的な勝負では、父は納得しないから。もう一局、もう一局とせがまれ続けるのが面倒だから。だから、穂香は少しずつ将棋の定跡というやつを覚える羽目になったのだ。母の背を追うように、少しずつ。


 中年に差し掛かった彼女自身も物覚えは悪くなってしまって、情けなくなるほど鈍い歩みではあったけれど。その道のりは、父と母がかつて辿ったものだ。


「赤ちゃんの名前、将棋にちなんで良いかな。男の子だったら竜馬りゅうま、とか」

竜馬りょうまって読まれると思うけど……じゃあ、女の子だったら?」


 竜馬りゅうまは、敵陣に入った角行が「成る」駒のことだ。父にとってはそれしかないと思うのだろうが、一般的には坂本龍馬が由来だと思われることだろう。……母も、こうして父を宥めたのだろうか。


「桂か香を使った名前が良いな。──いや、やっぱり香、だな」

「まっすぐ進むから、でしょ?」

「それだけじゃない。底に打つと強い──縁の下の力持ちにもなれる」


 自陣の底に音高く香車を打ちつけながら、父は得意げに笑った。もう何度も同じことを言ったのを、覚えていられないのだ。この年になって、穂香は自分の名前の由来をもう少し詳しく知ることになった。父は、将棋を教える時に取っておこうとでも思っていたのだろうか。その機会がついになかったのは、穂香のせい、なのだろうか。


「うん……良い名前だと、思うよ」


 母の役を演じるのではなく、娘からの感想として、穂香は答えた。これだから、父との将棋は嫌なのだ。胸が苦しくて、盤面が頭に入ってこない。父の見たことがない言葉が笑顔が、彼女のなけなしの知識を吹っ飛ばしてしまう。良い指し筋なんて思いつかない。熱のこもった語り口はどこまでも無邪気で──父への反発でさえ霞んでしまう。穂香でさえこうなのだから、母ならなおのこと、だっただろう。


 父は、将棋を介してでないと会話もできない、不器用な人だったのだ。母が父に付き合っていたのも、決して仕方なくではなかった。どんなデートよりも甘い、夫婦の時間だったのだ。将棋がないとダメ、がそんな意味だったなんて。母もちゃんと言ってくれていれば良かったのに。


 でも、言わせなかったのは穂香だということも、分かってしまう。少しでも父に折れて、少しでも将棋を教わっていれば、父の中に穂香の記憶も残っていたかもしれないのに。駒が盤を打つ音を響かせながら、学校のことや友達のことをぽつぽつと語る──今も、そんな記憶をなぞることができたかもしれないのに。そんな時間は、祖父と孫にも受け継がれていっていたかもしれないのに。


 父との対局では、母は楽しそうに穏やかに微笑んでいたものだ。今の穂香は、まるで違う酢を呑んだような顔をしているだろうに──父は、やはり気付かない。母との思い出はそれだけ甘いのか、浸りきって覚めようとしない。


「穂香が香車の駒で遊んでたんだ。自分の駒だって分かるのかな」

「まさか。たまたまでしょ。……よく怒らなかったね」


 穂香自身が覚えていない記憶は、いったいいつのことだろう。父は、その時は怒鳴らなかったのか。最初に聞かされた時、穂香は耳を疑ったものだ。父の崩れ切っただらしない笑みも、目を疑うようなものだったけれど。


「まだ赤ちゃんだからね。ああ、でも、呑み込んだら危ないか。触らせないようにしないと」

「……そうだね。次に見つけたら叱ってあげてね」


 彼女が上達する分だけ、父の記憶も進んでいく。棋譜を正確に覚える記憶力は、対局相手と交わした会話もしっかりと脳に刻んでいるかのようだ。穂香の拙い打ち筋は、母がいつかの機会に繰り出したそれと重なるのだろう。ここにこの駒を指した時にはこう言ったな、と。きっと、父はそんな覚え方をしているのだろう。


 父は何につけても将棋を中心に動いて考えていた。だから、記憶だってそうなのだ。


 そう気付いたからこそ、穂香は今さらながらに将棋を勉強している。駒の動かし方、定跡や基本的な戦法。こう攻められたらこう受ける、こう守る、こう切り抜ける。

 苦しくても恥ずかしくても後悔に苛まれても。今からでも、父の本当の姿、母と交わした言葉を知りたいから。それに──可能性はごく低いかもしれないけれど。母の背を追って父に挑み続ければ、「あの日」の記憶に辿り着くことができるかもしれない。そして──


「……穂香、泣いてたなあ。あんな大声出すつもりじゃなかったんだ」


 香車に触れた父が、今度は盤に打ち付けずに深く溜息を吐いた。香という文字が刻まれたその駒こそが、慈しむべき我が子ででもあるかのように。当の娘は目の前にいるのに、まったく気付かない風で、ひどく悲しげな表情で。


 安堵のような、驚きのような。名前の分からない感情に打たれて、穂香はしばし凍り付いた。


「お父さん……」


 やっと、あの日の記憶を手繰れただろうか。本当に? 期待と疑いが相半ばして、うまく息をすることができない。

 でも、確かめるためには母を演じて答えなければ。少しの苦しさを感じながら、それでも穂香は微笑んだ。母がきっとそうしたように。「この時」が来たらそうするのだと、決めていたのだ。


「──夢中になっていたからでしょう。お父さんはいつもそうなんだから」

「穂香、怒ってるよなあ。お母さんには何か言ってた?」


 しょんぼりと肩を落とす父と裏腹に、穂香の胸は喜びに高鳴り始めていた。父がちゃんと娘のことを気に懸けていたと、やっと確かめることができた。不器用さゆえに口にも態度にも出せなかっただけで、ちゃんと悪いと思ってくれていた。

 盤面に眠っていた記憶を、穂香は掘り起こすことができたのだ。


「大丈夫よ。いつか、分かってくれるから」

「そう、かな……」

「うん。親子だもの」


 母が実際には何といったのか、穂香は知らない。さすがに、少しは叱ったのかもしれないとも思う。でも、今は彼女の言葉で答えて良いはずだ。穂香が将棋を知っていたら、そうなるはずだったんだから。


 穂香──というか母の? ──言葉に安心したのか、父は生き生きとした指し方でその一局を制した。


「お母さん、えっと……?」


 盤上に並んだ駒に手を伸ばして、父は穂香の顔を窺う。並べ直しても良いのかどうか、と。面会時間のことなんて、やはり忘れてしまっているのだ。期待と名残惜しさが相半ばする表情の父は、かつての穂香なら苛立ちを覚えていたかもしれない。でも今なら、可愛いとさえ思うことができた。しかたないんだから、と。母と同じように、苦笑して。


 思えばずいぶん小さくなってしまった父に、穂香はもうひとつ、用意していた言葉を贈る。


「お父さん……もう一局、お願い」


 母を演じての台詞ではなく、娘からのおねだりだ。父に区別がつくかどうかは関係ない。彼女の気持ちの問題だ。


 これでやっと、何のわだかまりもなく父と将棋を指せる気がするのだ。

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盤上に眠る記憶 悠井すみれ @Veilchen

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