俺は猿だ、去らないけど
木本雅彦
猿の噺
俺は猿だ。名前はない。去る去るといいながら、いつまでたってもここにいる。
嘘つきの猿だ。
嘘つきの猿は、やはり猿以下で、猿以下ということはヒト以下なのだろうとは思うが、では嘘つきのヒトと嘘つきの猿とどちらが上なのか下なのかという話になると、嘘も方便という言葉をいかに上手に使うかにかかっている。その点、器用さではヒトのほうが上回っているので、分が悪い。しかし、嘘をついて生きていかないといけないヒトは、おそらく不器用だと思われるので、器用なサルと不器用なヒトとの戦いになり、これは一進一退の攻防を繰り広げるに違いない。
勝てる余地がある以上は、俺は去らない。猿ではあるが去らないので、再び嘘をつくことになる。
嘘というのは、なかなかいいものなので困ってしまう。つくたびに快感を覚える。つくことが生き甲斐になるくらいなのだから、嘘というのは麻薬と同じ作用があり、これをやめたとしたら死んでしまうだろうと思うほどに、なくてはならないものだ。
そうはいっても、あまりたくさんついてしまうとよくないので、たまには本当のことを言おう。
世界が終わりに近づいている。
ああ、待ってくれ、嘘つきの猿が言うことなんか信じられないと言うのだろう。分かる分かる。俺だってそんな話を聞いて、「本当かい?」と思ったくらいだ。
世界の終わりといっても大げさに聞こえないだろう。何せもうすぐ太陽が爆発して終わるというのだ。こんなに簡単な終末宣言は初めて聞いたぞ。どう考えてもおかしいのだが、この世の中には変な人間が多くてね。そろそろ本気で滅びようとしている奴がいるのかもしれないし、ひょっとすると宇宙の彼方でとんでもない戦争が勃発していて恒星爆発爆弾を投下して終わらせようと画策しているのかもしれない。太陽が爆発するということは、地球上のあらゆる生物がすべて死に絶えるというのか。とにかく何かが起こるらしい。あるいは何かが終わるらしい。
そしてそれがいつのことなのか分からないそうだ。
「分からなければ仕方がないなあ」と言ったところ、今度は別の猿が、「でもだいたい分かってるんだよ」と言い出した。
「分かってればしょうがねえ」と言ったものの、「でもちょっと気になってくるじゃないか。どんなことなんだい?」と尋ねると、またしても、「それが分からないから仕方ないんだよ。そのうちニュースになるよ」と言われた。
そこで仕方なく待っているのだが……一向にそういうニュースはない。そして、口々に適当なことを言っていた猿たちは、みんなどこかへ行ってしまった。去ってしまった。猿だけに。
でも俺は去らない。猿だけど。去らない理由?それは自分で考えてくれたまえよヒトたち、考えることは得意なんだろう。
猿には猿の仕事があるというものだ。たとえば嘘を考えることなどだ。
「世界の終わりが近づいています。あと5年しかありません!」などとテレビで言われてしまった日には、嘘の好きな連中はすぐに集まって、ああでもないこうでもないと話し合わなければいけないわけだ。しかし実際にはそんなことはなく、テレビ画面の中は空っぽで、ただ時間だけが進んでいくのだった。
それならばこちらから出向いて行ってもいいんだけれど、どこに誰がいるのかが分からない。世界を終わらせようとしている、何者かが、何者なのかわからない。者なのか物なのか、それすら分からないという体たらくだ。
世界の終わりは嘘じゃない。5年は嘘かもしれないけれど。嘘かもしれないというのは、そんなに時間の猶予はないだろうということだ。
世界は本当に、まもなく終わる。
「お猿さん。今日も元気に嘘をつくかね?」
1人の老女に声をかけられたので、俺は尻尾を振り振りそちらへ向かった。俺のような存在に話し掛けてくる人間など珍しい。大抵の場合、「こっちに来るんじゃねえ」とか、「あっかんべーだ!」というようなことを言われたりするので、話しかけられるだけで嬉しいものだ。嘘だけど。
「俺は猿じゃないぞ」
「いい嘘つきっぷりだねえ。あんたは頭の上から尻尾の先まで、どう見ても猿さ」
俺は鼻の下を掻いた。これは嘘だ。俺は嘘つきの猿である。
「それで今日は何の用かな」
俺は言った。もちろんこれは嘘だが、この人は猿の話なら何でも聞きたがったので、猿にとってはとてもありがたい存在だった。だからたまに、本当のことを話してあげることもある。これは嘘ではない。この老女はヒトの中でも、ちと違った風情がある。だから嘘をつく必要なんてないだろう。
嘘をついては申し訳ないし、それに嘘つきの俺は、嘘以外のことについてはあまり喋りたくなかったのだ。
老女は杖に両手を預け、腰を落として立っている。顔には笑みを浮かべているものの、その目は鋭く光っているので俺は怖くなった。嘘をつく必要のない俺の尻尾はぶるりと震えた。
「猿や。世界は終わりかけているのだろう?」
「ああ」
「世界が終わると、どうなる?」
「……」
「次の世界が始まるのさ。これは何かのオマージュでもなければ、冗談でもない。世界は始まり、育ち、衰退し、終わる。そして新しい世界が始まる」
「その中で、俺やあんたは何をすればいい?」
「何もする必要はないよ。世界の終わりが近づいていることを忘れ、普段通りに暮らしなさい。嘘をつくことも忘れてはいけない」
嘘かあ、と俺が呟くと、嘘だよと言う。何のことはない。この老人は何も決めない。ただのお使いだったようだ。俺とふたりで世界の行く末を語り明かす時間が、この先しばらく続くのかと期待したが、それもままならない。
お使いというのは、軽く見過ぎかもしれない。それなりの力は持っているだろう。
老女の目が怪しく輝いているように思えたので、俺は踵を返して逃げ去った。尻尾は丸出しのまま、猿走りで逃げるしかなかった。後ろからは何か聞こえたような気がした。何だったのだろうか。俺は振り返る勇気はなかった。
俺は嘘をついた。猿だけれど去らないと言っていたおれは、眼光ひとつであの場を去ってしまったのだ。
3年経った。
相変わらず、世界に終末が訪れるという雰囲気はない。他の猿たちの姿もなく、俺ひとりが街角に立ってヒトたちの会話を聞き耳立てている。
俺の尻尾が、ふと気になったことがあった。
尻尾の先が欠けていることに気付いたからだ。何でだろうなあ、と思っていると誰かの声で、「それは嘘の証拠じゃないか」と言った。
嘘の証拠とは、つまり俺自身のことなのだが、どうして尻尾なんかに証拠が残っているのか、俺には全くわからないのであった。
猿にも分からないことはある。
たとえば、明日の何時何分に世界が崩れ落ちるのかといったことだ。嘘だけれど。
俺は猿だ、去らないけど 木本雅彦 @kmtmshk
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