煮干しラーメン

あやえる

 

 

 足立区。暗い線路沿いのシャッター街。そこには小さなラーメン屋がある。赤いのれんに白字で、“煮干しラーメンとだけ書かれていた。

 のれんのその扉の下には、まるで障子の代わりにガラスをはめたような、今にも外れそうな木材の扉。その扉の向こうから男の怒鳴る声がした。


「ふざけるな!」

「ふざけてなんかいねぇさ。」


 店内には、やや癖のある黒髪のスーツのサラリーマン。

 そして、いかにも“頑固おやじ”と、言わんばかりの頭にハチマキを巻いた背中の丸まった店主の老人がいた。

 

「不味いにも程がある!いくら魚介ベースとはいえ、生臭い。おまけに出汁の煮干しのカスが浮いてるじゃねぇか!」

「お客さん。うちにはのれんにも、店内にも書いてある通り、煮干しラーメンしかねぇんだ。文句あるなら残して帰りな。」


 サラリーマンは、身体をワナワナと震わせ、席に座って再びラーメンをすすり出した。


 すると、三分の一程食べた頃、サラリーマンは目を見開いた。


 生臭い。しかし箸が止められないのだ。食べながら何故かサラリーマンは今までの人生等、色んな事を思い返していた。ラーメンの不味さの中に自分の人生を重ねられた様な気分になり、気がつけばサラリーマンは涙を流してラーメンをひたすらすすり、最後はスープまで全て飲み干していた。

 店主はニヤリと笑い、

「お客さん、お味は?」

「不味い。でも……美味かったです。」

「人生とそのラーメンは一緒さ。不味いから人生なんだ。普段どいつもこいつも上手いもんばっか食べて贅沢して大切なこと忘れちまうんだ。でもそれでいい。だが、たまにつらい事や、何か逃げ出したくなったらまたこの煮干しラーメン食いに来な。」

「本当に不味い。けど、このラーメンの味は、おやっさん。アンタ自身だったんだな。」

「へへっ。嬉しい事言ってくれるじゃねぇか。」

「嫌なことなくてもまた来るよ。お愛想さん。ありがとう。」

「こちらこそ、ありがとうございました。」

 

 サラリーマンは店の外に出ると、思いっきり身体を伸ばした。そしてラーメンで膨れたお腹をさすり歩き出した。


 店内に取り残された店主。ゆっくりと歩きながら棚から日本酒の瓶と小さなコップを取り、ゆっくりの店内の一番奥の小さな席に座る。そこには小さな位牌があった。コップに日本酒を注ぎ、位牌に向かって軽くコップを傾けた。

 店主は、渋くてシワだらけの顔をさらにシワくちゃにして一口、日本酒を呑み込んだ。


「『また来るよ』……か。この店が先か、俺が先か。そろそろこの“煮干しラーメン”ののれんも、俺自身も限界が近づいてらぁ。なあ、おめぇさんよ。そろそろ、のれんも俺も、店仕舞いの時期じゃねえかなぁと思うんだよ。そうだろ?

 この不味い煮干しラーメン。ありがてぇ事に、常連さんや、今日のサラリーマンの兄ちゃんもきっとまた来てくれる。わかってるんだ。わかっちゃいるけれども。……後にも先にも、最後まで、この不味いラーメンを最初の一口から最後の汁一口残さず平らげて『美味しい』しか言わなかったのは、おめえさん。アンタだけだぜ?」


 店主の瞳はかすかに潤んでいた。


ーーーーー


「上手い!」


 この日は、金髪でオールバックの十五歳位の声変わりをしていない白いシャツに制服の少年が来ていた。


 店主は目を見開いた。いつもならラーメンを食べるやいなや全員「不味い。」と、言うのに。店主は動揺したが、新聞に目を向けていた。


「おっちゃん!やべぇよ!上手いよ、このラーメン!そりゃ長くこの店続くわけだ!本当は客たくさん来てるんだろ?!」

「まぁ。」


 まだ、若いこの小僧。ラーメンの味や人生なんぞまだわからないだろう。


 なのに、このラーメンの味がわかるだと?!

 少年は、ラーメンを汁も残さず完食した。


「はーっ!食った食った!上手かった!」


 店主は、更に目を見開いた!

 

「おっちゃん。ひとりで店やってんの?」

「まあな。」

「大変じゃねぇの?家族とかは?」

「息子がふたり。でも店を継ぐ気はないみたいだし、俺も継がせるつもりもねぇよ。」

「じゃあ、いつかこのラーメン食えなくなっちまうのか?」

「いつかもなにも、もう間もなくだ。もう店を閉めようと思ってる。」

「……そんな。」


 少年は、少し下を向き、顔を上げると店主に話しかけた。


「俺さ、中卒で頭悪ぃけど、体力だけはあるんだよ!俺、このラーメン食えなくなるの嫌だ!俺、この店とラーメン継ぎたい!」


 店主は驚いた。


「おめぇさん、何言っていやがる。」

「言葉のまんまさ!俺、子供の頃から親の顔ろくに見たことねぇんだ。

 家に母さん帰って来たら、すぐ俺の顔ぶつから顔見えねぇし。

 コンビニのカップラーメンとかお菓子とかそんなんしか食ったことねぇし。

 でも学校行かねぇと母さんに連絡行ってバレちゃうからとりあえず学校行って。学校行けばいじめの標的だから、悔しくて殴り返したりしてたら地元のやべぇグループに目ぇつけられて。んで、そいつらの仲間になって。中学もろくに行ってねぇし。この制服も着るもんねぇから着てるだけだし。でも喧嘩ばっかりなのももう嫌なんだ。

 俺さ、このラーメン食べた瞬間、すっげぇなんかわかんねぇけど泣きそうになったんだ。

 すげぇよ。このラーメン。これが“優しい”って、事なんかなって思えた。

 初めて、なんかこう、胸の奥が熱くなったと言うか……。」


 店主は、思い出した。

 唯一、このラーメンを最初から最後まで食べた唯一のお客さん。自分の女房。

 彼女は、雪の降る日。薄着でボロボロセーター。目や顔には新しい傷だけではなく恐らく古い青アザもあり、目も殴られたのか泣いていたからなのかパンパンに腫れていた。

 店主は手当をしようとしても拒まれ、警察に連絡する様に話しかけるも拒まれ、

「煮干しラーメン、お願いします。」

と、涙を流して彼女はラーメンを頼み、

「美味しい。美味しい。本当に美味しい。」

と、更に涙を流してラーメンを最後まで食べきったのだ。


 彼女は、一年後またお店に現れた。店主は、彼女が死ぬまで何があったか聞かなかった。彼女もそれを話そうとしなかった。


ーーーーー


 店主は、女房と少年を重ねていた。


「俺には時間がねぇ。覚悟は……出来てんのか?」

「俺には、行く所も帰る所もねぇんだ。覚悟もクソもねぇよ。」

「おい!飯屋なんだ。“クソ”なんぞきたねぇ言葉はご法度だ。」

「おっちゃんの言葉遣いだってめちゃくちゃきたねぇじゃねぇか!」

「かっかっかっ!言ってくれるじゃねぇか!」


 ふたりは思いっきり笑った。


ーーーーー


 その後、少年は店主の全ての指示を受け、ラーメンや営業や経営を教わった。少年は若かった為、店を毎日掃除した。


 店内も店外もすっかり綺麗になった。

 また、少年はやはり地元でも有名なグループにいた為、彼の友人達がよくラーメンを食べに来てはSNSで拡散されていった。


#煮干しラーメン

#不味い

#でも食べたくなる


 店を閉めようとした瞬間、客足は途絶える所か増え始め、“煮干しラーメン”に奇跡が起こったのだ。


ーーーーー


「父さん。ただいま。店すげぇ綺麗になって客も増えて大繁盛じゃねえか。」

 

 ある日六十代位の男性が、閉店後に来た。どうやら店主の長男坊。店に入るやいなや長男坊は、老人ホームのパンフレットや葬儀場のパンフレットを店主の前に開いた。


「ほら、限界来る前に父さんの意思で最後の場所も、葬儀なんて最後の買い物だから自分で決めたいかな、と思ってね。あとこの店の土地権利とか親戚含めての遺産分与とか色々あるだろ?」


 かなりの早口で長男坊は、話を進めた。まるで長男坊というより、セールスマンの様だった。

 

 店の奥から片付けや掃除を終わらせた少年が出てくると長男坊は驚いた。それはそうだ。自分の孫、もしかしたら孫よりも幼い少年が腰に汚れたエプロンをして出てきたのだから。


「あ、こんにちは!」

「こ、こんにちは?」

「長男坊だ。」

「あ、俺、司って言います!おやっさんにはラーメンでも、店に住み込みで働かせてもらっていて、めちゃくちゃ……あ、大変お世話してもらって……お世話になってます!」


 たどたどしい挨拶をして少年は、頭に巻いたハチマキをとり、深々と頭を長男坊に下げた。


「父さん。その……彼は?」

「帰る所がねぇって言うし、この煮干しラーメンを最初から最後まで『不味い』と言わず、『美味い』と、言って食ったんだ。お前の母さんだけだと思ってたのによ。……なぁ、俺の遺産とこの店、コイツに全部継がせられねぇかな?」

「は?!未成年だろ?」

「なかなか帰ってこねぇ。今だってなんだ?家族とゆーよりよく来るセールスマンとお前は変わらねぇ。なら、コイツに全部残してやりたいのさ。お前頭は昔から切れるんだ。コイツが成人するまで助けてやってくれよ。」

「本当の家族より、情に流された子供に委ねるだと?!ふざけんな!」


 長男坊は、顔を真っ赤にした。


「……はぁ。また来るよ。その時までに父さんも頭を冷静に冷やしておくんだな。司くんだっけ?施設とかそういう所に行った方がいい。いや、俺から連絡する。」

「や、辞めてくれよ!俺、中卒だからよくわかんねぇけど遺産とかそんなんいらないから!この煮干しラーメンが好きなだけなんだ!」


 恐らく、かつての少年なら長男坊に殴りかかっていただろう。それなのに、少年は長男坊以上に落ち着いていたのだ。


 店主は、自分の目頭が熱くなったのを感じた。


 店主は口を開いた。


「家族内で遺産問題で裁判なんぞしても、なんの意味もないぞ。コイツは確かに未成年だ。しかしもう社会に出て働ける年齢でもある。冷静になるのはお前のほうじゃないか?」

「冷静も何もイカれてる!話にならない!また来るよ。父さんこそ色々冷静になっとけよ!」


 長男坊は、店を出ていった。


「おっちゃん、俺。」

「なる様にしかならん。それが人生だ。」


ーーーーー


 月日は経ち、少年は背も伸び声も変わっていた。

 店主の背中は更に丸くなり、顔のシワも増え小さくなっていた。

 店はもう少年一人で回せる様になり、店主を少年を信頼し、全てを託していた。


 店にいつぞやのサラリーマンが来た。


「おやっさーん。」

「おう!」

「いらっしゃい!」

「お孫さん?金髪でカッコいいねぇ!」

「ありがとうございます!」

「孫じゃねぇが、まあ孫みてぇなもんさ。」

「お?珍しい。頑固でシワくちゃなおやっさんが笑って更に顔シワくちゃにしてやがる。」

「うるせぇ!」

「なぁ、おやっさん笑わないだろー?」

「笑わないですね。いや、もし笑っていたとしてもこのシワくちゃじゃ、気が付けないのかもしれません。」

「ははは!ちげぇねえや!煮干しラーメン一丁!」

「うちには煮干しラーメンしかねぇだろが?!」

「店主、ノリツッコですか?」


 少年はいつからか店主の事を「おっちゃん」ではなく「店主」と呼ぶ様になっていた。


「司、店主はもうおめぇさんだよ。」

「店主、それは……違います。」

「荒れ者だったお前もだいぶ丸く立派になったもんだ。」 


 ずっと否定や暴力。優しさという言葉から遠い人生だった少年。そんな少年にも仲間がいた。認め合い、連れ合い。しかし仲間とは違う親という名の温もりを少年は店主から薄々と感じてはいた。


 しかし、それを改めて言葉にされた時、少年は頭に巻いていたハチマキ外し、「すみません。」と、思わず涙して顔を隠した。


 その姿に店主は更にシワを寄せて微笑み、サラリーマンも思わずほころんでいた。


 ラーメンを出されてサラリーマンは驚いた。


 美味い。全く臭くない。煮干しが……ない。


「おやっさん?ラーメン、上手いよ。本当にこの店もラーメンもこの子に委ねたんだな?でも俺……あの生臭い煮干しラーメンが食いたくて来たんだよ。」

「あ?」

「俺の知ってる煮干しラーメンじゃねぇよ……。」

「どういう事だ?」


 店主が厨房に入ると、ラーメンの麺の太さは細くなっていた。


 汁を見てみると、匂いはそのままだが煮干しがない。


 どういう事だ?!


ーーーーー


 閉店後、全ての片付けを終わらせた少年が店主の元に現れた。

 

「店主。これから夕飯作りますので。」

「いや、そこに座れ。」


 少年は、ハチマキとエプロンを外し、店主の、前に座った。


「おめぇさん。このラーメンはなんだ。」

「……店主。」

「おめぇさん、俺の……俺たちの煮干しラーメン継ぎたかったんじゃなかったのか?」

「……店主。俺!」

「俺がおめぇさんに聞いてんだ!」

「店主……すみません。でも俺、この煮干しラーメンが好きだし続けて行きたい。でも、常連さんだけでは限度があるんです。常連さんと新しいお客さんいての経営じゃないですか!」

「だからって……おめぇ。」


 新しい時代。終わりゆくもの。生まれてゆくもの。走り続けるもの。


 ここは足立区。暗い線路沿いのシャッター街。そこには小さなラーメン屋がある。赤いのれんに白字で、“煮干しラーメンとだけ書かれていた。

 のれんのその扉の下には、まるで障子の代わりにガラスをはめたような、今にも外れそうな木材の扉。その扉の向こうには、背の高い金髪の少年と、いかにも“頑固おやじ”と、言わんばかりの頭にハチマキを巻いた背中の丸まった店主の老人がいた。


☆★☆Fin☆★☆

 

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