記述

伊豆クラゲ

記述

 これは私が、記者を辞めるきっかけになった事件で、本当なら二度と思い出したくもふりかえりたくもないものだ。


 しかし私は決心して、もう一度それに向き合うことにした。公には公表しないと決めた取材内容だったが、もしかしたらこれを世に、出さなくてはならない時が来るかもしれない。そして、当時このことから、逃げてしまったことへの謝罪の意思と、彼へのけじめとして、やり遂げなくてはならないのかもしれない。


 記憶をたどってもそこそこの物を書ける自信はあった。だから、今こうやって彼への取材内容に私の見解加えて、書き記そうと思い手帳を取り出したのだ。


 しかし、事実を記すのが、記者としての仕事だ。だからそこに、曲解や間違いがあってはいけない。怯えながらも私は、恐る恐るあの時のボイスレコーダーを取り出して、彼との会話を再び聞き直すことにした。彼の想いを無下にはしたくない。だからこそ私には責任があるのだ。

  

 もう、数年前の出来事だが、彼と話した時のことは今でも鮮明に覚えている。

 

 彼に直接会うまでは、ただの狂ったやつだと思っていた。しかし取材を初めてすぐの彼は、どこにでもいる、ごく普通の人間だった。ご立派な記者であった僕は、そのことに内心喜んでいた。初めから異常者だったら、そこで終わってしまうが、一見は普通に見える人間が、時折見せる異常性ほど民衆が、興味をそそられる物はない。この時の私はいい意味でも、悪い意味でも生粋の記者だったのだろう。

 

 私は彼が無作為に選んだ、唯一取材を許された人物だった。私は今世間が最も注目している、事件の取材を独占出来ることに大変浮かれていた。人を救うはずの医者が、多くの人を故意の医療ミスで殺していたのだ。しかも、それがなかなか世間に露見せずにいたのだから、尚更興味深い。記者は真実を知りそれを世間に公表するのが仕事だ。そこにはまず、真実を知りたいという、根底的なものが無ければならない。今までも悲惨で目も当てられないような事件や、事故など多く見てきたが、今回のは、それ以上に異質だった。

 

 事件起こすきっかけを知った時、私自身も衝撃を受けたが、これを世に公表してしまったら感化されてしまう人が、続出してしまうのではないかと思い、公表を取り下げることにした。

 

 彼はたまたまというべきか、必然というべきか、その答えにたどり着いてしまった。しかし、まだ、たどり着いていない人が多くいる中で、彼の影響でたどり着いてしまうかもしれない。そうなったら連鎖で、もっと悲惨なことが起こることは目に見えている。おそらく、多くの人が見当がつくだろう。何か社会的に大きく揺れるほどの、事件が起きた後は、必ずといっていいほどその愉快犯が出てくる。


 今は幸運なことに、元になった事件を超すようなことは、起きていない。しかし火が付けばさらにさらに強い火へと、成長していくのは当然だ。事件の全容を、公開しないからといって、同じような事件が起きないとも限らないが、少なくともそれを遅らせることは出来るはず。私はそれを願って、自分の利益よりも社会を優先した。しかし、記者としては失格だ。それは正しいことだと今でも思う。いや、どちらも正しく、どちらも正しくないということが、自信を持って言えるようになったと、いうべきかもしれない。


 しかし、当時の私がそのことについて、追及され続けていたら、民衆に対して納得させられるだけの言葉が、出てきたかは疑問が残る。あの時は、それらしいことを言って、早く逃げ出したいという気持ちだけが、先行していた。私は幸運にもその後すぐに記者としての活動を止めたこともあり、しつこくバッシングされる続けることはなかったが、当時は、まあまあの数の批判は受けた。


 それも、そのはずで、記者というものは、書かれた側、それを読んだ側、その両方を納得させることは、難しいと考えている。刑事事件なら、尚更のことだ。それは簡単な出来事ではないから、余計に難しいのである。

 

 ただ一人その事実を知ることを許された人間にも関わらず、それを公表しないと決めたこと。これらは私に、一生消えないであろう、後悔と罪悪感を与えた。しかし唯一の救いは、これを公表しなかったことによって、多くの命が救われたであろうことだ。実質私は多くの人の命を、救ったのと同じだと自分に言い聞かせ、強引に納得させた。こう思うことによって私は少しでも、唯一あの話を、聞いてしまった者としての救いを得ている。


 しかし私自身彼がやったことを、完全に否定しきれない、ということもきちんと述べておく。何人もの人を彼は殺した。しかし彼がそう、ならざるを得ない、状況だったことも理解はできる。結果として彼は患者が望む通りの処置をしていたのだから。だからこそ、5年間という期間で38人もの人が帰らぬ人になってしまったのだ。それを後押ししたのも、彼がごくごく普通の人であり、医者として優秀で、いい人というレッテルがあったからだろう。


 もともと彼には残虐性が秘められてはいたと思うが、それを目覚めさせてしまったのは、間違いなく現代の社会構造だと言える。こんなことを言ったら、反感を買うかもしれないが彼も被害者の一人なのだろう。幼少期の挫折を味わい、それでも、自分の進むべき道を見つけ、それのために懸命に努力をした。医者になってからも、努力を怠らず、人のために尽くしてきた。


 そんな人間のたどり着いた先が、このような場所だと考えると目も当てられない。同情する。それに、彼の事情を知り、彼の心情を知ってしまえば、それに賛同するという人も少なくないということは、容易に考えられた。記者という職に身をしているから、余計に肌で感じるが、おそらく職種関係なくこの日本で、同じような境遇にある人は数多くいると思う。


 そして、それは誰もが被害者にも、加害者にもなりうることだから余計である。さらにこれを後押ししているのは、現在の日本の排他的であるところだ。無知で馬鹿な人たちは徒党を組み、自分たちの正義を振りかざす。それにさらされる人の痛みも気持ちも理解せず。人を批判するということ自体に意味を見出している。悪いことをしたかもしれない人や、気に食わない奴は痛い目にあって当然だ、という風潮にある。


 それが本当に、見ず知らずの人が、罵倒をするに値する行為なのかも、考えず行う。今回の事件が日本の社会構造と日本人の精神的幼稚さが引き起こしたことなのだから、大義名分を得た人たちの起こす火は、簡単に消えるものでは無い。

  

 


 ・まず初めにあなたの名前を教えてください

「●●●です」


 ・あなたが今回の事件を語る上でフリーの記者に一人だけなら了承すると、言ったことにより私が選ばれました。その意図を教えてください

「不特定多数の前で話すと、その一人一人が自らの解釈で記事にされるのが嫌だったからです。私が言いたいこと、思っていることを、嘘偽り脚色なしで書いてもらうには、一人の人ときちんと、対話をすることが最善だと思いました。多くの人が記事にすると売れるために、他と違うことを書こうとする人が出るのを防ぐのと、一人の方が責任重大だから変なことできないと思ったからです。後、フリーの人に限定したのは、企業が絡むと隠したくなるようなことも出てくるかなと懸念したからです」


 ・なるほど。ありがとうございます。では、少し本題に入っていこうと思うのですが、まず初めに今回の事件は今のところ警察が公開した情報以外は報道されていませんが、知っている限りでかまいませんので、報道されている中でこれは事実とは異なることはありますか

「いいえ、私の知っている限りでは、そのようなことはありません。ですが、警察は「動機」の部分しか言わないため不十分です。私にとっては、その動機に至った「理由」の方が重要なんです」


 ・間違いはないけど、十分ではないということですね。先ほどおっしゃった動機という点ですが、ご自身の中にある残虐性というものに自覚はありましたか

「いいえ。全く持ってなかったですし、今もその自覚はありません。私は悪いことをしたという自覚は無いですから」

 

 ・なるほど。ではあなたが、殺した人やその遺族に対して謝罪の思いもないと

「殺した本人と、とやかく言ってきた人に対しては特に何の感情もありませんが、遺族の方で私に、害をなさなかった人に対してはあります。その方々にとっては、大切な人を殺して申し訳ない気持ちは持っています。」


 ・今回の件ですが、これだけの人数を殺しているということは、通常の感覚の持ち主ではないと、予想してします。そのような感情を持ちながら、きちんとした治療は行えていたのですか

「何か勘違いしているようですが、私は医者です。病気や怪我で困っている人を治すのが仕事です。心の底から、私を頼ってきてくれた患者さんを、邪険に出来るような人間ではありません」


 ・なるほど、医者としての使命感は、きちんと持っていたということですね。では、なぜこの事件がなかなか明るみに出なかったと考えますか

「それは単純な話で、私がわざわざそれを口外しなかったのと、個人でやっている医者だったからだと思います。それに私は基本的にはきちんと治療していたし、私が殺した人間の中で聖人君子はいなかったので、そんな変な噂がたっても、信憑性に欠けて信じる人が、少なかったからだと思います」


 ・ありがとうございます。では一度今回の件とは離れるのですが、幼少期はどんな少年で、どんな生活を送ってきましたか

「僕は正義のヒーローになりたかったんです。アニメや、マンガに出てくるような、誰もが尊敬してあこがれる。ヒーローのような人間になりたかった。誰にでも平等で弱い人たちを助けるようなそんなヒーローに。だけど、そんなものになれないというのは、意外と早いうちに気が付いたんです。小さい頃は自分の世界は恐ろしいほど狭く、成長すればするほど世界は広くなっていく。それを行ける場所が増えたと喜ぶことが出来たらどれほど、楽になれるだろうと、恨みに似た感情すら抱いきました。しかし、僕にはそんなことを思うことはできずに、ただただ広がる世界にいつもおびえていた。自分の限界と現実を知り、憧れには絶対に、届かないことに絶望するだけの毎日だった。世界が広がって初めて、自分の小ささを知り、自分の存在の薄さを感じました」


 ・現実を知るということは、とても恐ろしいことですよね。特に子どもから、大人に変わる瞬間の物ならなおさらですよね。僕にも似たような経験があります。では、なぜそこから医者になろうと思ったのですか

「もっと僕を見て欲しかった。いろんな人に知ってほしかった。だけど今更僕に皆から注目を集めるようなことは、できないとも分かっていた。どんなことを、どんなに頑張ってもその分野においてトップにならないと、誰も注目してくれないし、見向きもしてくれない。それを理解することは、簡単だが納得することは、絶望を受け入れることと同じであった。だから、勉強だけは頑張ったんです。文字通り死ぬ気で頑張れば、どうにかなる世界だったから。僕に残された唯一夢を叶える方法が、医者になることだったんです。そんな挫折の想いが形になり、医者になることが出来ました」


 ・おそらく計り知れないほどの苦労の末だったと思いますが、ご自身では医者という職業は向いていると思いましたか

「子どもの頃の夢を大人になってまで、追っているのですから、それなりの苦労はあって当然と思っていたので、辛いと感じることがあっても、辛いことが嫌だと思うことはありませんでした。医者に関してですが、僕の周りを見る限りは向いている方だとは思いました。何か、意志があって医者になろうとして、なれる人はごく少数ですから」


 ・なるほど。とても強い方なんですね。ご自分のお子さんが医者になるなんてご両親はとても喜ばれたでしょう。ご両親も医者なんですか

「いいえ、全然違う仕事です。だからこそ、両親は親戚中に自慢するほど喜んでくれた。頭のいい両親ではなかったし、裕福な家庭でもなかったです。ただ、優しさだけが取り柄の親でした。両親がそんな人たちだったから、僕のために援助してくれる親戚がいて、医学部というお金のかかる場所に行けたんです。何も持ってこないで生まれたと思ってましたが、親の日ごろの行いのおかげで、僕の願いが叶う最後の手段を選択することが出来ました。」


 ・いいご両親ですね。ではなぜ、ご両親と共に掴んだ、あなたの長年の夢を叶えた、医者としての仕事を悪用して罪のない人を故意に死亡させたんですか

「僕はさんざん警告を鳴らしてきたんです。医者として。人間として。どんなことに対しても言えることですが、その物事に特化した人の意見よりなぜ、ただ声が大きいだけの素人の声を信用するんだと。僕がどんなに説明しても、理解してくれない人が多かった。医療は、人間が生きるか死ぬかの、一番大事なことなのに」


 ・それはつまり、あなたの医療行為に、反論する人がいたということですか

「そうです。情報っていうのは、後出しした方が強いんですよ。今あるものに、反対の意見を言うと、それが本当に正しい事か、そうでないことかを確かめる前に、それは本当のことのように扱われてしまう。そう思い込んでしまうと人は聞く耳も持たなくなってしまう。僕はしっかり勉強して研究して、その結果、正しいことやその患者さんに合った医療を進めているというのに」


 ・ご自身が努力したものが、よく分からない物に否定されたことに腹を立てていたと

「勿論医学は日々進歩します。だから、前と言っていることが変わったり、逆に戻ったりすることはあるのは確かです。だから、その度に、私はきちんとした、説明が必要だと考え、それを実行していました。そういった、医者と患者さんの信頼関係をめんどくさがって、蔑ろにする医者がいるのも事実ですが」


 ・お話を聞く限り本当に努力と誠意を大切にされている方だと深く感じました。では、そういったことに我慢ができなくなったということですか

「一度でもブームになってしまったら、皆それが正しい事か、間違っていることかを、きちんと理解しない。理解する努力もしない。多くの人が正しいといっているから、それが間違っていることでも、正しいことになってしまう。こんな世の中、間違っているだろう!なぜ、心の底から人を救いたいと思っている僕が、金儲けしか考えていない奴らに負けるんだ!」


 ・記者をやっているとその、感覚は分かります。私としては、耳が痛い言葉ですね

「僕は事実と根拠を基にして述べているのに、なぜ何となくで、語っている奴の方が正しいことになるんだ。おかしいだろそんなの。SNSのフォロワーが多い方が偉いのか!有名人がいうことは全部正しいのか!よく考えればわかることなのに皆麻痺している。挙句の果てには目の前にいる専門家の話じゃなくて、どこの何をしている、誰が言っているかも分からない、投稿を「いいね」とRTが多いから信じている」


 ・結局は自分が何を信じたいか、ということになりますからね。生死に関わる仕事をしている人にとって、それがどれほど煩わしい事か、想像できます……

「どうしてこんな世の中になってしまったんだ!周りを見ると、世の中馬鹿ばっかりだ!自分で考えることをせず、すぐに誰かに聞いて。聞いたこと、見たこと全部正しいことだと思い込む!それが本当に正しい事かどうかも判断できない馬鹿だらけ!二言目には、有名人が言ってたから、テレビで言ってたからとか、すぐに言い出す!」


 ・確かに知名度のある人が言っていることは、何となく信用できることなんじゃないかと、思ってしまうことは、私も経験としてあります

「その2つに至ってはまだ、納得できる。だけど、ネットで言ってたからとか、こっちからしたら本当にいるのかどうかも分からない、友達が言ってたとか。自分では責任を負いたくないから、全部誰かのせいにして!」


 ・他人のせいにするという行為は、人間特有のものですからね。

「馬鹿は死ななきゃ治らない。だから殺したんだ。俺は何か悪いことをしたか?俺は悪いことをしたという自覚は無い。だけどこれは、今の日本では犯罪行為になるらしい、だから俺は自分でやったことは自分で責任を取る。日本がこんなにも衰退していったのは、馬鹿ばっかりだからだ。あげく、その馬鹿を野ざらしにしているから、日本に未来はない!」

 ここでレコーダーの録音は切れている。


 改めて聞き直しても酷い取材だ。我ながら自分の記者としてのレベルの低さを感じる。初めから、異常者だと決めつけている、質問の内容。記者を止めて正解だったようだ。こんな取材の仕方をしているようでは、この先やっていけるわけがない。

 それにしてもよく彼は、私のこんな取材に付き合ってくれたものだ。怒鳴られて中止にされても、おかしくない内容だ。その点から見ても彼は、いたって冷静で真面目な人だったということが伺える。

 初めは全く感じていなかった、彼の中の火が私との会話でどんどん、燃え盛っていくのを感じていた。しかし、私はそれを止めることはできなかったのだ。これ以上踏み込んではいけない匂いはしていたが、記者として、そして人間としての、好奇心に私は負けてしまったのだ。その結果が今の私である。怖いもの見たさを、人一倍に持っておきながらも、本物の恐怖を目にした途端に、恐怖でいっぱいになり逃げだした。

 自分から、近づいたにも関わらず、怖くなったら、それを悪者にして逃げすのだから、私も醜い人間であることが良く分かった。この後もしばらくは彼の話を聞いてはいたが、彼の中の想いが爆発してしまい、極度の興奮状態になった。その異変を、外にいた看守が気づいて、取材は中断となった。

 改めて聞き直しても、素の彼はいたって平凡な人という印象だ。しかし、そのうちに秘められた、熱量は確かに本物だった。心の中で鬼を宿しているというのは、こういうときに使うのだろうか。いや、鬼を宿さずにはいられなかったのだろう。

 この話題が一番ホットな時に、記事にしていたら、私も大金を得ることが出来たのかもしれないが、それと同時に彼の対象に、なっていたのかもしれない。

 それにしても、記事ならまだよかったが、彼の主張が、もし肉声で多くの人に届いてしまっていたら、もっと大変なことになっていたのかもしれない。彼がたまたま、自分の元にたどり着いた、馬鹿な人間だけを殺すことに止まってくれていたから、良かったものの。これが、馬鹿な人間を探し出してまで殺そうとしていたら、どのくらいの被害が出ていたか、考えるのも恐ろしくなってくる。

 こういった背景があって虐殺などは生まれていくのだろう。私はその経過をたまたま知ってしまった人間だが、過去に起こった事件でも、本人の主張をきちんと聞いたら、納得できてしまうだけの正当性があったのかもしれない。起こったことにしか目を向けなければ、見えてくるものは、その狭い範囲の物しか見えない。そんな誰でもわかるようなことを、改めて思い知らされた。そんな感覚だ。

  



 私がなぜこんなにも、重い腰を今になって上げたかというと、最近連絡が来たのだ。


 彼の刑が執行されたと。本来であれば死刑囚の刑の執行は告知されることは無い。しかし、彼が生前に自分が死んだら、死んだことを私に知らせることと、私に「ありがとう」と伝えることを望んでいたらしい。


 彼は彼がしたことを、私が記事にしなかったことに対して、特に何も言わなかったようだ。今になっては、それが何を示すのかも分からないが、私の想いを汲み取っていてくれたのならば、嬉しく思う。


 結局は彼がやったことと、同罪レベルのバッシングを私も受けたのだから。


 巷では医者として人を殺して稼いだ金で、買収されたとか、洗脳されたとか言われているが、そんなことはどうでもいいと、その時の私は感じていた。それに関しては今でも変わらない。また何か新しいことがおきれば、私たちのことなんて、すぐに忘れ去られてしまうと思っていたから。


 私の想像通り、すでに社会は彼のことを忘れてしまっている。世の中所詮はそんなもので、何に対しても新しさを求めて、重要だった物、重要でなければならないことを忘れてしまっている。また少し経ったら、メディアでその一瞬だけ掘り返されることはあるだろう。本当に重要だったことは全部忘れ、彼一人の異常性をバッシングして。

 勿論その一端は私の責任でもある。公表しないことを決めて、真実を隠したのはまぎれもなく、私自身なのだから。冷静になって客観的に見れるようになった、今だからこそ言えることだが、周囲が変わることを諦め、その責任を他人に押し付けている時点で、馬鹿な民衆たちと私が、やっていることは遜色ない。どうすることが、最善だったのかは今でも分からない。というよりは、正解などないのだろう。


 だから、いつでもその準備が出来るように、今更ながら、形にすることを選んだのだと思う。


 彼は決して許されないことをしたのは事実だが、彼がやったことはまぎれもなく、社会が導いたことだ。それは今生きている人全てが原因だ。たった一人の力では、変えられないことは彼が証明した。そして、今の時代に人間達が、手を取り合って力を合わせるなんてことは、不可能だと世界が証明している。だから、私たちはどんなに悲惨なことがおきようと、ただただ傍観して、嘆いて、忘れることしかできないのだ。醜き人間は退化はせど一切成長はしない生き物だから。


 愚かな私たちに出来ることは、彼のような人間が、この先現れないことをただひたすら、願い続けるか、このような悲惨なことが起きても、起きるたびに、その便利な頭で忘れるかの、2択しかないのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記述 伊豆クラゲ @izu-kurage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ