小さな丘で
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何もない丘に、一軒の家が立っている。
辺りは暗く、緑色の霞が立ち込めている。雲か、霧か、あるいは誰かの怨念か、この世界は常にその色に覆われている。葉の生えない木々が、感情もなく揺れている。
今日も、その家の戸を叩く者があった。
「やあ、こんばんは」
少女はドアを開けた。そこに、一人の魔法使いが立っていた。
大きな三角のとんがり帽子。一本一本が透けるような、金色の柔らかい髪。朝の森の川のせせらぎのような瞳の色。歳は、二十を少し過ぎるくらいか。布の多い服には小さな宝石が散りばめられていたが、そうでなくとも、彼の周りには光の粒が輝いていた。
少女はその姿に見惚れて、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「魔法使いはね、はじめて会った家主の人に招き入れてもらわないと、家に入れないんだ。
どうぞって言ってくれる?」
それでも少女が動かないのを見て、魔法使いは首を傾げた。しゃら、と光の粒が音を立てた。
「ああそうか、口がきけないんだっけ」
そこで少女がはっとした。ぶんぶんと首を振り、大きくドアを開けた。
「あ……違います! わたしは喋れます! とっても綺麗な魔法使いさんだなと、つい喋るのを忘れてしまいました……どうぞ!」
「ありがとう。君はおもしろい子だね。どうも」
魔法使いが、その家に足を踏み入れた。
小さな家だった。暖炉と、テーブルと、食器棚がある。布のカーペットがあり、その上にこじんまりとしたピアノが載っている。
ここが、と魔法使いはため息を吐き出した。呆れや悲しみではない、ほっとしたような息だった。
「で、君が……」
魔法使いが、再度少女に目をやった。彼女はまた首を振った。
「それも違います。わたしは書記官であります! あの子は、こちらに」
少女が手を向ける。テーブルの隅に、一人の少年が座っていた。気配が薄く、魔法使いは気付けなかった。
焦茶色の髪に、同じ色の目。空色のアクセントのある、質素な服。
穏やかに微笑むような表情で、彼は魔法使いを見つめていた。
魔法使いは帽子を脱ぎ、言った。
「驚いた、本当にただの人間の子どもなんだね」
少年と少女が、そろってきょとんとした顔をする。魔法使いは慌てて手を振った。
「ああごめんね、悪気はなかったんだ」
魔法使いは、優しく目尻を下げた。
「ただなんだか、嬉しくなっちゃって」
「君の名前は?」
少女の出してくれたお茶に手をつけながら、魔法使いが訊いた。
少年が微笑んだ。
「クロックっていうの? それは」
カップを置いて、困ったように魔法使いは笑った。
「僕にとっては、皮肉な名前だなあ」
少女は、少し離れたところで、小さな機械を使いものを書きつけている。テーブルに座ると、高すぎて腕が届かないので、床に置いたパッチワークの台が机代わりだ。
ここであったことを打ち込んで記すのが、彼女の役目だった。
「さて、ここでは、話をするんだったよね。君に話せばいいのかな?」
少年は、魔法使いを見つめて頷いた。
目の綺麗な魔法使いは、わずかにその色を細めた。
「じゃあ、昔話をしよう。
千年たっても灼けつく未練から逃れられない、魔法使いの話だよ」
魔法使いは、長い長い、時間の話を始めた。
一人の魔法使いがいたこと。
その魔法使いが、ある人間を殺してしまったこと。その息子に、いつか必ず殺してやると、呪いを受けたこと。
数百年後、魔法使いがその子孫の少年と出会って、過ごした時間があったこと。
少年がまた、千年後の呪いを施し、魔法使いとの再会を誓ったこと。
その魔法使いが死んで、息子が呪いを受け継ぎ、千年後の子孫と出会い、だが呪いは果たされることなく、魔法使いの息子が子孫を殺してしまったこと。
魔法使いと少年の、互いの身を裂くような千年の約束について、考えたこと。
それから、また千年の時がたったこと。
「彼が死んでから、色々なことを考えたよ」
長い物語を話し終えた魔法使いは、目を伏せた。
「ひょっとして、また彼の魂が生まれ変わってどこかで出会えるんじゃないかとか、父を死なせていなかったらどうなっていたんだろうとか、おれは彼にもっと何かしてあげられたんだろうか、とか、そもそも、おれの出会った彼は、彼自身の人生を生きられていたんだろうか、とか……。
え、一人称がバラバラだって?
おっと、失礼。昔の話をすると、色々ぶれちゃうんだ。
優しくなった? そうかな? そうかも。でも、もう遅かったね。僕は、彼がまた生まれてくるかもしれない場所を守ることすら、できなかった。
でも、僕なんか見えないところで、あの二人が生まれ変わって、出会っていたらいいのになあ。魔法使いでも、死ぬほど誰かを焦がれていたら、生まれ変われると思う?
そうしたら、今度こそ、僕は彼と友達になることをゆるされる。そんな気がするんだ」
ぱちぱちと、暖炉の火が爆ぜた。
「結局僕は、誰かと繋がれたのかな。シアルは? ミチルは? 父は? 彼らは、心の居場所を見つけられたんだろうか。誰かに、与えることができたんだろうか。……おや」
魔法使いは、少女に目線を移した。
少女は、ぽたぽたと涙をこぼしながら、それでも機械から手を離すことをしていなかった。
魔法使いが、穏やかに言う。
「泣いてくれるの? こんな愚かな話のために」
「だって、あんまりにも……悲しくて。みんな、みんな、必死に生きていただけなのに、そんな悲しいことって」
テーブルから、少年が降りた。少女の近くに膝を折り、その頭を撫でる。少女は驚いたように少年を見たものの、すぐに首を振った。わたしは大丈夫です、お役目をまっとうします、だからクロックくんも。少年はまだ心配そうに少女の顔を覗き込んでいたが、やがてぽんぽんと彼女の頭を優しく叩き、テーブルに戻ってきた。魔法使いは、その様子を見守っていた。
「魔法使い狩りが始まって、何年になるかなあ」
魔法使いは、窓の外を見た。
外は荒廃している。
辺りは暗く、緑色の霞が立ち込めている。雲か、霧か、あるいは誰かの怨念か、この世界は常にその色に覆われている。葉の生えない木々が、感情もなく揺れている。
生き物の気配はない。
その中で、この丘だけが、小さな光に包まれていた。
家の周りに、花がいくつも、いくつも植っている。赤、薄紅、黄色、紫、黄緑。わずかに光り輝き、家を守るように囲むその花だけが、この世界の明かりだった。
「君は……いや、君たちか。二人だけになってしまって、僕たちはあと、何人生き残ってるんだろうねえ」
さて、と魔法使いが席を立った。五杯目になる紅茶もすっかり冷え、少女の涙も乾き、彼女が鼻をすする音だけがしていた。
「父さんがもらえなかったものを、ようやく、おれはもらうことができるね」
魔法使いが立ったのを見て、少年も立ち上がった。少女は悲しげな顔をしていたが、台ごと、後ろに下がる。
「よく知らないんだ。どうすればいいの?」
魔法使いが茶化すように両腕を広げた。彼のまとう光の粒が、家具に当たって部屋中に散らばった。
少年は微笑んだまま、床に座った。自分の折った膝を叩き、にっこりと笑う。
魔法使いは最初、きょとんとした顔をしていたが、やがて破顔した。そうするのかあ。子どもみたいで、ちょっと恥ずかしいな。その長身を折り曲げて、床に膝をつく。しばし考えたのち、身体を横にして、少年の膝に頭を乗せた。
魔法使いの髪を、少年が撫でる。後ろで少女が、またこぼれてきそうな涙を堪えていた。
「ごめんなさい」
横になった魔法使いが、小さく言った。少年が首を振る。魔法使いがそれを見て、弱々しく笑う。静かに目を閉じる。
少年の口が開く。
『おやすみ、愚かな魔法使い。僕の友達』
魔法使いの身体が、光り輝いた。
家の戸が開く。
少年と、続いて少女が出てきた。
少年の手には、一輪の花の苗がある。
四枚の花弁が揺れていた。朝の川のような、青と碧の色をしている。
二人は、家の周りの花畑へ、その花を植えた。
植え終わると、少年が立ち上がった。
少女が、ゆっくりと両手を握り合わせる。
「……どうか、みんな、会いたい人に会えますように」
風が吹いて、花を揺らした。
緑の霧に包まれた世界で、その家の周りだけは、優しい光に包まれていた。
魔法使いの友達(origin) ソウ @sou_t2
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