二番目の町へようこそ

沖綱真優

いらっしゃいませ

曇ってても、晴れ。

あたしは空を見上げて、ため息を吐く。

空模様は思い描く晴れとはほど遠い曇り空。薄曇りでも晴れっていうの、決め事とはいえ納得できない。

こんな空でも気分が良ければ、きっと快晴なんだ。

お日様と地面の間にあるモヤモヤは、久しぶりに会った人が誰だか思い出せなかったときの頭の中みたいで、名前と顔と仕草と雰囲気と誰の親戚だとか誰の友だちだとか、記憶の断片を組み合わせてぜんぶハマったら、弾け飛んでずんと上まで突き抜けてスッキリ快晴。

だけど今日も昨日と同じ、昨日も一昨日と同じ、毎日同じ場所に立って、毎日同じ言葉でご挨拶。どこに晴れ要素があるって……。

視界の下の方で遠くから影が近づいてくる。

ああ、お客さんだ。

さっきのため息なんか無かった風で姿勢を正して、あたしは声を張る。


「……へ、ようこそ!」





「いらっしゃいませぇ」


気分的にはしゃぁらせぇ、くらい心のこもらないあいさつを、投げかけた。

背後の機械扉が開いた音に合わせて機械的に。

ちらりと視線をやると高校生の男女。どちらも大きめの四角いリュックがパンパン。男は学ラン、女はブレザーと、制服が違うから塾帰りにおしゃべりに来たってところかな。


尚久なおひさはテーブルを拭いたダスターをトレイ置きに戻して、手を洗い、カウンターに入る。

パートの桐生さんがちょうど会計終わりで一歩後ろに寄り、商品詰めに移る。後ろで一つに纏めた焦茶の髪に三本四本五本薄茶色が混じる。

レジに入るタイミングを計っていただけなのに、ただ白髪を数えていたと思われたのか、眉間と目尻に刻まれた溝を深くして微かにこちらに顎を向けた。

びくり。

肩も胸も動きはしない。でも、心は敏感に反応する。黒い靄がまた溜まる。


素知らぬ顔でレジに向かうと、メニューを見ながら潜めた声で女の子と話していた男子高校生がこちらに顔を上げた。

ばちんと視線が被りそうになって、目より少し下、鼻先に視点を合わせる。相手の顔を見なければ失礼だし、見過ぎても失礼に当たる。マニュアルにもあるけれど、ジロジロ見るなとか睨むなとか、難癖つけてくる輩……お客さまもいらっしゃるから、適度に視点をずらす。

それから、意識して口角を上げて目元を緩める。マスクの中の口元は見えないけれど、目元だけで笑うなんて逆に器用すぎて、俺にはできない。

適度な音量、元気な声音、と。

暗記したマニュアルで毎度自分を鼓舞する。さぁ。


「ご注文はお決まりでしょうか」



初めは恥ずかしかった決まり文句も、少しだけ上手くなった気がする。

駅前通りから少し外れた場所にある、このファストフード店でのアルバイトはまだ二ヶ月とちょっと。

一ヶ月で試用期間が終わって、時給は五十円上がった。


「お疲ぁれぇー、畑中君上がりだよー」


夏菜子ななこさんがトレイを拭いてた俺の肩を叩いた。

顔立ちはマスクで半分隠れているし、毛先から半分染めた金髪は帽子の内側に収めているけど、ビシバシまつげだけでも十分に派手な雰囲気が伝わる女子大生の夏菜子さんは、ちょっとした癒やしだ。

俺みたいな暗めの男子高校生がいわゆる女子大生ぽい女子大生と話せるなんて、その点ではアルバイトは桃源郷といえる。


「ねぇ、笑子えみこさんと話せたぁ?」


デリカシーには少し欠ける夏菜子さんが、お疲れさまでした、と事務所のドアノブに手を掛けた俺の背中に尋ねた。


笑子さん、桐生さんと夏菜子さんはシフトが同じ時には上手く連携して働いているのに、別々の時は互いに互いのワルグチに近い不満を口にしていた。俺が入る夕方から夜は私語なんか交わす暇はあまりないけど、お昼時を過ぎてお客さんが疎らになる平日夕方までは結構ヒートアップすることもあって、「店長は止めずに苦笑い」と別のパートのおばさんが教えてくれた。


ところが、俺の時給が正規の九百六十円になったころ、桐生さんの矛先が俺に変わった。挨拶以外ほとんど話してくれなくなり、睨み付けるような視線を向けられるようになった。

背の低い桐生さんが背伸びして商品棚の一番上からバーガーを取る様子がなんだか可愛らしくて、からかい気味に伝えたのが悪かったのだと思う。

陰キャがコミュニケーション頑張ると碌な事にならない。

でも、どこが笑み子だよ、カメムシ鼻に突っ込んだみたいな顔ばかりして。


「……お疲れさまでー」


聞こえないフリだけは得意だから流して帰った。



「ばーちゃん、ただいま」

「……そっ!このっ!マジふざけんなよっ目ぇついてねぇだろカス野郎が」


聞くに堪えない罵詈雑言をテレビ画面の向こうの誰かにぶつける。

直に聞いている俺には少しダメージが入るけど、ストレス解消と言われれば止められるはずもなく、滑らかに動くキャラクターと祖母を交互に眺める。

祖母の膝の上に置いたコントローラーを繰る手指はとても御年六十二には見えない。いや、手指はシワとシミで確かに枯れ枝に似ている。動きが年寄りに見えないだけで。


もうしばらく掛かるな、と動き出したところで、「あと十分くらい」とボソリ呟いた。

台所に行き、買ってきた食材を片付けて、用意された二人分の食事を温める。

小さなダイニングテーブルもあるけど、冬場はもっぱら居間のコタツでご飯だ。


「今日は肉じゃがか」


祖母が出勤前に準備して帰ってきてからもう一度火を入れていた肉じゃがは、俺が温め始めて数分で鍋から湯気を吹き出した。

よそったご飯をレンチンして、隣のコンロで温めた味噌汁と肉じゃがを盛り付けて、お盆で運ぶ。

コタツに並べ終わると同時に、祖母はヘッドホンを外して、にやり笑った。

画面には「You are the CHAMPION」の文字が並んでいた。



「あんたもやればいいのに、面白いよ」

「や、逆にストレス溜まりそうだわ。止めとくって」


何度となく繰り返されたやりとり。祖母は仲間が欲しいのか、教えたいのか、たぶん両方で。

運動神経も良かったらしい俺の母親の母親である祖母の最近のブームがこのバトルロワイヤルFPSゲームだ。肉屋のパートから帰って、夕飯と翌日の弁当の準備を済ませた後、俺の帰宅を待ちながら遊んでいる。

しかし、残念なことに俺の反射神経は父親似だったらしい。

シューティングや格闘ゲームのセンスは壊滅的で、ソシャゲと昔のRPGくらいしかできないし、ソシャゲもアルバイトを始めてから馬鹿馬鹿しくなってあまりやっていない。


「ごちそうさま、洗っとくよ」

「ありがとねぇ」


食後に立ち上がり、腰を叩いた祖母にいう。

引き取られた十年前と変わらないようでいて、やはり歳を取った。肉屋は立ち仕事の上に冷えるから、足腰には良くない。転職って年でも無いしね、とはいうけど、その前に働けなくなりそうだ。


……だからって。

蛇口を捻ってシンクの桶に水を溜める。ジャパジャパ跳ねる飛沫が、スポンジを掴んだ手に掛かる。

もちろん、育ててもらって感謝しているし、行儀だ成績だと口うるさくもない、良い祖母だとは思う。

だからって、ずっと世話しなきゃならないかな。

この先、大学も就職もこの家から通える範囲に絞って、動けなくなったら、家事も介護もぜんぶ。

そもそも、アルバイトすら満足にできない俺が、就職できるのかな。その前に大学だって、お金の掛からない近くの国公立大に入れるほどの成績でもないし……。


「うわっ」


にゅっと目の端に映った灰色を反射的に避けた。

どどと心臓が鳴り、白黒する目を瞬くと、祖母の腕だった。


「尚久、水、勿体ないから」


蛇口を捻った腕で、俺を押しのけた。


「やっとくからさ。……また変な客が来たのかい?」

「いや、大丈夫だよ、うん。じゃ、頼むね」


変な客、難癖を付けてくる若い男の客と俺が初めて顔を合わせたのは先月のことだ。試用期間中だった俺は、割り込んだ客に「すみません、後ろに並んでください」とマニュアル通りにお願いした。

「はぁ?」

背の高い男は、おかしなことをいう店員とでもいうように、見下ろしてひとこと威嚇すると、後ろに並んでいる人たちまで睨み付けて、

「ずっと並んでましたけどぉ、なぁ、君ら、なぁ」

誰の反論も許さない言葉を繋げた。

レジを振り返ると、小さくバッテンを付けた夏菜子さんが軽く首を横に振って、ほかのパートさんも厨房から心配そうに覗いていた。

店長が外出時は揉め事は御法度だ。面倒を解決できる大人がいない時間帯、つまりアルバイトやパートだけで回している時間帯があることに疑問を抱いてはいたけど、まさか自分が巻き込まれるとは想像していなかった。

横入りされた男子高校生の三人組や子連れの若いお母さんたちも、大丈夫ですというように小さくこちらに頷いた。

男はしたり顔で、「ほらな」と俺の肩をバシバシ叩いてレジに行った。

余程ひどい顔をしていたのか、続いて来店した女子高生の二人組が笑いながら小さく指さしてきた。

その日はそのまま早退した。

早く帰った俺に、説明しなくとも何かを察したばーちゃんは、「待ってればお客さんが来てくれるなんて有り難いことだけどねぇ」と呟いた。



自室の小さなブラウン管テレビと昔のテレビゲームの電源を入れる。

やり始めたばかりのRPGは三十年ほど前に大ブームを起こした名作だそうで、今どきのスマホゲームにも劣るグラフィックと耳鳴りに似た音楽も、慣れれば自由な脳内イメージを喚起させる。

そう、濃い緑と薄緑の点々で表現された野っ原には、一陣の風に背の高い草が揺れて、踏みしめる地面には背の低い雑草や枯れ草や虫や所々にモンスターの死骸やフンまで転がっている。

その草の中を泳ぐように青い液状のモンスターが近づいてくる。姿は見えないけど、背の高い草が風に逆らって倒れていくから、こちらに向かってくるって分かる。

さぁ、武器を構えて。木の棒だけど。

相手と代わる代わるに殴り合って、なんとか仕留めて、こちらもヘロヘロ。

スタート地点の城下町まで戻って宿屋に泊まれば、収支はマイナスだ。

魔王を倒すどころか、もう破産が近い気がする。薬草を買いすぎたのが拙かったか。

だけど何とか勇者は強くなって、草原を越えて次の町に到着した。

女の子がいる。話しかける。

そこで、数学の課題を思い出した。




「尚久、部活やんねぇのな」

「まぁバイトもあるし」


んじゃまたな、と校舎を出たところで同級生と別れる。半分ウソで半分ホントの言い訳にも慣れた。

高校に入学して四月五月、意気揚々と探した部活動はどれも結構お金が掛かった。公立高校で学費は掛からないけど、制服や体操服で出費が嵩んでいたから、部費だけでなく道具類が必要な部活動は無理だった。

ただ走るだけの陸上部でもシューズ代で年間数万円も掛かるなんて知らなかった。

得意ではないものの何かスポーツをやりたいと思っていた俺が迷っている間にみんな部活を始めてしまって、友だちも固定されていった。

グランド横を通ると、野球部員のでっかい声が青空に吸い込まれる。キンと響く金属バットは、その音で響くから金属バットっていうのかなとか分からないことを考えながら過ぎる。

出遅れてしまうと一歩が踏み出せない。

何となく喋る相手はいるけど、休みの日に遊んだりする友だちは結局まだいない。

アルバイトだって、ある日曜日、暇そうに居間でテレビを観ていた俺にばーちゃんが言ったから探すことにした。たぶんゲームするのに邪魔だったんだと思う。




「っ、畑中く……」

「あ、は」

「よー、にーちゃん、久しぶりぃ」


バイト先でテーブルを拭いていた俺が顔を上げて、夏菜子さんの少し切羽詰まった声に返事をする間もなく、肩をバシンと叩かれた。ダスターがぽとんと床に落ちる。

振り返らずにダスターを拾う。


「客になんていうんや、にーちゃん」


しゃがむ俺に影が被さる。片膝を付いたまま床にいう。


「……いらっしゃいませ」

「せやな」


スニーカーの爪先で軽く俺の踵を突いて、難癖男は口笛を鳴らしながらレジへ行った。あれから何度か、来店するたびに俺に構ってくるのだ。

立ち上がれない。

泣きそうに唇が震える。

しんとした店内に男の口笛だけが妙にキレイに響いた。金属バットでも持ってたら後ろから殴りつけてやれるのに。いっそ厨房から包丁でも持ち出そうか。それとも、通販でナイフを買っていつでも使えるようにポケットに……


「……大丈夫ですか」


若い女性の潜めた声に。

湯沸かしポットの沸騰寸前みたいに口まで湯気が昇り掛けていた俺は我に返る。

顔を上げると、たぶん何歳か上なだけの女の人と目が合う。軽く頷いて、腕を優しく引っ張って立たせてくれる。

周りは何人か、レジの方から視線を遮るように並んでくれていた。憐れみと言うよりは純粋に心配してくれている感じがして、違う涙が出そうになった。目を瞬かせて涙を追いやって、軽く会釈して、ダスターを持ったままカウンターじゃなく事務所の方に引っ込んだ。

扉を閉めた途端に大粒の涙がぼたぼた出てきて、鼻水と一緒に止まらなくなった。

嗚咽がしゃっくりに変わったころ、休憩から戻ってきた店長が扉を開けて、すぐ横に座り込む俺を驚いた顔で見下ろしてきた。




「……辞めようかな、バイト」

「好きにすりゃあね」


ヘッドホンを外さずに、それどころかゲーム画面から視線を外さずに、ばーちゃんは応えた。「アルバイトは小遣いにしな、高校生から生活費なんて貰わないからね」と言ってたのだから、当然と言えば当然だ。

けど。

理由を聞くとか、励ますとか、親代わりならあるだろう。

ご飯を二人分、準備し終えて呼んでもまだ試合が終わらなかったみたいで、勝手に食べて勝手にご馳走様って言って、勝手に自分の分だけ皿洗って自室に引っ込んだ。


英語の課題をやる気にはなれず、テレビとゲームの電源を入れた。

セーブポイントは最初の城下町だから、次の町までまた歩く。

夜の草原一人旅はきっと心細い。冷たい風に背中を押されて、急ぎ足で草原を歩く。

だけど、仲間はいないのだから寂しいのは仕方ないし、エンカウントしたモンスターにやられてもお城からやり直せる。

そうだよ。

別に、やり直せるんだから。何度倒れたって、嫌な目に遭っても、またセーブポイントからやり直せるんだから。ゲームなら、どんな武器を使ってどんな風にやっつけてもいいんだ。負けてもやり直せるし、気に入らなければセーブしなければいいんだから。

そうだよ。

想像の中でならあんな輩、滅多刺しにしても滅多打ちにしても俺は捕まらないんだから、殴って蹴って、いっそ青いモンスターみたいに一撃で撲殺して。

ゲームの勇者が次の町に着いた。

入り口で女の子が立っている。前も話しかけたけど、また話しかける。

ぴっ。ようこそ。

電子音がして、メッセージボックスが表示される。

ぴっ。ようこそ。

ぴっ。ようこそ。

ぴっ。ようこそ。

ボタンを連打する。何度押しても同じメッセージが表示される。

同じ事何度も言わせないで、とか、しつこいわよ、とか、怒れば良いのに。勇者のほっぺに平手打ちしたり、両手の爪を顔面に立てたり、変質者ですって誰か呼びに行ったりすればいいのに。

彼女はプログラムされた通りに俺にあいさつを繰り返す。

だけど。

ぽたり涙が落ちた。

反撃もできずにマニュアル通り、誰かのいう通りに動かないといけないのは俺も同じで。ゲームの中の女の子とどこがどう違うんだろう。

人と、人が考えたモノの違いなんてどこにもないんじゃないか。

一旦溢れた涙を止める方法なんて俺は知らなくて、水が上から下に流れるのは当たり前だと体感した。きっと泣きすぎて目から上の水分はほとんど無くなってしまってたんだろう。

干からびた脳みそがカラカラ鳴って、指は擦れて痛いほどにボタンを押し続ける。


「じゃあいっそ、機械になればいいじゃない」


空耳だろうか。

ぴぴぴぴぴ、めちゃくちゃな機械音に混じってブラウン管から聞こえたその言葉が、カラカラの脳みそに反響した。





「尚久、何読んでンの」

「ん、バイトのマニュアル」

「へぇ、ファストフード店の。面白そー。見ていいか」

「いいわきゃないじゃん。見たけりゃバイトしろよ」

「ふーん。いうじゃん」


学校の休み時間にバイトのマニュアルを熟読した。

持ち出し厳禁だけど、店長の許可を取って、スマホで撮影させて貰った。「法律や道理にもとることは書いてないけど、一応気を付けてね」と注意はされたけど、それ書いてちゃダメだろう。

接客マニュアルを完璧に頭に叩き込んで、頭の中でしっかりロールプレイする。

いらっしゃいませ、ありがとうございました、ポテトはいかがですか、ほかのお客さまのご迷惑になりますので。

ゲームの女の子みたいにマニュアル通りの受け答えをするんだ。

俺自身の感情なんか関係ない決められた動きをすれば、きっと靄が溜まることもない。




「いらっしゃいませ」


機械扉の音に、機械的に口にする。

お客さんに苦情を言われても、マニュアルが頭に入っているから慌てない。

ただいま準備しております。お時間いただいております。申し訳ありません、もう少々お待ちください。

作り置きは冷たいと文句をいうのに、出来たてを待つほどの時間はないという。

混雑した店を選んで入ったのに、待たされたと文句をいう。

レベル上げずに旅して、道中で死んじゃう勇者みたいなものだ。

周りを見ずに、準備もせずに、思い通りになんかならない。

違うか。

むしろ、今までの俺が低レベル雑魚勇者だっただけか。

桐生さんは相変わらず喋らないし、時々ミスもするし、マニュアル通りにはまだまだほど遠いし、バイトは楽しいとはとてもいえないけど、少しは楽になった。




「あ、ゴミ袋」


バイト帰りにばーちゃんの買い物メモをみて、ゴミ袋の買い忘れに気付いた。

いつも買い物する、バイト先近くのスーパーはもう閉まってる。市指定ゴミ袋はコンビニでも同じ値段かなと帰り道にあるコンビニに寄った。


「いらっしゃいませ」


何かが耳に触れた。

声、どこかで。知ってる。

レジの前に立つのは誰か、後ろで一つに束ねたセミロング、女性ってくらいしか分からない。

あぁゴミ袋、探さなきゃ。

そわりと鳩尾が震えるような、感じたことのない気配になぜか焦った。

ぴんぽんぱぱん、と入店音がして、レジの女性はまた、いらっしゃいませと言った。

そわりが落ち着く。

聞き間違いかな、聞き間違いだな、知り合いなんてそんないないし。

Lサイズゴミ袋を片手に、サイフを取り出してレジに行く。


「二百二十円です」


無感情の、そっけない声。

なのに唐突に思い出す。

大丈夫、と腕を取って立たせてくれた声だ。

トレイにちょうどの硬貨を置いて、押し出す。

女性はちらりこちらを見て、俺があのファストフード店のアルバイトなんて気付かずに、レシートとお釣りを乗せたトレイを押し返した。

バイト中はマスクに帽子、制服姿で、私服だときっと分からない。何より、彼女は話しかけてくれたけど、あの時俺は涙を堪えるのに必死で。

それで気付いた。

ありがとうさえ伝えていないことに。


「あの、あのっ」

「何か」


訝しげに硬質に返される。

そりゃそうだ。会計終わって出て行くはずの客に声を掛けられれば俺だって緊張する。こういう理屈もバイトしてなければ分からなかった。


「俺、そこの、近くの、ファストフード店のアルバイトで、この間、あの、あり、ありがとうございましたっ」


マニュアルに書かれた以外の言葉を話せなくなっていたのか、舌は滑らかにはほど遠い。つっかえながら礼を言って、カウンターで頭を打ちそうになるほどに頭を下げる。ぎゅっと瞑った目と身体を戻すと、ちかちかした目の中に映り込んだ目を丸くした女性の顔がゆっくり、はにかんでいった。


「なにも、お礼言われるほど……でも、バイト辞めてないのなら」


手元に視線を下げてから、


「よかった……」


ほっとしたように、呟いた。

人ごとじゃないみたいに。


「あの、レジ、いいですか?」


ダウンジャケットを着た若い女性のお客さんが会計に来て、俺は横にずれた。

もう一言だけでも、話したかった。

レジの彼女は柔らかな表情のまま「いらっしゃいませ」と言って、お客さんも穏やかな笑みを浮かべて「お願いします」と返した。

綺麗だ。

ふたりの笑顔に、やりとりに、マスク越しにも分かるふうわり和やかなその表情に見蕩れて、レジが終わるまで見ていた。お客さんがこちらにも軽く会釈をしてくれて、俺もお店の人みたいに「ありがとうございました」と口にしていた。

ぷっ、とカウンター向こうで彼女が吹き出した。


「……店員じゃないのに、もう。いっそ、ここで働く?」

「え?」

「あ、でも……夕方からは店長か奥さんがいるから、バイトはひとりずつか……」

「え?あの、」

「ごめんごめん。良い子だなって。からかうみたいな言い方、ごめんね」


言ってまた、目元が緩んだ。

その表情に。


「綺麗だ……」


口から飛び出した言葉は、戻すことなんてできなくて、彼女はマスクの中で「え?」と呟いて、笑顔がこわばっていく。

不用意な一言がまた他人の心に壁を作ってしまう。


「そ、違っ……て。あの、笑顔で挨拶って、難しい、からっ」

「そう、そうよ、ね。驚いた。高校生に……ナンパとか、ホント私って失礼。でも、」


ぴんぽんぱぱん、と入店音が響いた。ふたりして入り口を振り返ると、幼稚園くらいの女の子を連れた若い夫婦が来店していた。


「いらっしゃいませ」


彼女の笑みを含んだ声が右耳を撫ぜた。

振り向けば、マスクは頬に合わせて上がり、目は細まって眉間が広がる。たまたまかも知れない。俺が来店した時には疲れたような声だった。

だけど、どこか臨戦態勢になりがちなレジの内側にいて、来店してくれたお客さんを出迎える心からの笑みを含んだその声が、その笑顔が、俺の胸に刻まれた。

じゃあ、とお客さんを気にして少し事務的な笑顔に戻った彼女に、俺もじゃあ、と返して、ドアが完全に閉じる前に押し開けた。

コンビニの入店音が、ゲームでひとつレベルが上がった時に流れるファンファーレに聞こえて、マスクを下げて見上げた空では星の代わりに飛行機が瞬く。

胸の奥底から漏れた息は、思いのほか白かった。




「いらっしゃいませ」


無理のない笑顔で。

俺は彼女のあの笑顔をイメージすることにした。

笑顔を返してくれるお客さんばかりじゃない、時には辛辣な言葉を投げられる。それでも、リラックスして注文してもらえるように、ゆったりと食事を楽しんで貰えるように。

そしたらマニュアルのひとつひとつの意味が少し分かってきた。少しだけど。


機械扉が開いて、新しい客、若い男がひとり入って来た。

久しぶりに来店した難癖男は、灰色のスーツ姿だ。立ち止まり店内をギョロリ見回してから、一歩踏み出す。カウンターの俺を見て微かに笑った気がした。

扉が背後で閉まり、革靴が床を叩く音が妙に響いた。普段から仕事帰りのサラリーマンも多く来店する。珍しいものでもないのに。


カッと、モンスターが出てくる直前の音で男はカウンター前に立ち止まった。

関係ない。

相手が誰であろうと。

俺は頭と視線を下げて一二と数え、笑顔で上げて視点を相手の鼻先に合わせて、


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」


しっかりハッキリおどおどせずに決まり文句を口にする。


「……なんや、ニヤニヤと……、まぁ、ええ」


男は俺の後ろ、厨房の方を伺って、横目で後ろの座席を気にした。それから徐にバーガーとナゲットとドリンクを持ち帰りで注文した。

会計を終えて、後ろの棚で商品を揃える。店長が厨房からひょいと顔を覗かせて首を傾げるから、大丈夫の意味を込めて頷き返した。

正直、カウンターを挟んでいても何かされないか不安はある。バーガーを取る手が震えないように、腹の底に力を入れて、マスクの下の唇を固く結ぶ。

喉が渇いて、唾を飲み込んだ。


「お待たせしました」


カウンター越しに紙袋を手渡す。真っ直ぐに相手を見て、彼女の笑みを浮かべた。

男は濁音の付いた「あ」を呟いて受け取った。マスク越しでほとんど聞こえないあいさつは、何も言わず会釈もせず帰る客の多い中ではむしろ上等だった。


「ありがとうございました」


もう来ないで欲しいとは思わなかった。





曇ってても晴れ。

あたしは空を見上げて、細く息を吐いた。

太陽を優しく遮る薄雲に似た白い靄が、外気に晒されるとすぐに見えなくなっていく。高く昇って空のモヤモヤと一緒くたになるのかもしれないし、下に落ちて地面に生える草の雫になるのかもしれない。

だから気持ちがモヤモヤしたら、外に出て大きく息を吐けば良い。吸わなくても良い。吐き出せるだけ吐き出せば、新しい空気はあたしを満たすんだから。


何度も話しかけてきて、あたしに何度も同じ事を言わせたあのお客さんはあれから一度も尋ねてこない。

本当に腹が立ったから、罵詈雑言並べたんだけど、聞こえたかしら。

それでスッキリ気分爽快なんて、あたしって意地が悪い。

また新しいお客さんが見えた。

快晴にほど遠くても、薄雲吹き飛ばして青空にしてやろう。

もう一度、今度は大きく口を開けて、


「リルザの町へ、ようこそ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二番目の町へようこそ 沖綱真優 @Jaiko_3515

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ