安置留置課

カピバラ番長

加害者無き罪


 某月某日、世界で初めて遺体が[動いた]。

場所は某遺体安置場。

深夜未明、その日は偶然にもワンオペーーつまりは一人勤務だった警備員が休憩に入り、仮眠をとっている間の出来事だった。

保管庫にて丁重に保存されていた遺体の一つが内側から独りでにクリプト(遺体用ロッカー)を開け、確かなーー少なくとも監視カメラからはそう見えるーー足取りで、安置所を後にした。

他者の影はなく、監視カメラやその他映像機器に対してハッキングや細工を施された形跡はない。事実、敷地内からアスファルトに道が変るまでの足跡は一人分しかなく、周りには特定不能な車輪や別の人間の足跡、どころか獣の痕跡もありはしなかった。

[消失]ではなく[逃亡]。

当時事件を担当する事になった警官達はそう結論付け、窃盗から脱走として捜査を開始した。

……が、一年後もそれらしい成果は上げられず、寧ろ事件は拡大していった。

その予兆の一つとして担当警官を含む、関係者全員が極秘に進めていた[遺体逃亡事件]がある日ごく小さなゴシップ記事に取り上げられた事がある。

【死体安置所からの逃走!?ゾンビやキョンシーにも寝やすさがあるのか!?】

(語弊が無いよう、当時の記事の見出しをそのまま貼り付ける)

当然情報を漏らした関係者がいるはずもなく、安置所付近に住んでいた住民が小遣い稼ぎのつもりで噂話を売ったのだろう。(憶測であるため調査を行う場合は考慮外とするように)。

 当初は誰も気にしていなかったかのように思えたこの記事は、しかし、雑誌販売の数か月後に瞬く間に売り上げを伸ばしていく。

第二の逃亡者が現れたのだ。

時刻は明け方も間もなくという頃。場所は全く別の安置所でやはり遺体が一つ逃げ出した。

この件に関しては幸いにも見回り中の警備員が居たために脱走が成功する事は無かったが、この遺体と[話し]をした警備員はこう語っている。

 『まるっきり生きているみたいでした。私も心臓が止まるほど驚いていたのですが、それさえも忘れてしまう程、ごく普通に人として会話が出来ました。……ただ、何と言うか、日付の話をした時は、こう、どこかぼぅっとしていて話を聞いていないようでしたが』

(訛りや方言があった為、特定を避ける為に一部修正有)

[遺体との意思疎通が可能]。

尋常ならざる事実だが、後日、一年前の逃亡遺体を担当している警官もこの遺体と会話する事に成功しており、同席していた者達も目撃している。

そして、この日を皮切りに世界中の安置所から遺体が逃げ出し始めた。

時間は決まって陽が沈んでから陽が昇るまでだが、それ以外は全くの無作為。

性別、年齢、人種、地域、時期、気候、湿度。

あらゆる要因を考慮し推測・憶測をしても[何故動き出したのか]を特定する事は不可能だった。

幸いにも、逃げ出すのは五体満足な遺体だけであり、傍目から見れば(殆どの場合は)全裸で人が歩いているようにしか見えないため、地区地区での新聞に小さく取り上げられる程度で済んでいた。

だが、あるマスコミが例の記事を目にした。

瞬く間に警察が抱える一大スキャンダルとして取り上げられたこの問題はほどなくして全国に周知される事となる。

また、諸外国でも起きている事件だと分かるにつれマスメディア各所での取り扱いが一変。

気が付けば安置所から逃げ出した遺体の事を記事の見出し同等[ゾンビ]や[キョンシー]などと呼ぶようになっていた。

一部の逃亡者達は意思の疎通が可能であるという情報も同時期に出回っていたにも関わらず、彼ら彼女らに対しての差別心は着実に増しているように感じられた。

 少々話が逸れたが、これらの事態にその日まで知らぬ存ぜぬを通していた(混乱を避けるためせざるを得なかった)警察署本部の重鎮や政治家達は、逃げ出した遺体ーー通称をアンリュウとし、彼ら彼女らを専門に捜査・調査・逮捕出来る部署を創る事とした。

初めて逃亡者が出てから五年目の事だ。

以上が逃亡者・アンリュウの事件の発端と経緯についてを簡単にまとめた内容となる。

なお、これら全体を通して明言を避けている部分があるのは一部の過激派からこれらの尊厳を守るためであるため悪しからず。


 ……願わくば、後任される方々の善意に触れる事を祈って以上を書き記す。


                              最初の担当警官


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 【アンリュウ課】

僕がこの名称の意味をちゃんと知ったのは配属先の交番で一之瀬さんに誘いを受けた時だ。

 『安置留置課に来て欲しい。君みたいな人が必要なんだ』

意識が遠のくくらい柔らかな日差しを一身に浴びる尾の長いポニーテールを携えたスーツ姿の女性、一之瀬さん。

彼女は勤務中の僕の前に突然現れて一通り説明し終えて最後にそう言った。

……僕は、二つ返事で申し出を受け入れた。

勿論、配置転属はそう簡単な事じゃない。実務経験と実績、それに少しのコネ。これらが無いと普通無理だ。厄介払いなら可能だけど、新しく創られたっていう部署に配属されるなんて、警官になってから三年目の僕にはあり得る訳が無い。

………と、思っていたんだけど。

 「ほ、本当に配属されちゃったよ」

たったの半月もかからずに僕の務め先は地方の交番から警察署本部の外れにある新課ーー安置留置課に変わっていた。

 「…十年後とかのつもりだったんだけどなぁ」

異常に敷地の広く、それに負けず劣らずな交番のような面構えをしたそこへと足を踏み入れる。

中にはやっぱり普通の交番のようにそれぞれの机が配置されていて、相談しに来てくれた市民用の応接テーブルがある。

 「今は奥にいるのかな?入っていいんだろうか……」

中を軽く見渡して見る限り人影は無い。

交番には休憩用の小さな座敷があるもんだけど、今日の当番の人はそこにいるのかな。

 「よく来た!」

 「!?」

なんとなく恐る恐る覗いていた僕の肩に突然走った激痛。

その原因は……

 「い、一之瀬さん?」

 「うん!一之瀬 春だ!これからよろしく、飛騨 貴俊君!!」

僕をスカウトしに来た一之瀬さん……今後直属の上司になる女性の強烈な肩置きだ。

パッと見は町を歩くスーツ姿の女性と変わらない身体付きに対し、どこにこれだけの膂力があるんだろう。流石は警察官って事なんだろうか。

 「さ、君で最後だ。中へゴー!」

 「あ、はい。はい??」

流れるように肩を組み、有無も言わさず交番……?の奥へと連れていかれる。

おかしい。あの日来た一之瀬さんはもっとこう、クールな感じだったはずなのに。今は熱血な感じがそこはかとなく香ってくる。

 「さぁさぁいこー」

なんとなく無邪気さも垣間見える一之瀬さんに連れていかれて、着いた先は地下へと続くらしい階段。

 「暗いから気をつけてな―」

 「は、はぁ」

よく分からないまま降りる事になった階段を注意された通り踏み外さないよう一歩ずつ降りていく。

……どうしてだろう。部屋の明りは点いてるのに、ここだけが妙に暗く感じ気がする。

 「あ、そうそう」

 「……?」

全部で大体十段程度の階段を降り終えて扉の前へと来た僕に、一歩前にいる一之瀬さんは僅かにこっちを振り向く。

その顔は降りる前と変わらず笑っていたけれど…。

 「ここから先、何があっても強く心を持てよ」

眼は、真っ直ぐに僕を見ていた。

 「なんて、ちょっと脅かしておこうかな」

 「え、え?」

真剣さを感じた雰囲気も束の間、一之瀬さんはついさっきまでの様子を一変させて地下室の扉のノブを握る。

 「それじゃあ、この先にいるのがこれから一緒に仕事をする仲間。安置留置課……通称・アンリュウ課のみんなだ」

そうして、言葉の意味も分からないまま扉は開かれた。

足元を梳き抜けていく嫌にひんやりした風と、全身を駆け巡る今まで体験した事のない感覚。

表現するなら、全身に纏わり付く柔らかな孤独感。

これは、そう。数年前に出席した親戚のお葬式で亡骸を見た時に似ていて。

 「今日は早いですね一之瀬さん。……そちらが?」

 「そう。今日付けで移転して来た飛騨 貴俊くん。ここに来る最後の同僚だよ。みんな、仲良くしてな」

この部屋の最奥にはアンリュウ用の留置場があるのだと、直感で理解できた。


                ーーーー      


 「では、さっそく自己紹介と行きますか」

 僕が席に着き、どこからともなく一之瀬さんがあったかいお茶を持ってきてくれた時、初老くらいの男性が口を開く。

 「私は古垣 畑。古い垣の畑と書いてそう読むんだ。覚えやすい良い名前だろう?」

微笑み交じりの優しい口調で僕の向かい側に座る作業服っぽい姿の毛量のそれほど多くない白髪のオールバックの初老の男性ーー古垣さんは自己紹介をしてくださった。

……その後ろには一枚の分厚そうな扉があって、多分その先がアンリュウ用の留置場になっているんだろう。

 「私は主に会計と事務を担当してるよ。この課はとてもイレギュラーだからね。本部とは別に用意されているんだ」

ふふ、と笑い、手にしている資料の束をくわんくわんと揺らす古垣さん。

話を聞いている感じ、とても人のよさそうな方ではあるけど、階級はどうなんだろう……。

年齢的にも僕なんかよりは間違いなく上なんだろうけど、憶測で話すわけにもいかないし。

 「あぁ、そうそう。この課に於いて上下関係は一之瀬君がトップでそれ以外は同僚。その二つしかないから安心して。本部で貰った役職・階級がどうあれ私達は一重にアンリュウ課だ」

そんな不安を覚えていると、思ってもいない事実が判明した。

 「上下関係なんていうモノのせいで事件を見逃したくはないからね。彼女がそういう事にしたんだ。勿論、私達みんながそれに賛同している」

 「はい。先程古垣さんが言ったようにこの課はイレギュラーであり、今後定着していくにしても独立的な立場である事は暫く変わらないでしょう。故に私達は私達の規則をいくつか造り、それに則り行動するべきだとなりました」

古垣さんに続けて言葉を繋いだのは左の向かい側に座る規律正しそうなスーツ姿の女性。

漆のような光沢を見せる黒い長髪を背に流している彼女の雰囲気は、警察官というよりはキャリアウーマンを思わせる。

 「……失礼。自己紹介が遅れました。

私は東雲 文香(しののめ あやか)。古垣さんに倣って言えば、東の雲に文香る、といったところでしょうか。以後、よろしくお願いします」

 「あ、はい、よろしくです…」

恭しく頭を下げて自己紹介をされ、こちらも思わず深々と頭を下げてしまう。

今後は横並び均一な同僚になると言った直ぐ後のこの行動。

古垣さんや、隣に座る一之瀬さんを見ても彼女の言葉を訂正しないあたり彼女の癖なんだろうけど、あんな風に自己紹介されたら実感が湧かない。

 「さて、本当はもう一人いるんだが、彼はあいにく手離せない勤務中。お昼時には休憩に入るはずだからその時にでも自己紹介をしてもらってほしい」

 「わ、分かりました」

そう言ってチラリと一之瀬さんが目線を向けたのは古垣さんのうしろにある扉の方。

多分、最後の一人っていうのは看守の人なんだろう。

 「……と、いう事で、最後は君だ」

 「あ、は、はい!」

他の事を考えていたせいで心の準備をしていなかった僕は名前を呼ばれ反射的に立ち上がってしまう。

 「はは、座ったままでも良かったんだぞ?」

 「い、いえ、大丈夫です……」

『座ったままでも』と言われても流石にそういう訳にはいかない。二人がどうあれ一之瀬さんは直属の上司だ。幾ら彼女がフレンドリーだとしてもケジメはつけないと駄目だ。

 「えっと、さ、先程も紹介していただいた通り、名前は飛騨 貴俊です。飛騨山脈の飛騨に貴族の貴と才俊の俊。よろしくお願いします!」

自分でも分かるほど緊張した声色に、しかし三人はそれを茶化す事無く耳を傾けてくれる。

 「ほうほう。とても良い名だね。よろしく」

 「よろしくお願いします」

 「よ、よろしくお願いします」

二人の言葉に合わせてお辞儀をして、なんとなく照れてしまいながら椅子に座り直す。

 「と、言う事で。以上がこれから一緒に働く安置留置課のメンバーだ。改めて、よろしくお願いします!」

 「「「はい」」」

最後に一之瀬さんの一声が上がって自己紹介の時間が終わりを迎えた。

……そして。

 「では早速だがみんなの力を貸して欲しい。我々が取り扱う、最初の事件が起きた」

事件の捜査会議が始まった。


                  ーーーー


 場所は変わらずに始まった捜査会議。

今、僕達の目の前にあるのは、ホワイトボードにマグネットで張り付けられた幾つかの写真と、それに注釈を加えるように書き込まれた箇条書き。

 「さて、今現在分かってるのはこれだな」

その中央にあるのは若い男女の写真と、暗い中撮られたと思わしき俯瞰の写真だ。

 「事件は一週間ほど前、隣県である上川県の外れにある下池市の安置所で起きた。逃げ出したアンリュウは一人。藤林 杉・四十二歳男性で既婚で子供は無し。死因は糖尿病による血管疾患。事件が起きる二日ほど前に亡くなっている」

手元に配られた資料を確認しながら一之瀬さんの情報を聞き、二ページ目をめくる。

そこに書かれているのは一通りの家族構成と彼の仕事。それに、アンリュウの事件を調べるにあたって最も重要なモノ。

 「こちらの方はアンリュウレベル3という事ですが、どうやって判断したのですか?」

 「先々日私と古垣さんとで聞き込みに行った時に聞いた証言からだ。『藤林さんに似た人がコンビニに入るのを見た』というものがあり、そのコンビニに話を聞きに行ったところ、藤林さんらしき人物が買い物をしようとしていたらしい。

その際、彼は財布を忘れている事に気が付き帰って行ったと証言が取れたので暫定的にそう決定付けた。聞き込みについての詳しい内容は別途資料を渡すのでそれを参考にしてほしい」

 「承知しました」

東雲さんが一之瀬さんに質問したアンリュウレベルと呼ばれるモノ。それがアンリュウ捜査に於いては切っても切り離せない事柄になる。

そもそも、アンリュウというのは一度命を失った人物が何かの拍子に息を吹き返す事ーーではなく、死にながらにして動く人の事を言う。

そうして動き出してしまった人々は大きく分けて四つのレベルに分類できることが今までの調べで分かってる。

自分が分からず、生前の記憶も無い為、身体が覚えている事だけを繰り返す状態。

これがレベル1。

自分の事が分かるが生前の記憶はなく、断片的な記憶障害に近い状態。

これがレベル2。

自分の事も生前の記憶も覚えているが学習能力が無い状態。

これをレベル3とし。

自分の事も生前の記憶も覚えていて学習能力もある状態。

これを最後のレベル4としている。

レベルが上がるほど生きている人間に近くなっていき、暫定的にレベル3とされている藤林さんは殆ど生きている状態と同じだと考えていいだろう。

調査の進めば或いはレベル4になるかもしれない。そのくらい人のままだと考えて捜査した方がいいだろう。

 「渡した資料にもある通り彼は既婚者だ。今後主に現地調査を行ってもらうつもりである文香君と貴俊君には明日、聞き込み及び調査の為に現場まで行ってもらいたい。急で悪いが頼めるか?」

 「「はい」」

一之瀬さんの申し出に間を置かずに返事をすると東雲さんと声が被る。

彼女とはこれから一緒に行動するみたいだし、幸先は良さそうだ。

 「ありがとう。では、このまま会議を進めさせてもらう」

そうして、これまでの会議内容と資料を用いてのこれからの捜査方針を決定していった。



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 早朝。……朝五時。

現場までの到着時間をおよそ二時間とし、自家用車で高速を使わずに移動をするため出発時間をこの時間とした。

 「おはようございます。定刻より少し早い到着ですね」

 「はい。何があるか分かりませんから」

集合場所は安置留置課前。

東雲さんは車を所有していないので運転手は必然的に僕だ。

 「荷物はトランクか後部座席に置けばいいですか?昨日一之瀬さんから言われた通り、念のため宿泊の用意もしてきたのでそれなりにあるのですが」

課の前から小走りで運転席側へと来た東雲さんは手にした少し大荷物なバッグを僕に見せ、収納場所の指示を仰ぐ。

 「そうですね。仮眠を摂る事も想定してトランクの方がいいかもです。……まぁ、セダン車なので寝る用には作られてませんけど」

それに対し、若干不躾ではあるけれど、運転席の窓から東雲さんに荷物の置き場所を指示した。

 「分かりました。では、少しお待ちを」

 「もし僕のが邪魔だったら押し込んで大丈夫ですから」

 「はい」

最後にそう交わし、それから数分もしないうちにトランクの締まる音がして助手席の扉が開いた。

 「お待たせしました。それでは行きましょうか」

 「オーケーです」

扉を閉める音と同時に東雲さんが口にした言葉を受け、車を走らせる。

ビルや背の高い建物が並び立つ街を行く僕達。

早朝とは言えやっぱり都会。車通りはまぁまぁある。

 「凄いですね。僕が以前勤めていた場所だと、この時間はガラガラだったのに」

 「……以前は確か、地方でのお勤めでしたね。そんなにも違うものなんですか?」

 「えぇ。同じ人間が住んでいるのにそれ以外はまるで。……最早別世界ですよ」

 「そういうモノですか」

 「はい」

上川県までの所要時間はおよそ二時間。場合によってはもっとかかるかもしれないこの道中。

出来れば移動中は疲労を溜めたくないので話でもして気を紛らわせようと考えていた。

……んだけど。

 ーー話す内容が、見つからない……!

早速話題が尽きてしまった。

 ーーいや、考えてはきた。考えてはきたんだ。けど…。

昨夜リストアップしておいた当たり障りのないテーマを思い出す。

……が。

 ーー……改めて考えてみると、ほぼ初対面の異性に聞くには少しデリカシーが無い?

趣味や好み、特技や出身、或いはどこ住まいか、等々。思いつく質問自体はそれなりにある。

しかし、そのどれもが改めて考え直してみれば『いきなりそんな事聞くなんて失礼ですね』と言われてもおかしくなさそうなモノばかりだ。

特に昨今の時世を考えてみれば好きな食べ物を尋ねるだけでもセクハラになりかねない。

 ーーいやいや。流石に考えすぎか?何だと言っても今後の仲間なんだし、捜査も一緒にしてもらうって一之瀬さんも言ってたし、東雲さんだって波風立つような受け答えはしないはず。

うんうん、と自分の考えに心の中で何度も頷く。

実際、さっき何気なく口にした話題にはちゃんと返事をしてくれた。向こうとしても会話をする気持ち自体は持っているはずなんだ。

考えを固め、次の赤信号で止まったら話を切り出そうと意を決する。

話題にするのは好きな食べ物。これなら仮に反感を買うような事が起きても、お昼の場所を決めるのに……と、逃げ道がある。

我ながら気持ちの悪い決め方だけどこればっかりはしょうがない。下手すれば安置留置課の今後にも関わってくるんだ。慎重になるに越した事は無い。

言い訳にも似た気持ちを抱えたまま運転する事数分。……とうとう赤信号に遭遇した。

 ーーよし、いこう。

最後に会話をしてから既に十五分は過ぎてる。新たな話題を持ち出すにはそれほど悪いタイミングでもない。

「あの」。そう口にしようとした時。

 「良かった」

 「……え?」

全くの考慮外だった、東雲さんから話しかけられた。

 「あ、すみません。えっと、何が良かったんですか?」

僕としても話しかけようとしたタイミングでの出来事に思わず出てきてしまった言葉。

聞き返すというのは本来あまりいい行為ではない。けれど、東雲さんはその事は気にせずに呟きの理由を教えてくれた。

 「いえ。以前組んでいた女性の先輩は話すのが好きだったもので。飛騨さんのように、沈黙でも平気な方の方が私としては好ましいんです」

 「あ、あぁ、成る程。それで」

まるで考え付きもしなかった返答に喉まで出かかっていた話題を急いで飲み込む。

あ、危なかった。危うく行動そのもので東雲さんの好感度を失うところだった。

 「はい。ただ、そのお陰で人との接し方が学べましたので、悪い事ばかりではありませんでした。実際、聞き込みなどの際は相手の方とすぐに打ち解けられていましたから」

 「それは凄いですね。テクニックを是非教えてもらいたい」

 「……私が見て学んだことでよければ、行くまでの間にお教えしましょうか?今日から役に立ちそうですし」

 「本当ですか?運転しながらなので聞き返したりとかあると思いますけど、是非」

 「勿論。これからを考えればその方が何かといいでしょう」

東雲さんのその言葉に甘え、僕は運転をしながら人との話し方を教えてもらった。

彼女にとって嫌な事ーーつまりは地雷を踏みかけた時はどうなる事かと思ったけど、結果として会話に繋がったお陰で現場に着くまでの間殆ど会話が途切れる事は無かった。

だからなのか少しだけ東雲さんと仲良くなれた気がした。


                ーーーー 


 いい加減全身の筋肉が凝り固まっているんだと、認識せざるを得なくなった頃。

 「……着きましたね」

 「はい。運転、本当にお疲れ様でした」

僕らは事件の起きた現場に到着した。

 「県を一つ跨ぐと、やっぱり景色は変わりますね」

 「そうですね。県庁所在地からかなり離れているとはいえ、東都とは比べようもないくらい自然があります」

十数台程度の収容量しかない駐車場に停めた車から降りて、辺りを見回しながらそんな話をする。

僕らが捜査に来た場所はアンリュウが逃げ出した安置所。町外れの場所にあるため、辺りには木々が多く、少し離れた場所には住宅地が点在している。

 「ん……っくぅ~~!気持ちいい」

いくら会話をして紛らわせていたとはいえ長時間は長時間。結局想定よりも三十分も多く運転して到着したのだから、身体を伸ばす心地よさもひとしおだ。

 「飛騨さん。伸びもいいですが、あちらから誰か来ましたよ」

 「あ、すみません。ありがとうございます」

僕らにとっても、安置留置課にとっても初めての正式なアンリュウ捜査。開始早々協力してくれる方に変な姿は見せられない。

つい数秒前まで浮かべていたであろう疲労の表情と姿勢を正し、東雲さんが視線を向けている方へ僕も身体を向けた。

見えるのは施設の……多分裏口?に繋がる道から走りながら出てきた四十代前後の男性の方。

鍛えられていそうな体格や、服装を見るに警備員の人だろう。

 「お待たせしてすみません、遠路からお疲れ様です、あなた方がアンリュウ課のお二人でお間違いないですか?」

 「はい。安置留置課所属の東雲です」

 「同じく、安置留置課所属の飛騨と言います。本日は事件調査の為、お話を伺いに参りました」

それなりの距離を走って来ても息一つ切らさずにいる彼に敬礼を行いつつ簡単に自己紹介を行う。

 「承知致しました。私はこちらの安置所・[安眠]にて週四~五程度勤務しています佐原と言います。……本当でしたら逃亡したご遺体をここまで運んできたスタッフも同行させるべきだとは思うのですがなにぶん民間の、それも小さな安置所です。今日は都合悪く皆出払っていまして、案内等は私がする事になってます」

僕達に倣い敬礼を行い説明を行ってくれる佐原さん。

残念な事に今日は担当されたスタッフの方はいないようだ。

こちらとしては今すぐにでも帰って来てもらって話をしたいところだけれど、いきなり安置留置課の評判を落とす行為は出来ない。一先ず調査を行いつつ、帰りを待つようにしよう。

 「幸い、運ばれた日・逃亡した日、共に私が夜間警務を行っていたためある程度の質問にはお答えできるかと思います」

 「なるほど承知致しました」

 「そういう事でしたらとりあえずは問題なさそうですね」

次いで佐原さんが口にした言葉に東雲さんと頷き合い、話を聞く相手についての問題は一旦保留とした。

 「色々と伺いたい事はあるのですが、一先ず案内をお願いしてもよろしいですか?」

 「ええ、勿論です。では、こちらへ」

現状、再優先で行うべきは現場の検証だろう。

東雲さんは車の中であらかじめ相談していた捜査の手順通り、佐原さんに案内をお願いした。


                 ーーーー  


 ひんやりとした……いいや、冷凍庫を思わせるほど寒々とした大きな一室。

天井に等間隔に埋め込まれた小さなシーリングライトが室内を照らしているにも関わらず、どこか暗い雰囲気が醸し出されている。

 「ここがご遺体を安置させていただいているお部屋になります。逃亡した彼が一先ず収められていた場所は奥から二列目の上から三段目。極力事件当時のままにしておこうと、クリプトは開いたままになってます」

 「ご協力感謝します。中に入っても?」

 「はい。必要であれば他のクリプトを開けてもよいと指示は受けています」

佐原さんの言葉に頷き、逃げ出した彼の入っていたというクリプトの場所ーー人の身体で言えば半分程引き出されてる場所へと向かう。

壁の色は光沢の少ない銀色。クリプトに使われている素材は薄いチタン製の板であり、色はやはり銀。

 「……この痕は何ですか?」

隣で検分していた東雲さんが最初に目を付けたのはクリプトの底板に当たるチタンの板の妙な痕だ。

大きさは拳ほどのサイズも無く、よくよく見れば他にも二か所、離れた場所にそれぞれ似た痕がある。

 「それは多分ドライアイスの痕ですね」

 「ドライアイス?」

 「はい。安眠ではご遺体の保存の為にドライアイスを使っています。直近でもそのクリプトは別のご遺体を安置していましたし、癖というか、残ってしまったんだと思います」

 「……なるほど、分かりました」

佐原さんの言葉に頷き、再びクリプトに目を向ける。

……と言っても、底板にはそれ以上の情報は無い。

 「この引き戸は取り外す事は?」

 「可能ですよ。少しお待ちください」

で、あれば。

逃走するために何かしただろう痕跡は天井に付いている事になる。

 「……どうぞ」

 「すいません、ありがとうございます」

僅かに重量のある長いトレイが床に落ちた時のような音が響き、完全に引き戸が取り外される。

 「東雲さん、ライトって持ってますか?」

 「スマートフォンのでよければ」

言って、東雲さんはポケットから取り出したスマフォを手早く操作してライトを点けて下から覗くように照らしてくれる。

 「………うん、確かにここから逃げ出したみたいだ」

 「ですね。しっかり痕がついています」

そうして見えたのはタールとも見紛うほどに真っ黒な七本の線。

これらは恐らく逃亡した藤林さんの指先の痕。

この安置所のクリプトには鍵が付いていない。しかし、だからと言って中から簡単に開けられるはずもない。

内側から無理に開けるとなれば力業になる事は必須で、既に死んでいる身体が耐えられる負荷はそれほど多くない。

……つまり。

 「彼の指先は現在、内側の肉ないし骨が見えている状態、って事になりますね」

 「はい。しかし、買い物をしようとしたコンビニではそういった騒ぎは起きていなかった」

そう。東雲さんの言うように一之瀬さん達がコンビニで話を聞いた時にはそういった身体的特徴は挙げられていなかった。

アンリュウとはあくまで遺体。生前の癖・視覚情報・思い込みから反射的に反応する事はあってもそもそもの痛覚は存在しない。

そんな存在が暗闇の中で出来た指先の異常に気が付くはずはない。

……誰か、協力者がいる。彼が逃げ出した後指を取り繕い、匿っている協力者が。

 「……一先ず場所を移しましょうか」

恐らくは同じ結論に達したのだろう。東雲さんは佐原さんにそう言うと、取り外してもらった引き戸を戻すようにお願いした後、事務所へと案内するよう促した。


                ーーーー  


 外の景色がよく見える窓が付いた職員用の事務所。

二か所ほど窓は開けられていて、心地のいい風がデスクに置かれている資料を時折めくっている。

 「少しお待ちください。今、お茶をお持ちしますから」

 「ああ、お気になさらず」

恐らくは客室なのだろう。衝立で区切られた先のソファに案内された僕たちは佐原さんに促されるまま座り、その数分後に湯気の立つ緑茶が彼の手によって運ばれてくる。

 「すいません、ありがとうございます」

 「いただきます」

 「ええ、どうぞ」

コーヒーカップに淹れられたお茶を一啜りして僅かに心が落ち着いた後、東雲さんは改めて佐原さんに向き直る。

 「幾つかの質問をしたいのですがよろしいですか?」

 「はい。分かる事でしたらなんでも答えます」

 「……では」

彼女の目配せを受け、僕は手帳を取り出す。

 「まず、事件当時ですが何か異常はあったりしませんでしたか?いつもより来客が多かったとか、どんなことでも構いません」

 「……いえ、特にそういった感じはしませんでしたね。安置所ですしそもそも人が訪れる事はそうそうありません。誰かの不幸が多ければその分ご家族の方やご友人の方がお見えになりますけど、あの時は平時と変わらず二~三組の人が来て、彼らもまたご自身と関係のあるご遺体との面会を望まれていました。ですので、不審な人間も居なかったはずです」

 「なるほど。では次に……」

想定していた幾つかの質問を一つずつ尋ねる東雲さん。

その返答を僕は手帳に書き記していき、同時に矛盾が無いかを探していく。

……勿論、佐原さんが逃亡者である藤林さんに何かをしたとは現状思っていない。

けれど、自分では間違っていないと思っていても矛盾した記憶というのは往々にして見られる。それが事件を解決する手掛かりにならないとは言い切れない。

だから僕は可能な限り粗を探さなければいけないし、それを悟られてはいけない。

悟られれば最後、佐原さん自身が自分の考えを改めて考え直してしまい、情報そのものの正確さが失われてしまうからだ。

 「……最後に、もう一つよろしいですか?」

 「はい、なんでしょうか?」

 「……少々不躾な質問になってしまうのですが」

予定していた質問も終わり、最後の質問に東雲さんはかかる。

 「今回逃げ出した方……藤林さんですが、そのご家族の方と安置所以外でお会いした事や友人関係などを持たれた事はありますか?」

 「……ふむ」

最後に彼女が尋ねたのは端的に言えば『貴方は犯人ですか?』という質問だ。

極論、犯罪というのは被疑者と被害者との間に一切の接点が無ければ本来起こり得ない。

無差別テロや通り魔などはまた話は変わってきてしまうのだが、殆どの場合は恨み妬みに始まり出世の邪魔だといった利害の不一致などに要因が見られる。

今の質問はそれらの可能性を除外するためのモノ。

……逆に言えば、ここで引っ掛かりがあれば真っ先に容疑者に成り得るのだが。

 「そうですね。ここ以外ではお会いした事はありませんし、案内の都合上少し打ち解けた話し方をしたりはしましたが、知人程度にも思われていないはずです。連絡先の交換などもしていませんし」

 「……分かりました。すいません、一応形式上聞かなければならない質問ですので、お気を悪くさせたなら申し訳ありません」

最後の質問の返答を受け、僕と東雲さんはソファから立ち上がり佐原さんに頭を下げる。

 「い、いえいえ。そちらもお仕事ですし、お気になさらないでください」

 「そう言っていただけると幸いです」

少し遅れて立ち上がった佐原さんは僕らに頭を上げるように促し、東雲さんと礼をやめる。

 「一先ず、私達の聞いておきたかったことは以上になります」

 「後ほど……次は、実際に担当されたスタッフがいる時にでも改めて話を聞きに来たいと思ってるんですが、大丈夫でしょうか」

 「勿論。私の方からスタッフには言っておきますので、事前に連絡さえしていただければいつでもいらしてください。こちらも見落としが無いか確認しておきますので」

 「ご協力、感謝します」

 「お茶、御馳走様でした。美味しかったです」

そう言ってもう一度二人でお礼をし、佐原さんに駐車場まで案内してもらって安置所を後にする。

 「……どう思いましたか?飛騨さん」

車の中、次の捜査先へ向かいながら東雲さんにそんな事を聞かれる。

 「今回聞いた話の限りでは矛盾した点はありませんでしたね。最後の質問も目の動きとかを注意してみてましたけど不審な点はありませんでした。

まぁ、アンリュウとの接点は無いでしょうね」

 「やっぱりそうでしたか」

あの質問は暗に含められた意味を知っているとより意味を成す。

つまりは『あなたは犯人ですか?』と、相手が理解して答えているかどうかだ。

以前は一大ブームになっていた刑事物ドラマの影響で察しの悪い人でも伝わりやすくなったもう一つの意味。お陰で今は心理的な揺らぎがより明確に読み取れるようになった。

それを踏まえて佐原さんの答えを考えれば、あれらに嘘は無いと分かり、一先ずは協力者候補から除外していいだろう。

 「となると、次に話を聞くべきなのは」

 「婚約者の方、ですね」

 「早速行きますか。道案内お願いします」

次の行き先の住所を前もってスマフォのメモ帳に書き込んでいた東雲さんにそれを見てもらいながら案内をしてもらった。


                 ーーーー  


 安置所から大体一時間。

街中へと進んで行ったからかあたりの風景はすっかり変わり、ビルや量販店、時折スポーツジムなどが目に入る。

また、時間はお昼前。当然の如く道は込み始め、進み具合はお世辞にもいいとは言えなかった。

……そんなこんなで到着したアンリュウ・藤林さんのお宅。

インターフォンの近くに掛けられている表札にはアンリュウの名前と奥さんである都さんの名が書かれている。

 「では」

東雲さんの視線に合わせてお互い頷き合い、彼女はインターフォンを鳴らす。

よくあるチャイムが響き、それの少し後に中から声が聞こえてくる。

それから一分もせず扉前まで足早な音が響き。

 「……どちら様でしょうか?」

チェーンロックの隙間から顔を覗かせて、ほんの僅かな沈黙の後に、現れた都さんが口を開いた。

 「初めまして。私は東雲、こちらは飛騨と言います。こちらは藤林さんのお宅であってますか?」

警戒心を持ったままこちらを覗き見ている都さんに対し、東雲さんは普段のーーともすれば怖くも取られる口調を一変させ、明るく堅苦しさの薄い声色で話し始める。

 「え、ええ。そうですが……」

 「急にごめんなさい。私達、怪しい者ではないんです」

訝し気に僕らを舐め上げ、僅かに扉の隙間を絞る都さん。その時に東雲さんは一度頭を下げてから何かを見せた。

 「亡くなられた旦那さんのお話を伺いたくて……」

 「……あぁ、そういう事でしたか」

それは、僕らにしてみれば必殺の一手とも言える警察手帳。

 「少し、お待ちください」

微かに瞼を大きく開け、視線を伏せた都さんはそう言って家の中へと戻る。

それから十五分ほどした後、今度はチェーンロックを使わずに家の扉を開けてくれた。

 「中へどうぞ。……少し、散らかっていますが」

扉の底の角が僅かに擦れる音を耳に、都さんに家の中へと促される。

途端、僕らは異常に気が付いた。

 「……はい、ありがとうございます」

 「失礼します」

何も見なかったかのように振る舞い靴を脱ぎ、用意されているスリッパを履いて都さんに続いて奥へと進む。

その道中見たモノは、端的に言って悲惨だった。

靴箱の上に置かれていたであろう花瓶は床に落ちて砕けていて、そこに入っていた花は玄関内側で栄養を失い腐りかけ。

廊下を進めば中身の入っているゴミ袋が一か所にまとめられていて、そこから目元をヒクつかせるほどの異臭が発生している。

……とてもじゃないが、資料にあった[一般的な家庭]とは思えない。

更に進めばリビングに繋がるステンドグラス型の扉は何か所か割れていて中が覗けて見える状態だ。

二階へと続く階段……恐らくは都さんや生前の杉さんの寝室・自室に繋がっているのだろうが、来客が予想される場所ですらこの状態だ。どうなっているかは想像に難くない。

これだけの情報があれば嫌でも分かる。この家で何かしらの異常があった事は明らかだ。特に、割れたガラスの破片が付近に散乱していない点は殊更異常だと言えるだろう。

何故なら、誰かが既に片付けた後だから。

 「座って待っててください。今、お茶を用意しますから」

都さんのテーブルに向けられた視線を辿り椅子へと向かい腰を下ろすが、リビングもやはりまともな様相とは言えない。

一部屋が食事用とくつろぐ用の二スペースに分けられているリビングだが、くつろぐ用の区画に設置されているテーブルの上には二人分のコーヒーカップが置かれている。

片方は少なく、片方は一杯分。少ない方が都さんが飲んでいた物だとして、もう一つは誰のになるのか。

その答えは食事用の区画にあるテーブルの上ーーつまり、今僕らが座っている場所にある。

 「お待たせしました。あいにく、大したものは用意できないのですが」

 「いえ、こちらも急に押しかけてきましたのでお気遣い無く」

目の前に差し出されたティーカップに入っているのはほんのり色の濃い紅茶。

香りは良く、鼻腔を濡らす湯気は心を穏やかにしてくれる。

あくまで、その周りにあるモノを視界に入れなければ。

 「散らかしたままでごめんなさい。夫が食事をしていたものですから」

 「……こちらも配慮が足りませんでした。時刻で言えばお昼時。食事中であることも考慮すべきでした。申し訳ありません」

 「いえいえ、私の家は他に比べて早いみたいですから。お気になさらず」

東雲さんと一緒に謝罪をして、その下げた頭のままで視線を彼女と合わせる。

 ーー飛騨さん、分かっていますね?

 ーーはい。お互い、気を付けましょう。

今の都さんの発言で僕らは理解した。

彼女は今も、杉さんと共に暮らしているつもりなのだと。

その核心を裏付けるのに、テーブルの上にある片方が手つかずの二人分の昼食は充分過ぎた。

……それとも、或いは。

 「それで、夫がどうなさったのでしょうか」

 「それがですね」

一瞬の間に意志疎通を行った僕らは、可能な限り注意を払い、彼女に質問を始める。

 「旦那さんーー杉さんですが、確か、持病がありましたよね?」

 「はい。五年ほど前から糖尿病を抱えています」

 「失礼ですが程度はどれほどでしょうか」

 「……徐々に悪くなってますね。私も食事などに気を配ってはいるのですが、元々インスリンが効きづらい事もあって少しも改善せず……。大体一年ほど前に心筋梗塞を一度起こしてます」

 「そうでしたか。その際はどんな風に起きましたか?」

 「そうですね……。確か、食事中に急に痛みを訴えて胸の辺りを抑えたかと思うと椅子から落ちて、そのまま病院に着くまで収まりませんでした」

 「その後は、合併症も含めて、何か異変は?」

 「…………なかった、ハズ、です」

 「それは良かった。では、今は比較的経過は順調なのですね」

 「…………まぁ、そうなります、ね」

 「…そうそう、旦那さんの御趣味をお伺いしてもいいですか?」

 「趣味、ですか?あの人は釣りが好きですよ。海でも川でも、釣りなら何でも。まぁ、本人が言うには『広く浅くなにわか』らしいですが」

言いながら都さんは薄く笑う。

 「なら行きつけのお店とかはあったりしますか?釣具店でも、アウトドアショップでも、なんでも構いません」

 「えーっと、釣具店なら一応わかります。符馬市の町中にある[魚々縁]ってお店です。以前、夫に誕生日のプレゼントを買う時に行きつけだと聞きました」

その質問をすると同時、東雲さんは一瞬だけ、メモをしていた僕の方に視線を向ける。

切り上げの合図だ。

 「分かりました。長々とすいません、とても助かりました」

 「いえ、お役に立てたなら幸いです」

 「では、私達はこれで」

言って立ち上がった東雲さんに続き僕も席を立ち、玄関へと向かう。

 「もしまた何かあればお話を伺いに来るかもしれません。その時はよろしくお願いします」

 「はい」

最後に一言、扉の前でそう伝え、僕らは藤林宅を後にした。

 「…………どうでしたか飛騨さん」

 「………」

車に乗り、次の目的地である魚々縁と向かう僕ら。

けれどその車内は、単に[業務中だから]といった緊張感とはまるで意味の違う重さに包まれている。

 「…東雲さんは、これまでのアンリュウ捜査の資料を読んだことありますか?」 

 「それは勿論。……ええ、勿論」

空気を緩やかだと感じる昼下がりとはまるで思えない苦しさの中、僕らが思い返しているのは前任者達の捜査報告書の内容。

その頃はまだ、ゾンビやキョンシーと呼ぶ人が居た時だ。

 「苦しいですね。精神的に追い詰められてああなってしまっているのなら真実を告げるしかないですし、もし匿っているのだとしたら…」

 「……はい。何とかして引き渡してもらうしかありません。恨まれる事になっても、絶対に」

どう頑張っても人間はそれまでの常識で物事を見てしまう。

だから、今まで存在していたモノが何の前触れもなく消え去る事に耐えられるはずがない。……同時に、一度失ったモノが再び帰ってくるはずがない。

けれど、アンリュウ化はそれが可能になってしまう。

死んだ人が何であれ甦る。

死んだままであるはずなのに、生き返ったと錯覚できてしまう。

だから、大切な人の死が夢だったと思えなくなってしまっている人を夢から冷ますのが僕らの役目であり、背負うべき罪。アンリュウと関係があった彼ら彼女らには絶対に背負わせてはならない罪だ。

 「……それでも、僕は都さんが何かを知っていると思います」

手にしているメモ帳に書かれているのはさっきの質疑の内容。

今のーー正確には亡くなってからの、杉さんの関係する話としない話。この二つをした時、関係する話の時の方が明らかに返答に時間がかかった。

その際の顔は困惑でも焦りでもなく[呆然]。

まるで話を理解できていないかのような顔だった。

けれど彼女は答えた。恐らくは、過去に於いて質問に最も類似する記憶を、或いは[生きているならこうだっただろう]といった憶測で。

つまりは捏造だ。

無いはずの現実を、記憶を元に返答にそぐうように組立たのだろう。

これは受け入れ難い現実を目の当たりにした時稀に見られる症状の一つで、小さな子供や恋人を失った人にも起きたりする病だ。

一之瀬さんから事前に貰った資料を見る限り、夫婦仲は時々二人で泊りがけの旅行に行くほど円満だったらしい。

結婚して十数年の夫婦だ、小さな喧嘩などはあったに違いないが仲がいい事には変わりない。最愛の人を失ったショックで心が弱ってしまった可能性は充分考えられる。

しかし、あれが演技だったとしたら?

別に難しい事じゃない。

実際にその症状に見舞われた人の真似をすればいいだけだ。余程怪しい素振りを見せない限り人は相手が演技しているとは普通思わない。

多少不思議に思われるくらいじゃそこに突っ込んでくる人間は全くいないと言っていいだろう。

もしそうなら記憶の捏造をしたと思われる返答も納得がしやすい。

現状、都さんを、協力者ではない、と断定する事は難しい。いや、寧ろ一番の容疑者と考えていいだろう。

単にアンリュウとの関わりの深い人が現状彼女しかいない事だけでなく、過去の事例……[アンリュウを匿っていた]というのから見ても可能性はかなり高い。

 「私もそうだと思います。彼女の事はもう少し念入りに調べた方がいいかと」

 「はい。次の場所での聞き込みを終えたら休憩も兼ねて一度情報を精査しましょう」

今後の一先ずの方針を決めた僕らはナビに従い次の目的地である魚々縁へと車を走らせた。


                ーーーー    

 

 時刻は夕方。

昼間よりも更に込み具合が増した道路を、幸いにも僕らはスムーズに進めている。

 「対向車線じゃなくて良かった……」

 「ですね。今の疲労具合であの列に居たらと思うとゾッとします」

窓ガラスから隣の様子を覗き見る東雲さん。

列が絶えずに繋がっている方向は東都へと向かう道だ。

どうやら東都から上川県の方まで仕事に来ている人が多いらしく、かなりの帰宅ラッシュとなってる。

 「泊まる選択肢は正解だったみたいですね、飛騨さん」

 「それはもう、本当にそうですね……」

そんな中、僕らが渋滞に巻き込まれずに済んだのはこの街で一泊する事にしたからだ。

 「……まぁ、まさか一部屋しかダメだ、みたいな事言われるとは思いませんでしたけど」

 「それはまぁ……。ですが仕方ありません。明日の捜査効率を考えれば最善の策のはずですから。安置留置課に資金が無いのも事実ですし」

少し前にした電話の内容を思い出しため息が漏れる。

僕らの勤める安置留置課は文字通り新設された課だ。

それはつまり、実績がまるでない事を意味し、そもそもが特殊な業務であるため予算の予想を立てる行為自体が難しい。

更に言えば現状安置留置課があるのは東都の僕らの部署のみ。北は北海道から南は沖縄まで、事件があれば飛ばなければならず、いつ何時莫大な費用が掛かるとも知れない。

一応事前に追加予算を申請する事自体は可能らしいけど、上の人達は勿論いい顔をしないし、他部署の人らも僕らほどではないとはいえやはり予算は厳しいらしい。[新設だから]という甘えは出来ず、寧ろ[新設なんだから]といった暗黙の圧力を受けている状態なわけだ。

 「モラルの面はありますが、とは言え私達も大人で、かつ業務中。理性的に過ごしましょう」

 「…ですね」

働いてる人にこの仕打ち。仕方ないとはいえため息が漏れてしまう。

 「早く、休みたいですね」

 「はい」

文句は文句しか呼ばない。今の一言で最後にし、運転に集中した。


                ーーーー  


 ため息を飲み込んだまま運転する事十五分。

ビジネスホテルに到着し、チェックインを済ませた僕らは一部屋にベッドが二つある部屋でようやく腰を落ち着け、道中買ってきた軽食を食べつつ会議に入った。

 「じゃあまず、魚々縁の店員の話からまとめますか」

 「そうですね。彼の話が一番あやふやでしたから」

東雲さんは唐揚げ入りおにぎりを片手にノートパソコンに[報告書]の文字を打ち込んでいく。

 「まずは、最後に来店した日」

今日一日の聞き込み内容が書かれているメモ帳を開き、箇条書きした情報を一つずつ分解していく。

 「はい。一週間ほど前に来たと言っていました。ですが安置所である安眠からあのお店までは車でも一時間。アンリュウは普通の人間と同じ速度でしか歩けない・走れませんから、直接行った場合、徒歩なら単純計算で八時間前後は掛かります」

 「杉さんがアンリュウ化したのがそもそも一週間前なのを考えると、それよりも後に訪れた事になりますね」

 「一之瀬さんがコンビニで聞いた話では訪れたのは二日前。そのコンビニと魚々縁までは車で三十分はかかりますので……」

 「歩いて行くのは無理じゃないですが、彼がアンリュウレベル3なのを踏まえると、四時間もかけて移動するとは思えません」

 「公共の交通機関を使ったとして、電車はないし、バス停もその付近にはありませんでしたね」

 「そもそも自家用車を持っていますし、生前の記憶があるのならそれを使うような気はします」

 「となると、藤林さんの家に車があったかですが」

 「……置いてありましたね。黒の軽自動車が」

 「なるほど。ならそれを使って行動が可能になります」

 「安眠から藤林宅まで徒歩一時間。アンリュウの性質上、レベルに関係なく最初はほとんど全員が自宅を目指します。一度は帰っていると考えた方が自然っぽいですね」

 「はい。……では、これまでのを纏めると」

一通りの答えが出そろったため、東雲さんは手早く文字を打ち込む。

 [アンリュウ・藤林 杉はアンリュウ化の後一度帰宅した可能性あり。その場合何らかの方法(恐らくは自家用車である黒の軽自動車)を使用し、各出没エリアに訪れたと推測できる。またその順番及び日時は。

【アンリュウ化から二日前後に釣具店【魚々縁】→それから三日後にコンビニエンスストア】となる]

 「……こんなところですね」

東雲さんは十数秒足らずでまとめた内容を打ち込み、エンターキーを入力した。

 「はい、それでいいと思います。じゃあ次は、魚々縁で何をしていたのか、ですね」

 「新商品を一通り確認した後、店員と少し会話をして帰宅……でしたね」

 「ですね。その新商品を確認している時の挙動がなんとなく変だったという話もあったので、アンリュウレベルはやっぱり3だと思います」

 「私もそう思います。新しい物に対して拒否反応や妙な反応を見せるのは学習能力の無さの表れですし、レベルは3で話を進めましょう。他の情報が出てきたらその都度レベルを検討という形で一先ずはいいと思います」

そうやってメモ帳にある返答をまとめていき、全てを報告書に書き込み終えたのは一時間ほど経ってからだった。

 「………さて、こんなところですかね」

 「はい。お疲れ様でした!」

最後に、内容に間違いが無いか見直し、互いに問題が無い事を確認し終えてから一之瀬さんと古垣さんにメールを送信した。

ほどなくしてパソコンの画面に浮かびあがる[送信完了]の文字。

それはつまり、報告終了を意味していて。

 「今日の仕事はこれで終わり、ってことでいいのかな?」

業務終了の合図でもあった。

 「そうですね。聞き込み内容のおさらいと共に報告も済みましたし、これで終わりでいいと思います。他にやる事と言えば明日の予定を立てるくらいでしょう」

 「あー、確かに。それはしないとまずですね」

 「ですが、それは少ししてからでいいでしょう」

そう言って東雲さんは立ち上がるとトイレと併設になっているお風呂場へと向かう。

 「流石に疲れましたし、まずはお風呂にでも入りましょう。明日の事はそれから決める事にして、今は休息するべきです」

 「ですね。いや~、疲れたぁーー」

 「では、湯船の用意をしてきます」

一度振り向き、微笑みを見せた東雲さんはお風呂場へと繋がる扉を開けて、言った通り湯船の準備を始めた。

蛇口の捻る音と勢いよく出てくる水の音。この調子だと、お湯が溜まるのは十分くらいだろうか。

 「浴槽の大きさからみて十~十五分ほどで溜まると思います。どちらから入りますか?」

戻って来た東雲さんは二つあるベッドのうちの一つに腰を下ろしながら聞いてくる。

 「僕は情報を元に明日の経路をピックアップしたいので東雲さんから先にどうぞ。場合によっては事前に道を調べないといけないでしょうし」

手にしているメモ帳を見つつそう答える。

確かに明日の予定を決めるのは一息ついてからだけど、だからと言って沸くまでの間何もしないでいるのはなんとなく落ち着かない。だったらその余分な時間を使ってそれとなく目星をつけておいた方が後々楽になるはずだ。

 「手伝いますか?」

 「それは大丈夫です。運転するのは僕ですから、そのくらいは責任を持ちますよ」

気を遣って聞いて来てくれた彼女に手を振って申し出を断る。

これで彼女に手伝わせてしまったらそれこそ休憩の意味が無い。今これをやってるのはあくまで僕の我儘。そこに東雲さんを巻き込むわけにはいかない。

それに、今日のルートの確認もついでにしておきたかったから一石二鳥なわけだ。

 「分かりました。そういう事でしたらお任せします」

 「東雲さんがお風呂を出るまでの間には決めておきますんで、そしたら最終的にどうするかを一緒に考えましょう」

 「はい」

考えに納得してくれたのか、東雲さんはそれ以上僕のやっている事を聞いてきたりはしなかった。

そうしてお風呂が出来上がっただろうなという頃。

 「では、先に失礼します」

 「はーい」

恐らくは時間を確認していたんだろう。丁度十分経った頃に東雲さんは小さくまとめられたバッグを片手に浴槽へと消えた。

 「さてと。僕もいい加減道の確認を終わらせないとな」

東雲さんの背が浴室の扉に重なって消えるまで行方を見守っていた僕は手で持っているメモ帳に視線を戻す。

今日聞き込みしたアンリュウと関係している場所は一之瀬さん達の行ったコンビニ、安置所の安眠、藤林宅、魚々縁の四つ。

安眠に関しては担当のスタッフが出勤していなければ行ってもあまり意味はない。だからこれは明日確認してからじゃなければ決められないので行くかどうかは保留にするとして、問題は他の三つだ。

残念な事にこの三つの場所は全てホテルから遠い。通り道だからーーといった理由で巡る順を決める事は出来ない。

それに魚々縁とコンビニの間は一時間ほど離れているので、順を追っていくとすればどちらからも三十分程度しか離れていない藤林宅を挟まないといけない。

けど出来れば一番話す時間が長そうな都さんは最後に残しておきたいところだ。

 「……ん?」

そうやって順路を確認している最中、ふと気が付く。

 「これ、都さんの家、ちょうど真ん中になるのか」

アンリュウの住んでいた場所である藤林宅は、彼が出没した店と店の間に位置する場所にある事に。

勿論一直線上にあるわけではないが、それぞれの店に車で行こうとする場合、出発点を藤林宅にすればほぼ同じだけの時間で到着出来る距離に家がある。

 「まさか偶然なわけないよな」

アンリュウの所在地が分からない今、この情報は極めて重要だ。

二つの場所に歩いて直接行こうとする場合、移動にかかるのはおよそ八時間。疲労という反応はあっても実際に疲れているわけではないアンリュウにしてみれば決して無理な移動ではないが彼のレベルは限りなく確定に近い3。新しい情報を覚えられられない点を除けば殆ど人間である彼がそんな常識から外れた行為をするとは考え難い。

しかし、一度家へーー藤林宅へ帰っているとしたら?

安眠から藤林宅までは歩く以外に移動する術がなかったとしても、そこから先は車が手に入る。

であればバスなどの公共機関を使わずとも移動は簡単だ。徒歩での移動時間の計算なんて何の意味も無くなり、これまでの出没場所に対しての捉え方も変わる。

 「……でももしそうだとしたら潜伏場所は藤林宅になって、協力者は都さんになる」

だとすれば今日僕らが行った時車が置かれていた藤林宅にはアンリュウがいて、都さんは顔色一つ変えずに質問に答えていた事になる。

 「一般の人に出来るのか?そこまでの事が……?」

確かに、普通に暮らしている時……特に初対面の人の嘘や演技を見抜けるとは思っていない。けれど、これでは話が変わってくる。

真後ろに爆弾があるのを知っている状態で『爆弾はありませんよ』と言っているのと同義だ。

不安材料がある以上、心に揺らぎが生じ、必ず視線や呼吸に嘘が現れる。それを見落としていたとは思えない。

自分が一切被害を被らないのであればそれも可能だろう。が、警察に虚偽の証言をすれば罰せられるのは今や知らない人はいない一般常識だ。少なからず被害を受ける爆弾を背に抱えたまま全くの嘘を吐けるとは考えられない。

当然、都さんが役者志望だったなどの経歴は無く、そもそもの技術面でも力が無い。

総じて、あの段階で家にいたとは思えないし、となれば家を拠点に出歩いていたはずも無くなる。

……けど、これはあくまで普通に捜査をした場合の話だ。

今回の相手はアンリュウ。そのくらいの常識ならなんて事無く裏切って来る可能性がある。

何せ、帰ってきたのはもう二度と逢えなかったはずの愛しい相手だ。並々ならぬ覚悟で嘘を吐くだろうし、だとすれば僕らが頼りにしてる心の揺らぎを表に出さない程度の事してもおかしくない。

とすれば、アンリュウの潜伏先は自宅になるのだが。

 「……いや、まだ結論は出すべきじゃないな」

考えを巡らせた末、見つめていたメモ帳を一旦閉じる。

 「アンリュウの行く先が生前の自宅だ、なんてのは安直だ。これまでの捜査資料を見る限り、家に戻る確率は五分五分。それも、まだアンリュウという存在が世間に認知されていない頃に集中してる。事実上の黄泉帰りになるアンリュウ化が広く知れ渡った今じゃ家族に迷惑が掛かるのを恐れて野宿などしている場合が多いんだし、もっと情報を集めてからじゃないと目星をつけるのはダメだ」

メモ帳を自分のベッドの上に放り投げて身体を壁に預ける。

 ーーアンリュウ化、か。

安置留置課に転属が決まった際に取り寄せた事件の資料の内容が脳裏に蘇ってくる。

【今はまだ世間的に知られていない原因不明の黄泉帰りだが、聞き込みをする際に耳にしたのは基本的に否定的な意見ばかりだ。

『ゾンビのようで恐ろしい。腐敗臭がするんじゃないか。病気を持っていないか不安だ』。

勿論その不安は間違いじゃない。私達でさえ事前に情報が無ければ化物だと考えて銃の発砲も躊躇いはしなかっただろう。

だが実際は違う。

彼らは彼女らはあくまで人間であり、我々が想像するような恐怖とは無縁の場所に位置する存在だ。ゾンビのように死を蔓延させる存在ではないし、アンリュウ化の時点で腐敗は停止、未知の細菌やウイルス・既存の病の一切も媒介しない。化物などと言うのは以ての外だ。

故に、人間はーー少なくとも捜査に当たる人間は、彼らに恐怖心をもって接してはいけない。いつ解けるとも知れないアンリュウ化と今後を共にしなければならないのは彼らで在り彼女達なのだから】

 ーー資料に罹れていた内容は全て本当だ。でもそれを全ての人間に理解させるのは難しい。……きっと、警察にだって。

 「どうしたもんかな」

小さな憤りを感じていると僕はいつの間にか天井を見上げていた。

 「どうされました?」

 「あ、し、東雲さん」

その視線の先に突然現れたのはホクホクと湯気を全身から昇らせている東雲さんの顔。

頬が紅く染まり、心なしか普段の凛とした表情が少し緩んでいるように見える。

 「お風呂、出ました。お次どうぞ」

 「あ、すいません。ありがとうございます」

小首を傾げつつそう口にした東雲さんにお礼を言って逃げるようにして浴室へと向かう。

 ーー……ちょっと待って。今更だけど、これって結構な事案じゃないのか?

ついさっき僕が見たのはいつも通りのきちっとしたパジャマ姿の彼女だ。

でも、間違いなく髪や全身からシャンプーとかのいい匂いがしたし、よくは見てなかったけど格好は多分パジャマだ。

それらは全部お風呂上りなら当然なわけで、これに関しては僕の想像力不足が招いた動揺でしかない。

 ーーん?じゃあ心構えさえ出来ればいいのか?

そう思って少し想像したところで、考えるのをすぐにやめた。

だって、ビジネスホテルとは言え男女で同じ部屋に泊まってるんだ。前提条件からして考えるのをやめるべきだろう。

 「……最初っから大変な事件だなぁ……」

一切の雑念を捨てて浸かったお風呂。頭の中には煩悩の入り込む隙間が無いようにびっしりと明日の捜査のシュミレートで埋め尽くしている。

そんな中でも嗅覚はどうしても敏感なようで……

「同じ部屋で寝るんだよなぁ………」

浴室はやっぱりシャンプーとかのいい匂いがした。


                   ーーーー


 室内灯は既に消え、今灯っているのは足元が見える程度の薄明り。

しんと静まり返った部屋の中で、耳をつくのはベッドの軋む音と布団の擦れる音。

……それに。

 「飛騨さんはどうして安置留置課に来たんですか?」

東雲さんの問い。

 「僕、ですか?」

 「はい」

お風呂を出て、明日のーー正確には今日の向かう順を手短に決めた僕らは時間も時間という事で早々に床に就いた。

それから数分もしないうちに、彼女は、そう質問して来た。

 「……僕は、一之瀬さんに誘われてです。どこで僕の名前と経歴を知ったのかは分かりませんけど、いきなり派出所に来て安置留置課の説明をしたかと思うと誘ってくれたんです。『君のような人が必要だ』って」

課に入った理由を偽りなく伝える。

そう。嘘は吐いてない。

派出所に行く前の事は聞かれていないんだから。

 「……飛騨さんもそうだったんですね」

 「…え?」

僕の返答に対し、東雲さんは微かにベッドの軋んだ音を響かせる。

 「私も一之瀬さんに同じような事を言われました。『君のような正義感を持つ人こそふさわしい』って」

そう言って、東雲さんは少しだけ昔話を始めた。

それは何と言うか、聞き覚えのある話だった。

優秀な成績を収めて警察学校を卒業し、通常通り交番勤務へ。それから二年後に殺人課へと配属。

元々が優秀だったために直ぐに成果を上げたが、反面、彼女の中にある正義感が他の人達との交流を邪魔していた。

結果として彼女は課の中で孤立していく。

それでも、と仕事に注力していたが、けれど同じ課の人達とコミュニケーションが取れなければ挙げられるハズの成果も挙げられず、次第に厄介者として扱われるようになったらしい。

そんな中で来たのが一之瀬さんからの誘いだった。

 「二つ返事でした」

ごそりと布団の擦れる音が響く。

 「その日のうちに返事をし、三日後には安置留置課に転属。その二日後に飛騨さんがやってきました」

だから。そう、彼女は続ける。

 「飛騨さんに聞きたいんです。今後共に行動する貴方に、一つだけ」

 「……なんですか?」

彼女の言葉に、僕は少しだけ息を呑んだ。

 「飛騨さんは、正しさを貫く為なら悪も吞み込めますか?」

返答を間違ってはいけない。

そんな風に感じたから。

 「僕は、それも正しさの一つだとは思います。でも」

 「……でも?」

 「正しさを説くべき人間が悪を受け入れるっていうのは、やっぱり間違ってます。だから僕は、僕が警察である限りまっとうな方法で犯人を捕まえるべきだと考えます。それが綺麗事だとしても、人が望むのは裏の無い正義だけですから」

だから僕は素直に答えた。

東雲さんがどっちの答えを望んでいるのかは分からない。けれど、それを踏まえて答えたらそれこそ正義に反すると思ったから。

 「……良かった」

それが理由なのかは分からない。

 「貴方となら、私は私の正義を見失わずにいられそうです」

なんとなく向けた視線の先には彼女の瞳があった。

薄明りしかないから見間違いかもしれないけど、僕を信頼してくれているような両目が。

……だからこそ僕は、僕の中にある臆病心を後悔した。


_____________________________________


 翌朝。

チェックアウト前に安眠と連絡を取ると、件のスタッフは今日は休みだと教えてもらえた。

なのでスタッフの住所を確認し、そこがこのビジネスホテルからそれほど遠くない所にあると分かったため昨晩立てた計画を変更してそちらへ向かう事にした。

 「……で、ここがその家、ですかね?」

 「はい。ナビではそうなっています」

備え付けのナビゲーションシステムを頼りに車を走らせる事十五分。

少し高級そうなアパートに到着する。

 「じゃあ行きますか」

 「はい」

アパート付近にあるコンビニに車を停車してアパートに向かった僕らは、佐原さんに教えてもらったスタッフの部屋番号を探した。

 「……32号室の【羽根野】だから、ここですね」

アパート最上階端から三番目の部屋にスタッフの名を見つけ、インターフォンを鳴らす。

 『はーーい』

中から声が聞こえ、数秒後に扉が開く。

 「……えっとぉ、どちら様ですか?」

出てきたのは紺に近い黒髪をポニーテールで結んでラフな格好をした若い女性だ。

 「羽根野 翼さん、のお部屋であってますか?」

 「はぁ。確かにそうですけど」

東雲さんは間違いが無いかを確認する質問だけをするとすぐに警察手帳を彼女に見せた。

 「あーー、はいはい、そう言えば来るって言ってたっけ」

 「はい、恐らくその件についてです。お時間、よろしいですか?」

 「いいですよー。散らかってますけど~」

どうやら佐原さんの方から彼女に話があったらしい。

羽根野さんは二つ返事で僕らを家の中に招いてくれた。

 「適当なとこに座っていいですよー。今お茶持ってきますんで」

 「あ、ありがとうございます」

 「お気構いなく……」

案内されるがまま部屋へ入ると、羽根野さんの言っていた通り室内は散らかっていた。

そしてそれは、[少し]というあの言葉を疑いたくなるほどで……

 「(し、東雲さん、女性の方の部屋ってこんな感じなんですか?)」

 「(どうでしょう。女子高だと教室は酷いといった話はよく耳にしましたが……。少なくとも私はもっと綺麗ですね)」

部屋が広いお陰で座る場所自体は確保できるが、それを差し引いても清潔感があるとは言えなかった。

 「お待たせしましたー。麦茶でーす」

お盆に三人分の麦茶を持って台所の方から戻てくる羽根野さん。

改めて見れば彼女は美人と呼んでもいいほど顔立ちが整っていて、スタイルもそれなりだ。

だからだろうか。このギャップに少しだけ戸惑いを覚えてしまう。

 「あ、砂糖とか入れます?私はやらないんですけど、友達がやってたんですよ」

 「僕は入れないので大丈夫です」

 「私も入れません」

 「はいはーい」

不思議な質問の後に僕らは麦茶の入ったコップを渡してもらう。

 「それでえっと、藤林さんの話ですよね?」

恐らくは定位置なんだろう。他に比べて明確に空間として保たれている場所の座椅子に腰を下ろしながら羽根野さんは僕らの目的を口にした。

 「はい。その事でお話を伺えればと」

 「確か、羽根野さんが彼の遺体を担当されたんですよね?」

 「ですねぇ。遺体を葬儀屋さんから受け取った時、奥さんも一緒にいらしてて、『一緒に服も』とおっしゃってました。理由は、裸じゃかわいそうだから、とは言ってましたけど、時世を考えるとアンリュウ化してもいいようにって事だと思うんですよね~。そういう方、結構いますし」

 「え、それって本当ですか?」

 「はい。半分以上の人がそうですねぇ」

予期していなかった言葉に僕と東雲さんは顔を見合わせる。

これまでの調査資料や、テレビニュースなどでは世間からは否定的に見られている現象だと思っていたアンリュウ化。しかし、それを望む声の方が多い……?

 「まぁ、何と呼ばれてたとしても生き返りは生き返りなので、みんな嬉しいんじゃないですか?あくまで他人の死体が動くのが嫌ってだけで。私だって、恋人が生き返ってくれたら泣いて喜びますもん。出来た事無いですけど」

そう言って、あはははー、と笑う羽根野さん。

彼女は冗談で言ったのだろうけど、しかし、それはその通りだ。

実際、似た状況下にあった遺族は何としてでも隠し通そうとしたケースがあったし、今回の藤林さんの事件も同じだと睨んでる。

 「まー、私ら安置所の職員にしてみれば勘弁して欲しいんですけどねぇ、アンリュウ化ってのは。やっぱ、責任問題になっちゃうし」

 「……そう、ですよね。信用にも関わってくるでしょうから」

 「そーそー。あーでも、たまぁに『生き返るくらい寝心地がいいんですよね?』とかって言う人もいるにはいますよ。モノの見方ってやつですね」

 「初めからアンリュウ化を望んで遺体を預ける……って事ですか?」

 「んー、それは言い過ぎかもしんないですけどねぇ。そうやって言う方はご年配の方が多いのは確かですね」

 「気持ちの問題、とか?」

 「多分そうだと思いますよ。安置所ってほら、実物は無機質で冷徹な雰囲気があるじゃないですか。だからやっぱり抵抗ある方とか多くて、家でご遺体を保管するって方もいらっしゃったんです。でもアンリュウ化が一般的になってからは寧ろ[誰にも邪魔されずに寝られる場所]みたいな考え方が出来てそこから『寝心地が~』っていう風に発展していったんじゃないかな?特に高齢の方が運ばれた時なんかはそんな事耳にしますから」

 「なるほど。時代の特性というモノですね。生きた時間が変れば感性も変わる。もっと以前は、身内の遺体を誰かに預ける行為は殆どの場合嫌煙されていましたから」

 「ですねぇ。そういう意味では今の安置所はやりやすいのかもしれないです」

羽根野さんはそう言うとテーブルに置かれている麦茶を一口飲む。

と、ほぼ同時。

 「……すみません、少し失礼します」

東雲さんのスマートフォンに電話がかかって来た。

 「お気になさらずー」

微笑んで答えてくれた羽根野さんに軽く会釈をした東雲さんは直ぐに電話に出ると、二、三言相槌を打ち、「分かりました」と言って電話を切る。

 「すみません羽根野さん。今日のところはこの辺でお暇したいと思います。休日にお時間を作っていただきありがとうございました」

そうして東雲さんは彼女に別れの挨拶を告げ、僕に目配せをくれた。

 「いえいえ。どうせ寝てるだけだったんで、分からない事があればまた来てください。これ、一応名刺です」

挨拶を聞いた羽根野さんは近くにある手提げバッグから名刺入れを取り出し、中からそのうちの二枚を僕らに差し出す。

 「あ、ごめんなさい。じゃあ僕のも……」

 「私のもお渡ししておきます」

 「はーい、じゃあまた~」

 「「お邪魔しました」」

名刺交換を終えた僕らは羽根野さんにもう一度挨拶をして彼女の部屋を後にする。

 「それで、一之瀬さんからはなんて連絡が来たんです?」

コンビニに止めてあった車へと戻り、エンジンを付けながらさっきの電話の内容を確認する。

あの状況で出なければならず、聞き込みを切り上げなければならない相手……。そんなのは僕らの上司である一之瀬さんくらいしかいなし、しかもあの時貰った視線はかなり重要な内容を示唆していた。

……もしかして、杉さんが見つかった、とか?

 「昨晩、二つ隣の町でアンリュウが出たそうです」

なんていう期待は一瞬で霧散する。

 「対象は心臓発作で亡くなった十四歳の少女です。どうやら杉さんの件よりも緊急性が高いらしく、現在捜査中の事件はいったん切り上げて欲しいと。詳しい事は町の交番で聞けるらしいです」

 「……分かりました。じゃあ、すぐに向かいましょう」

東雲さんの言葉に頷き、すぐに車を発進させる。

……事件の連続捜査。

杉さんの件も気になるが、緊急性が高いと言われればどうしようもない。

東雲さんが一之瀬さんから聞いた住所を元に交番へと急いだ。


                ーーーー


 約一時間後、僕達は事件の詳細を聞けるという交番に着いた。

そこで聞けたのはアンリュウ化した少女の名前と住所。そしてその子の生前の境遇だった。

 「……東雲さん。今日は一度ビジネスホテルなどに泊まって、万全の状態で明日臨みませんか?」

一通りの情報を交番の巡査部長から聞いた後、僕らは一旦近くのコンビニへと向かい、遅めの昼食を車内で摂っている。

 「彼女……茉莉さんはまず間違いなく自宅にいると思います。でも、だからってこのまま向かうのは、正直良くないと思いますよ」

事件の情報を改めて確認するため、メモ帳を開く。

……書かれているのは、所謂虐待と呼べる内容だ。

三食は与えられているが全て自分で調理していて、片親である母が昼に家にいる時は彼女の分も作らなければならないので学校は休み。修学旅行などの学校行事による外出はまず参加させてもらえず、場合によっては通常授業すら早引きさせられる時もあるらしい。

話では以前学校側から警察や児童相談所に連絡がいき、詳しく調査をしたことがあったらしい。

その時に分かったのは暴力による虐待は受けていないという事なんだけど、逆にそれが災いして児童相談所なども強く出れないそうだ。

 「この件はかなりナイーブな問題ですから、作戦を立てて、必要であれば応援も要請すべきだと思います。最悪の場合、僕らの権限で無理矢理突入・確保もできますが、そのためには証人が必要です」

だが、これだけの条件が揃っていればそれぞれの人間も動きやすい。今必要なのは準備と正当性だろう。

その正当性を満たすものとして、僕ら安置留置課が持つ他部署には無い幾つかの権限が役に立つはずだ。

それは、[アンリュウの所在が明確な場合、立会人の下捜査令状が無くともあらゆる捜査・調査を行っても良い]というモノ。

簡単に言えば条件付きではあるけど現場判断での強制捜査が容認されているという事。

現場組の僕らが二人で行動する理由の一つでもある。

つまり、相方が立会人になったから強制捜査する、といった違法スレスレの方法をいつでもとれる状態にしているわけだ。

とは言え発足したばかりで明確な実績も功績も無い僕らがそんな事をいきなりすれば非難は必至。極論課の解体まで有り得る。

だからこそ、本来の意味での立会人が、それもより多くの信頼できる立場の人で欲しい。

……できれば、使いたくない手段であるのは変わりないけど。

 「飛騨さん」

 「……はい」

僕が伝えたかった考えは全て伝えた。

それを聞いて東雲さんは何を感じたのかは分からない。

けれどーー

 「私は、すぐにでも向かうべきだと考えます」

彼女は僕の眼を真っ直ぐに見据えてそう答えた。

 「飛騨さんはアンリュウ化した茉莉さんが今も生前のように虐待を受けているとして、それを見過ごすのは正義だと思いますか?私は思いません。確かに飛騨さんの言うように準備をした方がいいのかもしれません。でも、それで得られるのは私達安置留置課の安全であって茉莉さんの安全を最優先にした考えではありません。私はそれを正義とは呼びたくありません」

 「……………」

確たる信念をもって東雲さんは言い切る。

事実、僕の提案した手段は主に僕らの立場を安全にする方法だ。けれど、長期的に見れば……前例はないけど、仮に裁判などになった場合、やはり正当性を証明できる本来の意味での立会人が居た方が納得させやすく勝ちやすい。

……だけど。

 「…分かりました、行きましょう。その考えの方が納得できます」

彼女の考えは、僕が志した正義としてどこまでも正しい。

 「向かってる途中、一之瀬さんに連絡だけお願いします」

 「勿論です」

東雲さんは頷くとすぐにスマフォを取り出す。

それを横目に、コンビニから移動を開始した。

茉莉さんの自宅まではここからおおよそ十五分。

それまでの間に僕らは、恐らく家にいるだろう母親の説得と本当に茉莉さんがいるかの確認の手段、そして権限の正当性を訴える方法を考えなくてはならない。

……いやいるのは間違いない。

過去、虐待やそれに準ずる行為を受けていた子は皆例外なく自宅に戻ってる。

嫌な場所なんだから逃げ出さないのはおかしい、そう思った事もある。

だけど、彼ら彼女らはつまり、支配されている。その上で行く当てがない。

家を出てどこに行く?友達の家?学校?確かにきちんと通っていればその方法もあるだろう。だが通わせてもらってない場合が殆どだ。

なら通っていた場合は?それこそ逃げるなんて方法は思いもしないし、思ったところで出来る訳が無いと諦める。何故なら、支配が完璧でなければあらゆるイレギュラーが想像できる家庭(テリトリー)外へ所有物である子供を向かわせるはずがない。

それら生前の記憶が残った状態で遺体はアンリュウ化する。

だから彼ら彼女らは家へ帰るしかない。何があっても、どんな目にあっていたとしても、家族以外に戻る場所は存在しない。

なら僕らが出来る事は一つだ。

少しでも早く茉莉さんの身柄を確保し、少なくとも今より安全な安置留置課で保護する事だ。


                 ーーーー 


 時刻は昼。

住宅街から少し外れた場所に数件建っている家屋の一つに最も近い空き場所に車を停め、僕らは降りる。

作戦は立てた。最悪の場合の後ろ盾も問題ない。

後は、僕らがしくじらずに任務を遂行できれば万事解決になるはずだ。

 「……すいませーん」

[壺肥田]と書かれている表札の隣にあるインターフォンを押し、呼びかけてみる。

しかし、反応はない。

 「(飛騨さん。自転車があります。話では車を所有しているそうですが、最近車検に出しているそうです)」

 「(分かりました。なら居留守ですね)」

再びインターフォンを鳴らすがそれでも反応はない。

けどこのくらいは想定内だ。

児童相談所から一度目以降から三度は鳴らさないと出てこないと聞いている。

なのでもう一度鳴らす。

すると今度は、奥の方から音が聞こえて来た。

それは徐々に大きくなり、やがて音が止むと扉が開いた。

 「……何の用です」

金髪でボサついた長髪、重そうな瞼、シワで寄れた服。

出てきたのは、そんな三十代くらいの女性だった。

 「こちら、壺肥田さんのお宅で間違いありませんか?」

 「表札にそう書いてしょ。いちいち聞かないで貰えますか?」

彼女は雑に髪をかき上げて東雲さんに答える。

羽根野さんと全く同じ質問をしたのに返答はこれだ。荒んだ生活をしているって話は本当らしい。

 「最近お亡くなりになった娘さん……茉莉さんの話でお伺いしたい事があるんですが、よろしいですか?」

一言、東雲さんがそう尋ねる。

瞬間、壺肥田さん……茉莉さんの母親である音夢(ねむ)さんの雰囲気が僅かにだが変わる。

 「……あー、何?おたくら児相じゃないわけ?めんどくさ、今度はどこよ」

先程までの[面倒さ]から来る拒絶心から変わり、僅かながらも[焦り]から来る苛立ちを言葉に乗せて音夢さんは返事をする。

僕らの身元の確認をしてくるあたり、冷静さはまだあるみたいだが、僕らの出方次第ではそれもいつまで保てるか分からない。

 「僕らは東都に在る安置留置課の者です。少しお話がしたくてお伺いしました」

 「あん……何それ。知らないけど」

端的に説明し、捜査協力を仰いでみるが返ってくるのはやはり苛立ちの込められた言葉だけ。

 「最近出来たアンリュウ捜査専門の刑事と思ってください」

 「………なんだか知んないけど、私、夜仕事あるから今日は帰ってもらえる?困るんだけど」

 「手間は取らせません。三十分……いいえ、十分でもいいんです。ご家族の貴女からお話を伺わせてください」

可能な限り丁寧に。

東雲さんは音夢さんに捜査協力を頼み込む。

 「だから無理だって言ってんでしょ!さっさと帰って!」

それでも音夢さんは声を荒げて扉を無理矢理に閉めようとした。

 「いえ、そういう訳にはいきません」

だが、それを東雲さんはつま先を使って阻止すると、更に右手を入れて締めようとする彼女の力に逆らった。

 「な…!あのね、そういうのって横暴って言うんじゃないの!?ケーサツがそんなことしていいの!?」

女性とは言えやはり十二分に鍛えている警察官。

東雲さんの腕力の前に、音夢さんは両手で抵抗しているにも関わらず扉の隙間は一向に狭まらない。

……そして。これだけの反応が見られれば充分だろう。

 「いやぁ、それがそうでもないんですよね、音夢さん」

 「はぁ!?」

抵抗している彼女の眼の前に僕は少し前からビデオ通話にしていたスマフォの画面を持っていく。

 《初めまして。私は安置留置課の一之瀬と言う者です。先程からスマホを通じてやり取りを聞かせてもらっていたのですが、強制捜査の必要があると判断いたしましたので、刑事法に則りこれよりそちらにいる二人が簡易家宅捜査を行います。

ご安心ください。貴女やその他家具類には一切傷を付けません。ただ中に上がって、家屋内を改めさせていただくだけですから》

通話相手は一之瀬さん。

時間的に実際に立ち会うのが不可能な彼女にはビデオ通話による疑似的な立ち合いをお願いした。

その場の人間による現場判断ではなくなった今、これでとりあえずの面目は保てるはずだ。

当然、[通話が繋がるよりも以前にそうなるよう誘導していた]と言われてしまえばいい返しようが無いが、今はこれだけの効力が発揮されれば充分だ。

 「なっ!?そんなの急に言われても無理に決まってるでしょ!?」

尚も食い下がる音夢さんだが、安置留置課のトップである一之瀬さんからの許可が出ればもう関係ない。

 「では失礼します」

 「ちょっと!?」

扉をこじ開ける任を変わり受け、出来ている隙間から東雲さんが中へと入って行く。

 《それと、言い忘れていましたが今の会話の内容は全て録音させてもらっています。今後何かあれば……つまり、家屋内の家具類に傷等が付けば、我々がすべて責任を負うという証拠にもなります。部下が粗相をしてしまった場合は遠慮なくお申し出ください》

 「……~~!!ああもうっ!!」

後を追おうとした音夢さんに間髪入れず続けた一之瀬さん。

その結果、東雲さんは妨害にあう事無く家屋内に入ることが出来た。

 「………で、私はどんな罪に問われるの?」

 《さて、何も悪い事をしていなければ問われる罪は何も》

 「ホンットにマッポはこすいやり方しかしないね。そりゃ閉じ込めてるわよ。自分の娘なんだから」

事ここに至れば、なのだろうか。音夢さんは玄関に腰を下ろして告白を始めた。

 「自供ととってもよろしいですか?」

 「ああそうよ。自供よ自供。蘇った娘の茉莉を都合のいいように使うために家に閉じ込めてた。これでいい?」

 「はい、充分です」

念のためにと用意しておいたボイスレコーダーにも録音ができた事を確認してポケットにしまう。

それとほぼ同タイミングで、東雲さんの声が聞こえた。

 「見つかりました。茉莉ちゃんです」

 「………ご飯。まだ」

 「……はい、続きは別のところで作れますから」

 「うん」

よれた制服を着用している少女ーー茉莉ちゃんの手を優しく引きながら連れてきた東雲さんは一瞬だけ音夢さんの事を軽蔑したような目で見下ろすと僕の車まで歩いてくる。

 「ママ?」

 「私の事はいいから、その人のところでご飯作ってやんなさい」

 「……うん」

 「……一先ず、これで身柄の確保は終了です。一之瀬さん、この後の指示を彼にお願いします」

恐らくはアンリュウレベルが1と2の間だろう彼女は音夢さんに朧げに語り掛け、頷いて僕の車に東雲さんと共に乗り込んだ。

 《そうだね。アンリュウ課の仕事はここまで。明確な実例があるわけじゃないから今後は分からないけど、この件はこのまま県の警察に任せていいかな。連絡は私がしておくから、君は二人を連れて一度課に戻ってきて欲しい》

 「了解です。よろしくお願いします」

 《ん。頼まれた》

 「では、音夢さん。この後は交番の方に身柄を引き渡しますので、正直に全てをお話してください。協力的でしたら、場合によっては減刑もあり得ますから」

 「分かってるわよ。てか、ボイレコなりなんなりで発言取られてるんだし、今更暴れないわよ」

 「ありがとうございます」

 「……どういたしまして」

十分前後に及ぶ身柄確保作戦は特に大きな問題も無く終了。

僕と東雲さんの初めてのアンリュウ事件解決は杉さんの事件ではなかったけど、良い結果が報告出来て良かった。


_____________________________________


 翌日、僕らはまた下池市に来ていた。

 「茉莉ちゃんの事、すぐに救えてよかったです」

 「ですね。東雲さんの判断があっての事ですから、誇っていいと思いますよ」

 「……そうとも、言いきれませんけどね」

 「?」

藤林宅へ向かう車の中でそんな話をする僕達。

昨日の茉莉ちゃんの件は間違いなく東雲さんの手柄だ。

彼女が後押ししなければ僕は保身に走った考えを優先していた。

けど、昨日教えてもらった聞き取りの内容から考えると僕の提案は間違いなく失敗だった。

なんでも、音夢さんは次の日には別の場所へと住処を変えるつもりだったらしい。

時間はまだ決めていなかったみたいだから本当に間に合わなかったかどうかは分からないけど、だとしてもその事実があるだけで危険だったのは間違いない。

結果としても、そうではないにしても、東雲さんの考えが正しかったことになる。

 「……なんでもありません。藤林さんの事件に戻りましょう」

 「ですね。……といっても、昨日とやる事は変わらなくなっちゃいましたが」

東雲さんは窓の外に視線を傾けながらそう答え、僕の書き記していたメモ帳を手に取る。

 「ここまでの調査の結果から行くと、恐らく……と言うか、まず間違いなく杉さんは自宅で匿われています。問題は」

 「……どうやって身柄を確保するか、ですね」

 「はい」

赤信号でブレーキを踏み、緩やかに停止線まで車を進ませて車輪を停止させる。

今僕らがいる場所は既にコンビニーー杉さんが訪れたあのコンビニまで来ている。

 「……念のため、寄りますか?」

会話の途中でコンビニにまで来ていた事に気が付いたのか東雲さんは聞き込みの提案をしてくれる。

 「………いえ、少し考えましたけどやめときましょう。監視カメラの映像は既にもらってますし、時間的にも急に押しかけたらまずい気がします」

 「確かに、今はお昼時でしたか。でしたら避けるべきですね」

 「はい」

寄るべきではないと思った理由に賛同したのを確認して、青信号をまっすぐに行く。

寄るべきかどうかで言えば寄るべきだとは思うけど、さっきも言ったように時間が悪い。お昼時にレジ一つを……或いは店員一人を占有するのはコンビニ側にしてみれば死活問題だ。情報の提供相手と不仲になるような原因は極力作りたくない。

 「話を、戻しましょうか」

 「確保の理由ですね」

 「はい。飛騨さんはどうするのが適切だと思いますか?」

 「そう、ですね。普通の事件だったら証拠を出して任意同行か、もしくは家宅捜索令状を使っての捜索になりますが、今回はアンリュウ事件でしかも被疑者は精神的に問題がある可能性が高い。となれば多少強引にでも……って考えは難しいと思います」

 「はい。それは私も思いました」

 「なので、可能な限り寄り添った逮捕をしたいと思います」

 「……と言うと、どんな感じですか?」

 「難しいですけど、合意の上で引き渡してもらえるように説得する、ですね」

 「となると、鬼門は」

 「納得させる事なんですよねぇ。旦那さんが死んでる事を……」

 「……苦しいですね」

 「ええ、本当に」

アクセルを踏む力が少しだけ強まってしまう。

心苦しい。

一度死んだはずの人が再び戻って来てる。その結果がもたらすのは維持しなおしたはずのコミュニティレベルの調和に歪が生じる事。

[あの人は死んだんだ]という事実を受け入れられた人がアンリュウを見た時、降りかかる心的ストレスは甚大だ。

共通認識が崩壊し、受け入れた真実と目の前の現実の乖離が理解できず、心を病む人も少なくない。故に僕ら安置留置課が作られた側面もある。

しかし、受け入れられなかった人からすれば、アンリュウ化は願ってもいない現象。

分かっていても嬉しくて、ならまだいい。しかし、今回の都さんの場合は、現実を補うためにしていた妄想の一部が本当になってしまっている状態だ。

こういった人に真実を告げるとどうなるか分からない。

発狂するか、暴力で捻じ曲げようとするか、それも無気力になったりなのか、想像もできない。

そんな人に事実を受け入れてもらうには、可能な限りこちらから歩み寄り、スポンジに水をしみこませるように広くゆっくりしっかりと事実を認識してもらうしかない。

……んだけど。

 「あまり寄り添い過ぎるのはダメ、何でしたっけ」

 「はい。持っていかれてしまいますから」

寄り添うとはつまり相手と同じ気持ちになるということ。しかしそれでは相手の妄想に飲み込まれてしまう場合がある。

だから話を聞く側は細心の注意を払う必要がある。

 「……私が、都さんに告げます。経験はありませんが先輩の教えを使えば」

 「いえ、僕がやります。この手のは……慣れていますから」

彼女の言葉を遮って意見を口にする。

 「…慣れて?」

 「はい。だから東雲さんは今回メモする方をお願いします」

そうだ。僕はこういう事に割と慣れてる。

 「……了解です。飛騨さんにおまかせします」

 「ありがとうございます、東雲さん」

法定速度ギリギリを行く僕の車。

隣に乗る東雲さんは若干納得のーーというか、不思議に思って眉をひそめているけど、僕のこの自信については説明するつもりはまだない。

 「……そろそろ、着きますね」

 「はい。メモ帳とペン、渡しておきます」

もう、同じ事を繰り返したくはないと思っている事は。


                  ーーーー


 それから三十分くらいして藤林宅に到着する。

車庫に車はあるので恐らくは在宅だ。

 「都さん、いらっしゃいますか?アンリュウ課の飛騨と東雲です」

インターフォンを鳴らしながら呼びかけてみるが返事はない。

 「旦那さんの事でもう一度お話がしたくて伺いました」

少ししてから再度呼びかける。

……しかし、返事はない。

 「車、ありますよね?」

 「はい。奥には自転車らしきものもあります」

以前も反応までにタイムラグがあったような記憶はある。しかし、二度押しても返事も物音も無いのは妙だ。

確かに、協力的だった人が急に反抗的になるパターンも無くは無いと聞いた事があるけど、その場合は往々にして立場が危うくなった時……。

 「東雲さん。ちょっとドア開けて来ますね」

 「え?あ、は、はい」

 「一応、正面を避けるように離れててください」

 「えっと、右か左に動け、って事ですか?」

東雲さんの疑問に頷き、玄関の取っ手を握る。

鍵は……開いているみたいだ。

 「都さん、開けますねー」

言って、扉を引く。

 「失礼しまーす」

敢えてゆっくり扉を開けながらもう一度言葉をかけ。

 「あああああああ!」

そこに居た、都さんを誘い出した。


                 ーーーー 


 「………夫を、奪わないでください」

 依然と同様の悲痛な部屋の中、僕と東雲さんは狂いかけていた都さんを説得し、リビングの椅子に腰かけている。

持っていた包丁は押収。

事前の準備が功を奏してけが人が出なかったため、罪に問わない代わりに話をさせて欲しいと都さんに持ちかけた。

 「私の人生は、これまでもこれからも夫と共にありたいんです。だから、どうかお願いします」

深々と頭を下げ、懇願される。

 「……杉さんは、二階に?」

 「……………はい」

東雲さんの問いに間を置いて答えると謝った時とは別の意味で頭を下げた。

 「…そうですか。では後程、面会を希望したいと思います」

 「それは、断る事は出来ますか……?」

 「はい、大丈夫です。ですが、令状等を使用した場合はお約束できません」

 「………分かりました」

項垂れ気味に返事をした都さんは僕の方へと視線を向ける。

 「それで、お話って何ですか」

その目は、とても強い拒絶感が込められている。

 「どうやら状況をちゃんと呑み込んでいるようなので単刀直入に言わせてもらいます。藤林 杉さんの身柄をこちらで保護させてください」

現実を誤認しているのなら、と、立てて来ていたプランを思考の片隅に追いやり、こちら側の要求を寸尾に伝える。

 「嫌だ、と言っても駄目なんですよね」

しかし、返って来たのは言葉以上に強い拒否。

 「ですが協力的だった場合は面会などが出来るようにはなります」

 「だけど一緒には暮らせない。そういう事ですよね」

 「……そうですね。一緒には暮らせません」

出来る限りの利点を伝えるが都さんの目的がそこにない以上同意を得られないのは明白で。

 「だとしたら、頷きたくありません」

瞳の色は変わらず、彼女ははっきりと口にした。

 「私達に子供はいないんです。それなのに旦那まで失ったら私は今後何を糧にして生きて行けばいいんですか?……夫が亡くなってからの数日間のように家を広く感じるのは嫌なんです」

 「……だとしても、私達からは提案するしかないんです。…強制的にはしたくありません」

東雲さんの言うように僕らには強制的にアンリュウを連れていく権利がある。

正規の手順で言えば対人間の警察と同じ方法だけれど、僕らにはアンリュウ捜査の際のみに使える特権がある。その気になれば茉莉ちゃんの時みたいに連れていく事だってできる。

でも、それはしたくない。

勿論、課の世間体的な意味もあるけどそれ以上に、都さんにその特権を使うべきではないと感じている。

………人が一人、同室からいなくなる苦しさと寂しさを知っているから。

 「都さん」

 「……なんですか」

話すべきか迷った。

 「僕にもその気持ちは理解できます」

東雲さんに聞かせてもいいのか。また同じことの繰り返しになるんじゃないのか。

思考を奪う事柄は沢山あるけれど、その上で僕は自分が目指した正しさを思い出す。

 「ルームシェアをしていた僕の親友も、アンリュウになってしまいましたから」

でなければあいつに面目が立たない。

 「そ、それってどういう事ですか」

困惑する都さんの視線に紛れて向けられている東雲さんの不安げな視線。

それらを受け止めながら僕は少しだけ昔話を始めた。

 「警察学校を出て直ぐは普通、独身寮と呼ばれる場所に住むようになります。けれど僕は治療の関係でやって来た友人と住む事になりました。昔から仲の良かった彼の為なら、と良い顔をしない同期達を無視し、理解ある上官の助けを経て、彼の通う病院に近しい場所に部屋を借りて一年半、一緒に住みました。中度の心臓病を患っていたあいつは初めこそ順調に治療が進んでいたのに容体が急変。気が付けば病院のベッドの上で白い薄布を被せられていました。

……喪中という事で一週間ほど、休みを貰いました。その三日目の事です。彼は帰ってきました。どうやったのか病院の遺体安置所から抜け出して」

 「……それで、どうしたんですか」

都さんは何かに縋るような目で僕を見つめてそう言う。

だけど僕はその期待に応えられはしない。

 「勿論、連れて行きました。警察に。公的に呼びかけられている通り」

 「そ、そんな」

[もしかしたら]を裏切られ、都さんの眼から強い落胆がぶつけられる。

だとしても、真実は変わらない。

 「それが正しさだと信じているからです。警察だからじゃありません」

 「何も悪さをしていないのに!?」

 「公表されていないだけで本当に何もしていないという保証はありません。僕ら安置留置課の人間だって知らない事があるのはきっと間違いありません」

 「そんな理由でまた私達を引き離すんですか!」

 「それだけの理由なんです。アンリュウを一つの種族と捉えるとしたら、一体どれだけの人間が受け入れてくれると思いますか?肌の色一つ違うだけで容易に殺しの大義を立てて来た人間が」

 「そんな先の事、私には興味ありません!!」

 「もしもそれが明日来たとしたら苦しい思いをするのは貴女だけじゃない。旦那さんもなんです」

 「だとしてもっ!」

話し合いは言い合いに変わり、言い合いは口論に変化しつつあった。

興奮のあまり椅子を押し倒す都さん。

感情を見せないために座ってはいるけれど、内心の話をすれば穏やかとは言い難い僕。

その二人を見て、どう止めるべきかを模索している東雲さん。

このまま進めば都さんのあの衝動がぶり返し、公務執行妨害という形で話を纏めざるを得なくなってしまう。

だから、彼は出てきたんだろうと思う。

 「都」

蝶番の僅かな擦れと歪な足音を部屋に満たして現れた顔色の少し悪い男性。

 「もういい。我儘を言ってすまなかった」

 「けど!」

 「刑事さん、で、いいんですよね?出頭します。お話は全て聞いていましたから、改めて説明していただく必要はありません」

扉に最も近い位置に座っていた東雲さんに拳を作った両手を差し出し、手錠を求める男性。

 「……念のために確認しますね。藤林 杉さんでお間違いないですか?」

 「ええ。あっています」

 「分かりました。…手を楽にしてください。保護はしますが手錠をするつもりはありません。貴方の場合、理由も」

 「そうですか。ありがとうございます」

先程までの混濁が嘘のようにすんなりと進んで行く身柄保護の話。

そのあまりの淀みの無さに、彼に話しかけられていた東雲さん以外の僕らはまるで他人事のように傍観していた。

 「お父さん!どうして!」

そう、都さんが叫んだのは東雲さんが杉さんを連れて行こうとした時だ。

 「彼の言った通りだと思ったからだ。その対場になって考えればわかる。俺のような存在、受け入れられない。良し悪しじゃないんだ、こういうのは」

 「でも、それじゃ私はまた……ッ!」

 「刑事さんも言ってただろ。面会はさせてくれるって。あれ、嘘じゃないですよね?」

 「勿論です。その権利があなた達ご夫婦にはありますから」

 「ほら。ならいいじゃないか。[二度と会えない]が[好きな時に会える]に変わったんだ。こんなに幸せな事があるか?」

 「……だけど、ここにはいないじゃない」

 「ここにいないだけだ。存在していることに変わりはない」

 「………そうやって、お父さんはいつだって賢いふりをして」

 「そう言うなよ。また会おう、都」

 「…はい」

都さんの返事を最後に二人の会話は終わり、状況を察した東雲さんが彼と部屋を出て行き車へと連れていく。

残された僕はどうするべきかを少し迷った後、彼女に頭を下げた。

 「丁重に、お預かりします。面会をご希望の際は安置留置課までご連絡ください」

だけど、俯いている都さんから返答はなかった。


                ーーーー


 課へと戻った僕らは名目上[看守]となっている的射さんーー僕がいた時に挨拶が出来なかった彼と一之瀬さんに杉さんを預け、一先ずこの件は終わった。

帰宅という話になり、駅で五駅らしい東雲さんを家まで送るため彼女は隣に変わらず座ったままいる。

その間ーー正確には帰って来る時からずっと。僕らは言葉を交わしていない。

いや、交わせる訳が無かった。

杉さんがいたからだけじゃない。僕は、彼女にするべきではない隠し事をしていた。

それどころか、あの話にはまだ続きがある。それさえも話していない。……話すべきかも分からない。

これから共に仕事をしようと言う相手が、事もあろうか仕事に関係してくるかもしれない話を黙っていただなんて普通納得できるはずがない。

 「……そこ、右です」

 「あ、はい」

だからだろう。

久しぶりに聞いた彼女の声が曇っているように聞こえたのは。

 「………それで」

帰宅ラッシュからは外れているとはいえまだ多い車の通り。

前の車が曲がるのを待っている中で、さっきのがきっかけになったのか。

 「その後は、どうなったんですか?飛騨さん」

彼女は話の続きを求めた。

 「私は。飛騨さんがこの話を隠していた事にはーーいいえ、そもそも隠していたと言っていいのかも分かりませんが、兎に角、怒ったりだとかは無いんです。確かに安置留置課としては見過ごせませんけど、個人としては話したいような出来事ではないと理解できます。その上で、教えてください」

 「つまらない話、ですけど。いいですか?」

 「構いません。聞かせてください」

 「……分かりました」

頑なな彼女の意思に触れ、迷いを言い訳にしてはいけないと分かった僕はその後の話をした。

それは本当につまらない話。

僕は、他人からどう思われてもいいとさえ思って行動したはずなのにいざ当の本人がアンリュウ化したら警察のお触れ通りに突き出すような人間で。

内輪での仲間意識の強い警察官達がそれを良く思うはずが無く、ついたあだ名が裏切者。

組織が掲げてる正しさを行ったと言ってもやったのは友人の引き渡しだ。そんなあだ名がつくのも納得できたし、同僚達に訝し気な視線を向けられるのも理解できた。

だからより田舎の交番に転属になったのも頷けた。

以降僕は裏切るも何もない平穏な地区で平穏に外を眺める仕事をしていた。

それだけだ。

僕のしていなかったあの話の続きはそれだけ。

五分もあれば充分に話せるはずのそれを僕は東雲さんの家に着くニ十分もの間話続けていた。

運転に気を取られていたから話をまとめ辛かったと言い訳するには無理がある時間差だ。

 「……ここで大丈夫です」

東雲さんの自宅ーー一之瀬さんの話では母の介護をするために実家住まいらしく、場所は普通の住宅街。

その路地の一角でようやく終わった僕の話を、東雲さんは最期までちゃんと聞いてくれていた。

 「飛騨さんは」

シートベルトを外し、けれど車のドアを開けるわけではない東雲さんは僕の顔を見て口を開く。

 「飛騨さんは、真っ直ぐな人なんですね」

嫌味ではなく、肯定的な言葉に聞こえた。

 「それって、どういう意味ですか?」

 「自分の中にある正しさを貫ける人って意味です」

 「それは東雲さんじゃないですか?僕と違って他者を護ろうと動ける人なんですし」

 「はい。私もきっとそうなんだと思います。先輩に言われましたし。だから私も言います。飛騨さん、貴方はそれでいいんだって」

 「ですが……」

 「飛騨さん」

東雲さんが僕の手を握るのが分かる。

優しくて少しひやりとしてる。

 「自分を責める言い訳ばかり考えたら駄目です。慰めになるのは知ってますけど、何の意味もありません。自責で苦しむ事で救えるのは自分だけ。私達がすべき事は何ですか?」

少しずつ暖かくなっていく東雲さんの……僕らの手。

あの時、あいつに握られた時には無かった、与えてやれなかった人の温もりだ。

 「……アンリュウで苦しむ人を減らす事…?」

 「そうです。だから今日、飛騨さんが都さんにした話は正しいし、友人を警察に引き渡した事だって正しいんです」

 「けど、都さんは苦しんでいたはずです。あんなに家が荒れていて、苦しんでいなかったはずない」

 「それは過程の話です。死は人を苦しめるものですが、やがて強くもします。私達がすべきはその強くなる部分へと導く事じゃないんですか?……それに」

僕の手に僅かな圧迫感が伝わる。

 「服は着てても靴は履いていなかったんでしょう。保護した杉さんの足、靴下で隠してても明らかに歪でした。一時間も素足で歩いていたんだから、きっと大変な事になっています」

より強く握られた僕は、思い出して東雲さんの手を握り返す。

 「見える範囲で痛い事が起きれば反応は出来ます。けど、見えない位置だと皮膚が剝がれてても分からない。それを都さんが知った時、どう感じたかは想像もできません」

 「……苦しかった」

 「飛騨さん?」

 「苦しくて、辛かった。あいつは右足の爪が割れてて左手の中指の骨が見えてた。躓いて壁に手を付いたって言ってたんです、爪はともかく指の骨が見えるなんて普通じゃない。だからその時に分かったんだ。あいつは本当に死んだんだって」

 「……飛騨さん」

少し緩くなって、だけどまた強く握られて。

今度は両手に熱が届く。

 「もう一度言います。その日、飛騨さんが取った行動は正しいです。私達はこれからもっと多くのアンリュウとその家族や友人に会います。その時彼らの殆どは私達を恨むはずです。それでも、飛騨さんの真っ直ぐな心は正しいと。正義なんだと。……ご友人の言葉には決して成り得ませんが、それでも言います」

眼と眼が合って。額に熱が少しだけ伝わってくる。

 「貴方は間違ってない」

まるで熱を測るように少しだけ額を当てると、彼女は両手から手を放して車のドアを開けた。

 「……私も、先輩に同じ事をしてもらうまではずっと自分を責めていたんです。だからこれで少しでも気分が安らぐなら」

声の後に聞こえた扉を閉める音。

 「じゃあ、今日はありがとうございました。帰り道、気を付けてください。それでは」

そうして彼女が家の方へと歩き出すのをガラスから見つめて、すぐに窓を開けた。

 「東雲さん」

 「はい」

振り向き、彼女ともう一度視線が合う。

 「明日からもよろしくお願いします」

 「はい。勿論です」

それと、と付け加えて。

 「相棒が貴女で本当に良かった」

 「……はい。私もです」

心からの感謝を伝えた。

明日からも共にアンリュウを保護する同僚としてだけでなく、志を共にする仲間として。

僕は、僕と同じような人をもう二度と出させないために東雲さんと正義を貫く。

一人でも多く、苦しみの先に歩き出してもらえる為に。



end.

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安置留置課 カピバラ番長 @kapibaraBantyou

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