第8話「事件の真相・そして事の顛末」

事件の発端となったのは満月の深夜を選んで執り行われる事古主復活の儀の翌日に、信者の一人が教団から忽然と姿を消した出来事からだ。

行方が分からなくなった信者は都内の支部に在籍する末端信者の青年で、家族から連絡を受けた本部職員の話によると、「教祖に会いに本部を行く」と言って家を出たきり戻ってないという。

日々の悩み、煩いを直に聞いて欲しいと、教祖との面会を望む信者は多く、本部の方でも出来る限りの対応をしてはいたが、信者といえど、教祖との面会には本部への申請が必要で、教祖の日程が空いている時間に限り面会が許されている状況だった。

行方不明となった青年からその申請がなかった事や、当時本部の方に直接青年が訪問した形跡もない事などを踏まえ、教団は青年が教祖との面会を口実に失踪した疑いを持ち、すぐに警察に捜索願いを出したが、失踪後の青年の足跡を教える情報は何一つ入って来なかった。

教団が世間から排斥された状態にある事が信者たちの信仰を揺らがせ、その気の迷いが青年を失踪に向かわせた要因だと考えていた私は、青年が忽然と姿を消した一月後、またも事古主復活の儀と日を重ねたタイミングで消息を絶った信者がもう一人出た事でその考えがあっさりと否定された。

この信者も先に失踪した青年同様、「教祖に会いに行く」という言葉を残したきり姿を消したので、不確かではあるがそこに何らかの事件性を感じた私は、警察にも二人が何らかの犯罪に巻き込まれた可能性がある事を示唆して動いてもらう事にした。

信者たちには教団に対して悪意を持つ者たちによる妨害活動もあり得ると警戒を促し、私個人も二人の失踪事件を密かに探った。

二人が在籍していた支部を訪ね、信者たちに失踪以前の二人に何か変わった行動はなかったか聞いて回った結果、二人の意外な共通点が浮かび上がって来た。それは幹部の安西が二人が失踪前する前に支部を訪ねていて、二人と何か人目を忍ぶように話を交わしていたという事実で、内容までは掴めなかったが、安西と話を交わした後の二人が妙に嬉々とした興奮状態を示していたという。

この些細な情報がすぐに失踪事件と結び付くわけではないが、私は一つの手かがりになるような気がして、安西にその事実を確認した。安西は二人が在籍する支部に用事があって出かけた事は認めたが、二人と話を交わした事については覚えがないと言った。たまたま顔を合わせて挨拶程度の話はしたかもしれないと、安西は私が微かに不審の目を向けても平然とした態度を崩さなかった。

それでも懸念していた三人目の失踪者がまた事古主復活の儀の際に出た時は、安西の動きを見張らせていた本部の信者の証言で、教祖しか立ち入る事のない神殿に、安西が人目を忍んで出入りしている姿が確認された。

教祖しか立ち入る事が出来ない教団の深奥部に安西が入り込んでいる事実は教団にとって由々しき事態だった。

事古主復活の儀は、ヒサ亡き後も教祖貴巨が教団の威信にかけてたった一人神殿に籠もり続けられる神聖なもののはず。

私の知らない間に何か良からぬ事が進行しているような気がした。人間が真の神に回帰して永遠の幸福を得るためになさねばならない祭祀の場に、なぜ安西が関わっているのか? そしてそれを黙認している貴巨の意図は何なのか? 

私はその時一刻も早くその疑念を取り払いたかったが、なぜか二人に直接その事を問うのだけは躊躇われた。

クトゥルフ。事古主にその異質な神の名が重なり、以前在野の宗教学者が言い放った忠告が頭を掠めた。

クトゥルフ神の復活を願う儀式には常に血生臭い生け贄が用意され、その内容は悪魔的に陰惨なものであると、確か在野の宗教学者は言っていたのではなかったか?  

自分たちの崇める神の思惑が邪なものでない事を祈りつつ、私は努めて普段通りの教団生活を送りながら、事古主復活の儀が近づくと、細心の注意を払って、安西と貴巨の動向を見張った。

安西が練馬の支部に向けて自家用車を走らせたのは復活の儀の四日前だった。本部の事務員には「ちょっと所用で出かけてくる」とだけ告げたらしく、行き先も帰りの時間も分からないという。それと同様の事は先月も先々月にもあった。

私はあらかじめ都内の各支部の支部長に、安西が支部を訪ねる事があったら連絡するように伝えてあったので、安西が外出した数時間後に練馬の支部から報告を受け、タクシーを呼んですぐにそちらへ向かった。

私は到着するとすぐ練馬の支部長に安西の所在を確認し、支部の入口が見える位置にタクシーを止めて張り込み、安西が出て来るのを待った。安西が普段幹部としての用事で来るなら教団の公用車を使うはずだし、各支部にはそのために設けた専用の駐車場がある。練馬の支部の駐車場に安西の自家用車はなく、その様子から安西が出来るだけ人目を避けて動こうとしているのが分かった。

こそこそ動き回るのは安西の性分に合わない気もするが、それが貴巨の指令であれば、教祖に絶対の忠誠心でもって有無を言わず遂行するだろう。私が知りたいのはその目的だけだ。

練馬の支部から出て来た安西をタクシーで追跡すると、安西はそこからどこへも寄らずに教団本部へ戻った。練馬の支部長に安西が支部を訪れた理由は何だったのかを尋ねると、はっきりとした名目はなく、ただなんとなく様子を見に来た感じで、二、三人の末端信者に声をかけてしばらく話してから支部を後にしたようだった。声をかけられた信者たちにも事情を聞きたいところだが、彼らから安西に私が探りを入れているような事が知られるとまずいので、ひとまず支部長に彼らの監視を任せ、事古主復活の儀で彼らが安西と接触する瞬間を捉えようと思った。

事古主復活の儀当日。練馬の支部長より、安西に声をかけられた信者の一人が「教団本部へ出かける」と言って外出したとの連絡を受けた。私の方は本部で安西の動きを追っていた。その日安西は全く外出する様子を見せず、本部が閉門する時刻まで事務所に詰めて公務に終始していた。その間、私が見ていた限りでは、貴巨と二人きりになる場面や外部とこっそり連絡を取るような動きもなかった。

事古主復活の儀が行わるのは深夜だ。閉門後の本部には私と安西を含む幹部たちと宿直の事務員が何人か残るくらいで、それぞれの公務は遅くても夜の九時を回る頃には全て終了する。

神殿の鍵は朝晩の勤めがある教祖が直接管理しているので、参拝時間以外に自由に出入りが出来るのは教祖だけだ。深夜に教祖以外の人間が神殿に出入りしているとなれば、それは教祖が何らかの理由で招き入れているとしか考えられなかった。

私は安西が自家用車に乗って帰宅するのを見届けてから本部敷地内の邸宅に戻った。

先に公務を終えて戻っている貴巨の履き物が玄関に整然と揃えてあった。事古主復活の儀がある日の教祖は、夕方には一人邸宅に戻り、神殿に籠もる深夜の時間まで自室で仮眠を取る。何も変わった様子はないが、この平常を装った空間が、満月の度に一番側にいるはずの私の目を欺いて来たのだと思うと、どこか違和感があるような気もした。

貴巨が神殿に入るのは私が完全に眠りについた後だ。私の眠りを妨げない配慮からか、貴巨はいつも物音一つ立てずに、気付くとそっと邸宅を出て行たので、その正確な時間は分からない。復活の儀は夜通し行われ、私が次ぎに貴巨と会うのは日付が変わった朝のお勤めの時だ。

教祖と安西が私を欺いたように、私も二人を欺いて真相を知らなければいけない。普段どおり就寝時間には自分の部屋の明かりを消したが、暗闇にしっかりと目を凝らして、貴巨の繊細な振る舞いを捉えるため、部屋のドアの側に身を潜めてその機会をじっと待った。

長い時間邸宅は静まり返っていて、ドアの隙間から廊下の明かりだけが漏れていた。それをぼんやり眺めながら眠気を堪えていると、ふと音もなく私の部屋の前を影が過ぎった。貴巨が部屋を出たのかもしれないと思い、耳を澄まして微かに聞こえる物音を追った。

物音が消え、再び邸宅内が静まり返った時に私も部屋を出た。なるべく物音を立てないように玄関に向かうと、案の定貴巨の履き物がなかった。真っ直ぐ神殿に向かったかどうかは分からないが、とりあえず神殿の裏手に回って様子を窺うことにした。玉砂利を敷いた広い境内は月明かりで周囲がよく見えた。安西とふいにはち合わせる危険を避けるため、神殿までのわずかな距離を、闇が落ちた建物の陰や庭木の陰に沿って慎重に移動した。

神殿の入口は正面の重厚な扉だけで、他に入れる箇所はない。神殿内から貴巨が厳かに祝詞を上げる声が忍び洩れていた。貴巨以外誰か他に人がいる気配はなかった。教祖以外の人影が神殿の中に入った情報が確かであれば、とりあえずここで身を潜めて待つしかない。安西か何者かが正面から神殿に入る動かぬ証拠さえ確認出来れば、あとは教祖を交えてその事情を聞くまでだ。

探偵の真似事のような行動を取って来たからだろうか? ここへ来て何故か教団を裏切っているような背徳的な気持ちになった。幹部であり、教祖の養育者でもあったのに、貴巨は私より安西を信用している。誰よりも長年教団に連れ添って来た私を邪魔者扱いしてまで遂行しなければならない儀式とは一体何なのだ? 猜疑心と好奇心が綯い交ぜになってひどく落ち着かなかったが、そこにどんなおぞましい秘密が隠されていようと、最後まで決して目を背けずに見届ける覚悟だけはあった。

神殿の外に張り込んでからどれくらい時間が経っただろうか? 遠くに車のヘッドライトがちらっと見え、本部付近の路上まで来ると静かに止まった。しばらくしてから月明かりの境内に二つの人影が入って来て、足早にこちらへ向かって来るのがはっきりと確認出来た。

一人はやはり安西で、もう一人は練馬の支部で声をかけられた信者だろうか? まだ若い青年だった。

私は安西が神殿の正面扉に手をかけ、中にいる教祖にノックで合図を送ったのを見届けてから、それまで潜んでいた物陰を出て二人の前に姿を現した。

「二人ともこんな所で何をしているのです?」

私がふいにそう声を発すると、驚いたのは意外にも安西だけだった。私の方を振り返った安西は不意を打たれて呆然とした表情を浮かべていたが、青年の方は全くの無反応で、まるで夢遊病者のように虚ろな顔をしたまま突っ立っていた。

「どうしてここに?」

「それを聞きたいのは私の方ですよ、安西さん。事古主復活の儀は教祖以外の人間が立ち入ってはならないはず。それなのに何故あなたたちの姿が神殿にあるのですか?」

私の質問に対して安西はひどく動揺しながら、返答のしようがない様子で口を噤んだ。

「君は練馬の支部の信者ではないのか? 安西さんに呼ばれてここに来たのか?」

私は青年の方にも詰め寄り、ここへ来た訳を尋ねたが、青年はぼんやりと遠くを見つめたまま、意識があるのかないのかまるで応答がなかった。その瞬間私は青年が自分の意志とは関係なくここに連れて来られたのではないかと訝った。私は催眠の類をテレビのステージでしか見たことがないが、青年の示している症状はまさにそんな感じに見えた。

沈黙を保つ二人を前に張り詰めた緊張感で膠着していると、神殿内の祝詞が止み、正面の扉が重く静かに開いた。

「神聖な儀式の夜に無用な騒ぎですね」

重要な祭祀の時にだけ見せる正装姿の貴巨がそう言いながら表に出て来た。外の騒ぎを宥め賺すように微かに笑みを浮かべてはいるが、生まれ持っての異形がその顔を無表情に近い印象として映す。疾しい思いを秘めた様子や意を決したような素振りは微塵もなく、その人間味の無い冷静さには、これから打ち明けられる教団の深奥を、有無を言わさず強要する魔力があるようにさえ思えた。

「隠し立てするつもりはありませんでした。しかし私たち教団が目指す理想は常人の理解を遙かに越えたところにあります。事古主の復活は世界の在り方を大きく変えるのです。まだ事古主の足音が遠い今の段階では、この儀式に未熟な信者を介入させては教団に取って大きな不利益になりますので」

未熟な信者。貴巨がそう言って初めて私に対する不信を露わにした。母親のヒサも交え、家族三人で同じ屋根の下で暮らした年月が私にとって驕りになっていたという事だろうか?

貴巨は私が最愛の者に産ませた子だが、それを認めているのはどうやら私だけだ。無理とは分かっていたが、心のどこかに貴巨とは常に親子の情で繋がっていたい願望があった。私のその想いは神にひたすら忠実であろうとするヒサにも貴巨にも余計なものでしかなかったのだ。貴巨にとって無心で神に仕える事が出来ない者は皆、未熟な信者なのだ。

「中にお入りください」

貴巨が私たちを神殿の中に招いた。祭壇に灯る蝋燭の炎で薄明るい神殿内は、しんと静まり返った広大な空間に、昼に感じる清浄さとは違った、神域への侵入を簡単には許さない厳格な雰囲気を漂わせていた。

祭壇の中央で事古主の具現化である大鏡の御神体が蝋燭の灯りを受けてゆらゆらと光り、立ちこめる香の匂いに混じって、微かに海辺にいるような匂いを感じた。

先に進み出た貴巨が神前に座して身を整えると、そこから少し離れた位置に安西と青年が座った。教祖に全てを委ねたのか、安西はすっかり落ち着きを取り戻し、青年の方はただ二人に合わせて機械的に動いている感じだった。

「儀式を続けます。毅一郎さんもお座りください。これから信じられない出来事が起こると思いますが、全て神示による幸福の兆しとして了承して頂きたい」

貴巨の声に威厳が籠もった。深呼吸が繰り返され、大和言葉の持つ響きとは違った聞き慣れない祝詞、おそらくこの復活の儀特有の祭祀文が読み上げられた。

どことなく未開社会の原始的な儀式を思わせる不明確な言葉と抑揚で発せられるその短い祭祀文の意味は、それを唱える教祖自身にしか理解出来ないものと思われたが、何度か耳にするうちにその中に一つだけ私にも理解出来る言葉が含まれている事に気付いた。

クトゥルフ。あの在野の宗教学者が語った神の名だった。私の聞き間違いでなければ我が教団の神、事古主はやはりクトゥルフと同じ神であったのだ。

復活させてはならないと警告された神の名を貴巨が唱える度、神殿内にひたひたと禍々しい気配が這い寄って来るような圧迫感を覚えた。海辺のような臭いもよりきつくなっている気がした。

それが儀式により生み出された変成意識状態から来るものなのかは分からないが、神殿に響き渡る貴巨の声に混じって、大風が吹き荒れる唸りとも、獣の遠吠えとも取れる奇妙な音が聞こえ出した。

「あぁあぁあぁ、アアアァァァッ」

音に反応したのか、ずっと黙って座っていた青年が突然そう叫んで立ち上がった。祭壇の大鏡を見つめながら、それまで虚ろだった表情が苦悶に歪んだり、歓喜に満ちたりと、複雑にころころと変化した。明らかに異常な事態にも関わらず、貴巨と安西は微動だにせず、平然とそのまま儀式を続行していた。

私は言いしれぬ恐怖に襲われ、この事態を無理に理解しようとしたためか、頭が正気を保てず混乱した。

神殿に変化をもたらしているものが青年が見つめる御神体の大鏡である事に気付いた時には、既にその巨大な振動音が始まっていた。音だけは激しく鳴り響くが、奇妙な事に神殿内はまったく揺れていない。

「毅一郎さん、聞こえますか? お目覚めになった事古主の足音が? しかしまだ復活するには力が足りないようなんです。私たちがもっと信仰を示さないと事古主はこの世に出られない」

正面を向いて姿勢を正したまま貴巨がそう言った。貴巨の言葉に呼応するように振動音が一層激しく響く。

アアァ、アアァ、と奇妙な呻き声を上げながら、感極まった青年が大鏡に引き寄せられるようにゆっくりと近づいていく。それまで気付かなかったが、側でまじまじと見る青年の顔がいつの間にか貴巨と同じ異形に変わっていた。

「この青年は熱心な信仰が成就して事古主に選ばれた名誉ある信者です。真の神人が示す姿で、これから一足先に事古主と母が待つ古宮に向かいます。そして事古主が完全に復活する日まで、その側でお仕えするのです」

大鏡の前に立って自分の姿を映す青年の顔が鏡越しで至福の笑みを浮かべているのが見えた。その口元が微かに動き、何かを頻りに呟いている。その声は届かないが、私にははっきりそれが「クトゥルフ」と言っているように聞こえた。

「最初に古宮に行ったのは母です。母は死んではいません。夢見る事古主と一緒に我が教団が一致団結して、皆が神人になるのを待っています。教団五十周年の大祭の日にそれを成就させるのが私の役目です。準備は着々と進んでいます。誰にも邪魔はさせません」

大鏡の中の青年が一瞬ぐにゃりと歪んで見えた。それは錯覚ではなく、鏡面が水を湛えたように波打って、そこに映ったものを歪めていたのだ。ずっと鳴り響いている奇妙な振動音が大鏡の中からのものだと気付いたのはその時だ。

「あぁぁぁああぁ、ああああっつつ」

異常な興奮を示した青年が感極まって叫び声を上げた時に、信じられない光景が目の前で起こった。鏡面の波がバシャバシャと一際大きくうねったかと思うと、そこから突然巨大な触手のようなものがぬらりと飛び出して来て、叫ぶ青年の体をからめ取った。ほとんど一瞬の出来事で、触手は青年を掴むと、再び鏡の中に戻って行った。青年の叫び声は鏡面の中でも続き、奇妙な振動音と共にしだいに遠ざかっていった。

神殿内に静寂が戻ると、私は自分が目にした事実に唖然としたまま、この異常な事態で平静を保つ貴巨の言葉を縋るように待った。

「しかと見ましたね。あれが事古主です。事古主復活の法を使って、御神体である大鏡を事古主のいる深淵な世界とこちら側の世界を繋ぐ境界にしたのです。来るべき星巡りの好機に我々の信仰が満ちれば、事古主はこの大鏡の境界より完全なお姿でお出でくださいます。そしてこの荒廃した世界を建て直し、真の神人となった我々を未来永劫に幸福な世界へと導くのです」

そう語る貴巨の言葉は確信に満ちて力強かった。安西はそれを全て受け入れているといった風に、教祖の後ろで微動だにせず静かに控えていた。

失踪した信者たちの行方は分かった。しかしこれが本当に正しいかどうかの判断は、混乱し続ける私には付けられそうになかった。

貴巨の確信が盲信でない保証がどこにあるというのか? 在野の宗教学者が言うように私たちは首尾良く邪悪な神の思惑に操られているのではないのか? 

少なくても青年信者の精神状態はまともではなかったし、大鏡から現れた触手が放っていた荒々しい印象は、この世に幸福をもたらす者が纏っている神性ではない気がした。

壊れた理性の中にわずかに残った私の良心が来るべき大祭の行方が人類の悪夢になる事を予感させ、鳴り止まない警鐘となって苛んだ。

そして私は頭の片隅に置いてあった「セラエノ断章」の事をふと思い出し、それからしばらく自室に閉じ籠もって、そこに書かれている内容を全て頭に詰め込んだ。

セラエノ断章が私に伝授したものはクトゥルフと力が拮抗している神を召還する古代の知識だった。

クトゥルフと力が拮抗する神?

驚いたのは私は慣れ親しんだ我が教団の神話の中でその神の名をすでに知っていた事だ。

在野の宗教学者が私に託したクトゥルフへの対抗策は、いわば毒を持って毒を制す、非常に危険な諸刃の剣となり得るものだったが、教団が陥っている事態に対して、愚かな人間が出来る術はもう他にないと思われた。

数日間耐え難い苦悩を味わった末に、私はセラエノ断章に基づいた自分の計画を遂行するため、一人孤独にその準備を進め、来たるべき大祭の行方を天に任せた。たとえ長年寄り添ってきた教団を裏切るような結果になったとしても、この手記が見つかる時には私はもうこの世に存在していないだろう。ハスターを召還した者が払わなければならない代償は大きく、私にもそれが待っている。私の皮膚はすでに鱗状になり、やがて手足の骨も失われていく。自室の鏡に映った私の姿は、もうこの世のものではないのだ。

クトゥルフに仕える貴巨のように、私もその身にハスターの異形を体現していた。皮肉だが、こんな姿になって初めて私は貴巨を自分の息子として受け入れられる気がした。父親の威厳を持って息子の暴走を食い止める。私はそれに相応しい姿を手に入れたのだ。


船岡毅一郎の手記はそこで終わっている。

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祭祀の痕 祐喜代(スケキヨ) @sukekiyo369

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