いつか氷の海へ

尾八原ジュージ

冬の日

 その病院は古くて陰気で、幽霊のひとりやふたり、当たり前のようにうろついていそうだった。建物はやけに広くて人気が少なく、冬になると地下などはぞっとするほど寒い。元々この辺りは、冬になるとすぐ氷点下になるようなところなのだ。

 彼女はこの病院の病棟に、もう長いこと入院している。アルコール依存症の更生施設を転々として、辿り着いたのがここらしい。清掃スタッフとしてこの病院に通う私とは、タイミング次第でかち合うことが少なくない。特に冬の彼女は体調を崩しがちで、病室に引きこもっていることが多かった。

 水色の制服を着た私が病室を訪れると、彼女は大袈裟なほど喜ぶ。元来寂しがり屋で、他人との会話に飢えているらしい。それとも、私に取り入って何とか酒を手に入れようという目論みがあるのだろうか。そう考えるといっそ哀れに思えた。

「あなた、名前は?」

 積年の過度なアルコール摂取で脳をやられている彼女は、何度会っても私のことを忘れてしまう。私は内心苦々しく思いながら「野本です」と名乗る。

「野本さんはいいひとねぇ。親切だし、仕事が丁寧だし。それに美人だし」

「そうですか? ありがとうございます」

 私は話しながら部屋の床を掃き、ごみを回収する。リネンの交換は、彼女が病室を空ける時間帯に改めて行う予定だ。

「あたしも野本さんみたいに、ちゃんとしてたらよかったのに」

 彼女は艶のない髪をいじりながら言う。「ほら、あたしってばこんなだから。ずっと病院とか施設に入ってて、自分の子供にも会えないの。しょうがないよねぇ。泣いてる赤ん坊ほっといて、キッチンでお酒飲んでるような母親なんだから」

 彼女はいつも同じ話をする。私のことを忘れてしまうように、以前何をしゃべったかも覚えていられないらしい。私は手を動かしながら、はいはいと相槌を打つ。

「あの子、あたしのこと覚えてるかしら」

 ぽつんと彼女が呟く。

「会えばわかるんじゃないですか。親子だもの」

 私がそう応えると、彼女はクックッと笑い声を漏らす。これもいつものことだ。

「野本さんはほんとに優しいわねぇ。きっといいご両親に育てられたんでしょうね。あたしなんか、父親もひどいアル中でさぁ、ろくなもんじゃなかったのよ。最後は行方不明になっちゃって……」

 笑い声が少し大きくなる。「ねぇ、ちょっと聞いてよ野本さん。そのおやじの最期がねぇ、結構ロマンチックなの」

 ああ、またいつものやつかと思いながらも、私は「どんなですか?」と尋ねる。彼女は嬉しそうに話し始める。

「あたしたち、その頃もっと北の方に住んでたの。冬になると流氷が来るようなところよ。あるとき、おやじが友達とお酒を飲み歩いててね。よく晴れた冬の夜でさ、海っぺりの寒い道を、酔っ払いふたりでふらふらしてたんだって。で、友達がはっと気づくとおやじの姿がないのよ」

 一旦言葉を切って、何かを探すように窓の外を見る。灰色の空を眺めながら、彼女は話を続ける。

「どこへ行ったのかと思ったら、海の方からおーいって声がするの。見たらおやじが流氷に乗って、そこで持ってた一升瓶咥えて飲んでるんですって。友達はいっぺんに酔いが醒めちゃって、慌てて向かおうとしたんだけど流氷はどんどん岸から離れちゃって、もうどうにもならないのよ。見る見るうちに離れ小島みたいに沖へ行っちゃってね、でもおやじは平気でお酒を飲んでるんだってさぁ。それで行方不明になっちゃった。ね、ロマンチックでしょう」

 彼女は窓の外からこちらに目線を移して、ふっと唇を綻ばせる。

「きっと酔っ払ったまんま、何にもない星空の下で死んじゃったに違いないのよ。そのまんま北極あたりまで流れてって、氷の中でミイラになってたりしたらもっと面白いんだけど」

 そう言うと、彼女は声をたてて笑う。もちろん、何度も聞いた話だ。私も曖昧に笑いながら作業を続ける。

「ここから出たら、娘を連れて流氷を見にいってみたいわ」

 ふと、彼女がため息まじりに言った。

 私はふと手を止めた。珍しく、聞いたことのない台詞だった。

「あのどこかにあんたのおじいちゃんがいるのよって、冬の海を見せてやるのよ。あの子、まだ抱っこかしら。それとももう、とっくにあんよかしらね」

 私はマスクの下できゅっと唇を噛み締めた。「娘さんに会いたいですか?」と訊いた声は震えていたかもしれない。

「そりゃねぇ」

 彼女はしみじみとそう言った。

 私は急いで手を動かした。「お掃除終わりました」と告げると、彼女は「また来てねぇ、野本さん」と、名残惜しそうに手を振った。

 私は手を振り返し、病室を出た。

 きっと次に会うときまでに、彼女は私のことを忘れてしまうだろう。いつもそうだから、今回もきっと。

 もう還暦を過ぎているのに、彼女は未だに自分のことを、三十歳手前の若い母親だと思い込んでいる。だから頭の中の娘も小さな赤ん坊のままなのだ。「もうあんよ」どころかとっくに成人し、結婚して名字も変わり、病院で清掃スタッフとして働いていることなど、思いもよらないのだろう。

 私は、ドアの向こうに「お母さん」と呼びかけてみたい気持ちをこらえた。母との思い出などほぼないに等しい。なのに胸が苦しくなるのはなぜだろう。

 窓の外では冬の風が吹き荒れている。

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