待てセリヌンティウス

白蔵 盈太(Nirone)

   

 セリヌンティウスは唖然とした。必ず、この軽挙妄動の友とは縁を切らねばならぬと決意した。セリヌンティウスには、他人に平気でこんな頼みごとをしてくる神経がわからぬ。セリヌンティウスは町の石工である。石を彫り、わずかな日銭で暮して来た。けれども我が身と財産の危険に対しては、人一倍に敏感であった。きょう午前中セリヌンティウスは町の工房で普段と変わらぬ仕事をして、此このシラクスの町で何の変哲もない一日を過ごしていた。セリヌンティウスには父も、母も無い。女房も無い。十七の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、町の或る律気な彫金職人を、つい先日、花婿として迎えたばかりだった。結婚式を挙げたばかりなのである。セリヌンティウスは、それゆえ、花嫁の美しい衣裳やら祝宴の御馳走やらを時々思い出しては、幸せの余韻に浸っていたのだ。先ず、午前中に頼まれていた仕事を片付け、それから都の大路をぶらぶら歩いた。セリヌンティウスには竹馬の友があった。メロスである。今は此のシラクスの町から野を越え山越え、十里離れた村で、牧人をしている。その友とは、もう二年も逢っていなかった。久しく逢わなかったのだから、その間、特にその存在を思い出すこともなかった。


 だがセリヌンティウスは、深夜、王城に召された。竹馬の友、メロスが街で暴君ディオニスに向かって暴言を浴びせて捕まり、友人であるセリヌンティウスを呼んでくれと王に頼んだというのである。

 暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。

「ひっそりとしていて、やけに寂しいまちの様子を怪しく思ったおれは、路で逢った若い衆をつかまえた。何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問したのだが、若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問したのだが、やっぱり老爺は答えなかった。そこで、両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねたら、老爺は、あたりをはばかる低声で、王様が人を殺すということを教えてくれたのだ」

「それで、おまえはどうしたというのだ」

 セリヌンティウスの問いに、メロスは悪びれずに答えた。

「おれは激怒して、呆れた王だ、生かして置けぬと、買い物を、背負ったままで、王城にはいって行った。巡邏の警吏がおれを捕縛し、王の前に引き出されたので、おれは『市を暴君の手から救うのだ』と言ってやった」

 その話を聞いて、セリヌンティウスは「またか」とうんざりした。この無鉄砲で正義感だけは過剰にもちあわせている友は、昔からこんな風に後先考えずに、力のある者をやたらと目の敵にして食ってかかる癖があった。この男はそれが正義だと思っているらしかった。そして、そのたびに友人であるセリヌンティウスが呼び出されて、彼自身は何もしていないのにメロスの尻拭いをさせられている。


「王が、『おまえには、わしの孤独がわからぬ』などと言うので、おれは『言うな!』といきり立って、『人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。』と反駁してやったんだ」

 ああ、メロスのやつはいつもそうだ、とセリヌンティウスは思った。王はその過酷な人生において、これまでに何度も何度も、信じていた親戚や家臣たちの裏切りに遭ってきた。そしてその悲しい経験を通じて、疑うのが正当の心構えなのだという厳しすぎる現実を骨身に染みて理解していた。「人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」と口癖のように言う暴君が、実は心の底では一番平和を望んでいるということを、セリヌンティウスをはじめとするシラクスの町の者はみな理解をしていて、誰もが秘かに心を痛めていたのだ。

 そんな王の深い心の傷を、メロスは馬鹿正直な正義感で、何の気遣いもなく真正面からえぐるような真似をした。それでは王が怒るのも当然だろう。激怒しながらも王はきっと、心の奥底では滂沱たる涙を流しているに違いなかった。


「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。罪の無い人を殺して、何が平和だ。」

「だまれ、下賤の者。口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」

「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

「ばかな。とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」

「そうです。帰って来るのです。私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

「なに、何をおっしゃる。」

「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」


 王との間でそんなやり取りがあったのだとメロスから得意げに聞かされ、セリヌンティウスは絶句した。こいつは友人の命をなんだとおもっているのか。お前のくだらない正義ごっこに、無関係の俺を勝手に巻き込むんじゃない、そりゃあ、お前にはこれから結婚式を挙げる妹がいるのかもしれないが、俺にだって結婚式を挙げたばかりの妹がいるんだぞ。状況は一緒だ。そもそも王に喧嘩をふっかけるなら、せめて妹の結婚式が無い時にやれよ。どう見てもお前、結婚式のことを完全に忘れて喧嘩をふっかけて、それで取って付けたように思い出してるだろ。

 だいたい、鬱々として人間不信に陥っている傷ついた人間に対して、この天然の無神経男は、傷口に塩を塗りこむような、なんという配慮のない言葉を吐くのか。もうホント、今回ばかりはもうお前の馬鹿げた正義には付き合いきれない。磔にされて死んでしまえと、さすがの温厚なセリヌンティウスも正直思った。


 ただ、このメロスという竹馬の友は、ほとんど白痴に近いようなとんでもない馬鹿者ではあるが、それだけに、嘘をつくような器用な芸当もできないことをセリヌンティウスはよく理解していた。

 シラクスの町からメロスの住む村まではたったの十里で、急げば半日で着く。三日間もあれば一日は結婚式に充て、往復に一日かかるとしても、まだ一日の余裕がある。時間は十分すぎるほどにある。

 ここまで王を激怒させてしまったら、メロスの友人である自分ももう逃げ場はないだろう。ああ、これはもうメロスの身代わりとなって三日間は我慢するしかないな、とセリヌンティウスはあきらめに近い覚悟を決めた。

 どうせ三日後にはメロスは磔にあって死ぬのだ。そうすればそこから先はもう、この厄介な友人に振り回されずにすむのだと思えば、安い代償かもしれない。セリヌンティウスは気持ちを前向きなほうに切り替えることにした。

 メロスに対してあれこれ説明するのが面倒くさいので、セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。


 セリヌンティウスの十七の妹が、兄が友人の身代わりで人質になったことを知ったのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇ったころだった。知人に顛末を聞かされた妹は、王城の一室に軟禁された兄の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

「なんでも無い。」セリヌンティウスは無理に笑おうと努めた。「例のメロスの馬鹿の、いつものとばっちりだ。明日には妹の結婚式を挙げて、明後日には戻ってくるだろう。」

 妹は怒りで頬をあからめた。

「呆れているか。まあ、そりゃあそうだよな。俺だってもう、あいつの酔狂には付き合いきれぬ」

 それから二日間は、なんの変わったこともなく過ぎた。一日目の朝に村に着いたメロスは、その日に結婚式の準備を整え、二日目に結婚式を挙げるのだろう。そして三日目の朝に村を出れば、午後にはここシラクスの町に着くはずだ。

 二日目の真昼、ちょうど新郎新婦の、神々への宣誓が行われていると思われるころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。根は優しいセリヌンティウスは、せっかくの結婚式がこれでは台無しだ、磔にされて死ぬ前の最後の思い出なのに、メロスのやつもかわいそうにと思った。豪雨は夜に入ってもやむことはなかった。

 眼が覚めたのはあくる日の薄明の頃である。セリヌンティウスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだ朝だ、メロスの奴が戻ってくるにはまだ早い、処刑の刻限は日没だ、大丈夫、十分間に合う。きょうは是非とも、あの正義感の暴走した手のかかる友人に、後先を考えないと碌なことにならないことを身をもって理解してもらおう。そうして笑って磔の台に上ってもらうのだ。セリヌンティウスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、そこでセリヌンティウスは、気がかりな知らせを耳にした。


 メロスの住む村から二里ほど行った、全里程の半ばあたりにある川が、氾濫したというのだ。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしたらしい。彼は茫然と、立ちすくんだ。様子を見に行った弟子のフィロストラトスによると、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えなかった、流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっているとのことだった。フィロストラトスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願したという。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、私の師匠が、わけの分からない馬鹿な友人のために死ぬのです。」

 濁流は、フィロストラトスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はフィロストラトスも覚悟した。泳ぎ切るより他に、この川を渡る術は無い。ああ、神々よ助けたまえ、メロスがこの濁流を流されずに渡りきることを。それ以前に、濁流を目にしたメロスが「あー、これ絶対無理だわ。無理無理」とあっさり諦めて、無責任に村に引き返すようなことのないことを。


 絶望しながら、フィロストラトスがとぼとぼとシラクスの町に帰ろうとすると、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

「待て。」

「何をするのだ。私はいま気が立っている。死にたくなければ放せ。」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、尊敬する師匠が死んでしまったら意味のないものだ。」

「その、いのちが欲しいのだ。」

「よし。いい度胸だ。そこまで死にたいのなら相手してやろう。」

 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。だが、フィロストラトスは天下無双の武芸の達人である。フィロストラトスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、「どうして師匠がこんな馬鹿げたことで死ななければならないんだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者もひるむ隙に軽々と打ち倒した。まったくの八つ当たりである。山賊もいい迷惑だったが、相手の腕前を見極められず、迂闊にも屈強なフィロストラトスに喧嘩を吹っかけてしまったのが運の尽きだったのだろう。

 山賊たちはほうほうの態で逃げ出し、鬱憤を晴らしたフィロストラトスが、のしのしとシラクスの町に向かって去っていったのを見て、恐る恐る先ほどの街道筋に戻り、いつもの追いはぎ稼業を再開した。彼らは愚かな次の旅人が通りかかるのを待ったが、腕は折られ脇腹はあざになって腫れ上がり、とても普段の実力を発揮できそうにはなかった。今ならば、たとえ腕っぷしの弱いメロスがここを通りかかっても、簡単に打ち倒せるくらいであったろう。


 折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、フィロストラトスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。何の罪もない師匠が殺されるというあまりの馬鹿馬鹿しさに、悔しさがこみ上げてきて、立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、なんなんだあの、メロスとかいう意味不明すぎる師匠の馬鹿な友人は。真の愚者、メロスよ。今、ここでお前が帰ってこなかったら、おれがお前を打ち殺しに行くぞ。愛する師匠は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と心の中でメロスを叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。精神がやられれば、身体も共にやられる。もう、どうでもいいという、屈強なフィロストラトスに不似合いな不貞腐された根性が、心の隅に巣喰った。


 どうせあのメロスの馬鹿野郎は今頃一人で、「私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。」などと無責任な言い訳をしている頃なのだろう。

 そんでもってどうせ、「私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。」などと、さも善人面して偉そうな御託を述べるのだ。

 フィロストラトスの脳裏に、今頃メロスがつぶやいているであろう言葉が次々と浮かんでくる。

「私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。」


 ……ごちゃごちゃうるせえんだよ!

 全部おまえの蒔いた種だろうが!

 四の五の言わず来い! そして磔にされて死ね!


 師匠セリヌンティウスを敬愛してやまないフィロストラトスは、脳内で勝手に想像した身勝手なメロスに対して、思いつくばかりの口汚い罵声を浴びせた。だが、フィロストラトスの脳内メロスはちっとも心が痛まない様子で、ごろりと道端に仰向けに寝転んでしまった。


「ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。」


 ちょっと待てや!

 何寝てんだよお前! 自分がいま何してんのか分かってんのか?

 お前のせいで師匠死ぬんだぞ? 何もしてないのに死ぬんだぞ?

 走れよ! 走れメロス! 走りやがれ、こんちくしょう!!――


 フィロストラトスがそんな夢想をしながら一人で悶々としていたその頃、王城に幽閉中のセリヌンティウスは、メロスは氾濫する川を無事に渡れたろうかと、その事だけをじりじりと案じていた。

 あいつは底抜けの馬鹿正直だから、逃げることは絶対にあり得ない。だが、氾濫する川ばかりはどうしようもない。無理に泳いで渡ろうとして、川に流されてもう溺れ死んでいるかもしれない。川を渡れずにメロスが日没までにシラクスの町に戻ってこれなかったとしても、王はそんな言い訳を許すはずがないだろう。自分は磔にされて死ぬ。メロスの馬鹿のせいで。死ぬにはあまりにもくだらない理由だ。


 その時セリヌンティウスの脳裏に、一瞬だけある疑念がよぎった。メロスの奴、実は最初から逃げるつもりだったのではあるまいか。それはあまりにもくだらない、現実離れした疑念だった。だが、一向に返ってこないメロスに業を煮やし、すぐそばに迫った自らの死を前に平素の冷静さを欠いたセリヌンティウスの頭脳は、この疑念を笑い飛ばすことができなかった。

 そうだ。メロスが出発した日、西の空には重い雲がたちこめ、黒い入道雲のあちこちで雷光が瞬いていたではないか。メロスはそれを見て、翌日にはきっと大雨が降る、そうすれば到着が遅れても言い訳が立つと考えて、自分をまんまと陥れるために暴君ディオニスに喧嘩を吹っかけたのではないだろうか。

 メロスには、わざわざそんな嘘をついてまでセリヌンティウスを陥れる理由など一つもない。落ち着いて考えればすぐに分かることだが、追い詰められたセリヌンティウスに、そこまでの心の余裕はなかった。セリヌンティウスはこれまでの人生において、幼馴染のメロスを心の中で馬鹿にすることはしょっちゅうだったが、馬鹿にされるのも当然なくらいの愚かな正直者なだけに、彼を疑ったことは一度もなかった。生まれて初めて、セリヌンティウスはメロスのことを疑った。

 

 太陽が少しずつ沈んでゆく。一旦シラクスの町に戻ったフィロストラトスは、城門の外で、半ば諦めながらメロスの到着を待っていた。もう日没にはどう考えても間に合わない。市場に設けられた磔台のそばで、師匠が処刑されるのをこの目で見ることに到底耐えられず、彼は城の外でメロスを待つと称して、刑場を去ったのだった。

 はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。そこに、いまは、ほとんど全裸体となったメロスが、呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出しながら走ってきた。

「ああ、メロス様。」フィロストラトスはメロスに声をかけた。師匠の友人なので一応敬語を使ったが、本当なら今すぐ思いっきりぶん殴ってやりたかった。

「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。

「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」フィロストラトスも、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは涙目になりながら、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。涙目になるぐらいなら最初から友人を人質などにしなければよいのだとフィロストラトスは思ったが、走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」


 フィロストラトスはもう腹が立って腹が立って仕方がなかった。自分が声をかけるまで、メロスはヘロヘロだったのだ。血を吐いているので、これ以上走らせたらこいつも死ぬなと思って、走るのを止めろと言った。こんなところであっさりと、師匠と同時にメロスに死なれたところで、残された者たちはただ胸糞が悪いだけだ。この馬鹿者には、その後も何十年にもわたって、周囲から卑怯者と罵られ、石を投げつけられながらみじめに生き続けてもらわねば到底収まらない。そして、自分の愚かな行為で師匠を死に追いやったのだという後悔に苛まれながら、永遠の生き地獄を味わわせねばならない。

 変に処刑直後にギリギリ到着して、間に合わなかったが精いっぱいの努力はしたのだ、などという、いかにも惜しかったような雰囲気を出されるのも許せない。そう思ってフィロストラトスはメロスを止めたのに、ここへ来てこの男は、やけに力強い足取りで素早く走り出したのだ。


 そんなに走れる力があるのなら、もっと前から走れよ!

 ああ、この男はあれだ、他人に見られている時だけ本気を出すたぐいの男か。


 さっきまで血を吐いていたくせに、この期に及んで、追走するフィロストラトスが追いつけなくなるほどの速さで、最後の死力を尽くして、メロスは走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。

「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 セリヌンティウスは内心、何を自分に酔っているのだこの馬鹿野郎は、と思った。だいたい、「途中で一度、悪い夢を見た」とはどういうことか。氾濫した川のせいで到着が遅れたのだとばかり思っていたが、そうではなく、殺されるかどうか悶々としながら俺がお前を待っている間に、お前はのん気に道端に寝転がって昼寝していたとでもいうのか。

 色々思うところはあったが、セリヌンティウスはとにかく死を逃れたという安堵感から、すべてを察した様子でうなずいた。そして、心の奥底に溜まりに溜まった怒りをその鉄拳に込め、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。


 ちょっとやりすぎたかな、とセリヌンティウスは少し気まずくなった。事情を知らない周囲の群衆たちは、友人を勝手に人質に差し出して命の危険に晒したこの身勝手な男を、さも英雄のように褒めたたえて歓声を上げている。これでは自分はまるで、死ぬと分かって信義のために戻ってきてくれたボロボロの勇者を、いきなりぶん殴った恩知らずのようではないか。本当は逆なのに。


 仕方なくセリヌンティウスは、内心釈然としないものがありながら、優しい作り笑いを浮かべて言った。

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。

 おい、本気で殴りやがったぞこいつ、とセリヌンティウスは少々ムカッとしたが、馬鹿正直なこの友人に、相手の気持ちを汲み取るなどという器用な芸当を期待するだけ無駄だと思い直した。それで、この場は熱い友情を演じきることにした。「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」


 え? ちょっと待って、コイツを殺さないの王様?

 これでやっとメロスと縁が切れると思っていたセリヌンティウスは、思わぬ事の成り行きに狼狽したが、今さっき熱い抱擁を交わしたばかりの友を、殺してくれなどとさすがに言うわけにもいかない。


 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、王様万歳。」

 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

 全裸の大馬鹿者は、ひどく赤面した。


(太宰治「走れメロス」から。)

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