一杯に詰まった想い

黒羽カラス

第1話 沁みる一杯

 金曜日、午後十一時を回った頃、青田あおたまなぶはふらふらの状態でマンションに辿り着いた。揺れる身体でスーツのポケットから財布を取り出す。二つ折りを開いて釣銭入れに入れた鍵を摘まみ、ノブの鍵穴に差し込もうとした。

「こら、逃げるな」

 鍵穴の周りを何回も突いてようやく差し込んだ。鍵を開けて扉を開ける。吸い込まれるように入ってサンダルを踏み、派手に素っ転んだ。仰向けの亀となって手足をばたつかせた。

 居間の扉がいきなり開いた。目を剥いた青田あおた佳代かよがパジャマ姿で詰め寄った。

「あなた、何時だと思っているのよ! 大きな音を立てて近所迷惑でしょ!」

「ああ、すまん。おまえも声を落とせ」

「ごめんなさい。なんでわたしが謝らないといけないのよ!」

 酔っ払いの学と張り合える程の赤ら顔となった。まあまあ、となだめるような手でのろのろと起き上がる。佳代と向かい合った姿で頭をカクンと下げた。

「反省してます。この通り」

「何度目だと思っているのよ。また部下を連れ回したんでしょ。そのうち、嫌われるわよ」

「そんなことはない。皆、喜んでいた。最後は『御馳走になりました』と礼まで言っていたな」

 思い出して頬を緩める。佳代は冷めた目で言った。

「そんなの建前に決まっているじゃない。今時、飲みニケーションは流行らないわ。わたしがОLをしていた時も上司の誘いが嫌で仕方がなかった。なんで自分の時間まで拘束されないといけないのよ、って何度も心の中で思ったわ」

「そうかもしれないが、私と部下は違って」

「はいはい、早く水を飲んで大人しく寝てくださいね」

 わざとらしい欠伸をすると佳代はさっさと引き返す。

「本当に私と部下は、そんなのとは、違うからな……」

 革靴を踏ん付けるようにして脱いだ。反動でよろけて肩を壁にぶつけた。その部分を摩りながらキッチンへと向かう。

 薄暗いまま、水切りラックから逆さまのコップを取り出し、蛇口の下に持っていく。自動で水が出て溜まった一杯を一気に飲み干した。

「プハーッ、生き返る一杯だな」

 目は食器棚の下部に向かう。

「カップ麺の蕎麦……今日はいいか」

 シンクにコップを置くと、幾分、しっかりした足取りとなった。


 日付が変わった。何の物音もしない。車の排気音さえ、聞こえて来なかった。

 食器棚の下部に買い置きしたカップ麺、『緑のたぬき』がにわかにざわつく。

「食べて貰えると思ったのに」

 小さなカマボコ達は集まり、うんうん、と体全体を使って頷く。更に小さなネギは気にした様子もなく、ヒラヒラと狭い中を舞って遊びに興じる。

 小袋は中腰の姿勢で起き上がった。

「深酒のあとに食べると最高に美味しいのにね。鰹と昆布の出汁は胃に優しいよ」

「かき揚げの俺を忘れてくれるなよ。小エビとの相性はバッチリで存在感の塊だ」

「テンプラ臭が凄いけどね」

「そうそう、古くなると特に」

 カマボコ達は寄り集まって囁く。

「失礼なことを言うな! まだそんなに臭くなっていないぞ。賞味期限はまだ先だ」

「君達、私を忘れていないか? 大地のように揺るぎない私がいればこそ、蕎麦が成り立つ」

 薄茶色の麺が下から威厳を込めた声で言った。

「全ての具が美味しく食べられるのは、粉末スープである僕のおかげだと思うんだけどね」

「お前だけだと甘くなる。そこで俺様、七味唐辛子の出番だ。寒い時期には俺様の有難味がよくわかるってもんだ」

 小袋の片方が声を張り上げた。

 カマボコ達は白い顔を並べて言った。

「引き籠りのくせに」

「お湯がないと何もできないくせに」

「切って貰わないと出て来れないくせに」

 辛辣な言葉が並ぶ。小袋は身体を震わせて反論を試みる。

「君達だってそうじゃないか。お湯がなかったら食べて貰えないよね」

「かき揚げの俺は違うぞ。単独で食べられる」

「それならば蕎麦の私も同じだ。スナック菓子の感覚で食べられていると生産工場で耳にした」

 小さなネギは何も考えていないのか。狭い空間を自由に動き回る。

「一部の人間の嗜好しこうに過ぎないよ。粉末スープの僕がいないと始まらない」

「かき揚げの俺が一番に決まっている!」

「君達はただの具だ。蕎麦である私の引き立て役に過ぎない」

「カマボコは小さくても美味しいよね」

 他のカマボコ達はヘッドバンギングの激しさで同意を示す。


 各々の主張は夜が明けるまで続いた。そこに足音が近づいてきて急に押し黙る。

「……今日の気分は、ご飯じゃないな」

 学は寝癖の付いた頭を搔きながらヤカンに水を注ぐ。コンロの上に置いて強火にした。その間に食器棚の下部の戸を開けた。中から『緑のたぬき』を取り出してテーブルに置いた。蓋を半分ほど開けて中の小袋を取り去る。水平に切って粉末スープと七味唐辛子をカップに入れた。

 音と共にヤカンから白い湯気が上がる。熱そうに持ってカップに湯を注ぎ入れる。即座に蓋を閉めて上に割り箸を置いた。

 椅子に座って壁掛け時計に目をやる。三分よりも早くに蓋を開けた。天婦羅を割り箸で少し崩し、蕎麦と一緒に啜った。カップを片手に持ち、熱いスープを少し飲む。今度は蕎麦だけを食べた。直後に天婦羅を多めに口に含む。箸休めとしてカマボコを一口にした。

「酒のあとはこれだよなぁ」

 脱力したような声を漏らし、ネギの浮かんだ汁を多めに飲んだ。

 スリッパの音がして佳代が顔を出す。

「飽きれた。朝から何を食べているのよ」

「美味いぞ。体から昨晩の酒が抜けていくようだ」

「そうなの? それならわたしも」

 佳代は食器棚の下部から『赤いきつね』を手に取って掲げた。

「お揚げさんもいいよな」

「そうね」

 二人は笑みを交わして仲良く麺を啜った。

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