神崎さんとタピオカ
無事に川西からジャージを借り受けて戻ると、教室の中はいくらか落ち着いていた。予鈴を聞きながら席に座るなり、前の席の吉田がくるっと振り返って僕の机に肘を乗せてくる。別に仲が良いわけでもないのに、ごく当たり前の顔でだ。やはりサッカー部のエースはコミュ力が違う。
「……なあ、お前買う?」
息をひそめて尋ねられる。何を、と言おうをして口をつぐんだ。そんなの、あれしかないじゃないか。
「……いや、今月小遣いやばいから市民図書館で借りる」
「あ、なるほどな! 俺もやばくてさ、なあ、それ次俺に……いや、又貸しはやべぇか」
「返す時にカウンターで言えば、渡してくれるんじゃないかな」
「マジか!」
「いや、やったことあるわけじゃないけど」
吉田は「いやーその手があったか!」と嬉しそうに三度言い、そしてハッと気付いたそぶりを見せると暗い顔になる。
「俺、カード持ってない」
「貸出カード?」
「おう。あれってその日に作れんの?」
「……一緒に行こうか? 他にも借りたい本あるし、『水煙草』は譲るよ」
「は? マジで? 浅島お前超いいやつじゃん」
吉田の声が大きくなる。こいつうるさいな……と思いながらも、僕は人気者の彼と少し仲良くなれた気がするのが内心嬉しくて、曖昧な苦笑いを浮かべた。いいかい君達? 僕みたいな、一見普通だけど実は隠キャっていう人間を見分けるコツを教えてあげよう。こういう時、爽やかにニコッとできないんだ。どうしても笑顔が少しぎこちなくなってしまう。それがコンプレックスでもあり、まあそんな自分がそんなに嫌いではなくもあり――
とその時、神崎さんが振り返ってこちらを見ているのに気付いて、僕は硬直した。眼鏡の奥の、たぶん外したら切れ長の鋭い形をしているのではないかと思われる、真っ直ぐな瞳が僕を射抜く。動けない。静かな彼女から漏れ出る覇気で、息すらもできない。
薄い唇が少しだけ開き、また閉じ、そしてまた少し開く。彼女が何か言おうとしているのに気付いて、僕は少し身構えた。
「……浅島君」
「はい!?」
思わず裏返った大きな声を出してしまって、笑われるかと思った僕は少し肩をすぼめて縮こまった。しかしクラス人間は一人残らず、固唾を飲んで神崎さんに注目していた。
「『水煙草』、貸してあげようか」
そんな畏れ多い! と叫びそうになったが、なんとか堪えた。「僕の名前、覚えててくれたんですか……!」も我慢した。
相変わらず神崎さんからは、背後に虎かなにか見えそうな感じの覇気が感じられる。そういえば去年卒業した二つ上のお兄さんは「魔王」と呼ばれていたらしい、という噂を思い出す。僕は会ったことがないが、どんな人だったんだろう。きっと神崎さんと同じで、いい人なんだろうな。
「……いいの?」
僕は呟くように言った。神崎さんが頷く。
「……もうすぐ、読み終わるから。放課後には渡せると思う」
「ありがとう。ええと、僕の次は吉田でもいい?」
「うん。みんなで、回してくれていいよ」
静まり返った教室。ひっそりガッツポーズを決めている吉田。早速回し読みのリストを作り始めている委員長。それをさらっと流し見て、また読書に戻ろうとする神崎さん。
「……
その時、高橋が叫ぶように言った。神崎さんが小声で「みのりん……?」と言いながら、目を白黒させて彼女を見る。今まで見せたことのないその表情に、美術部の前田がスケッチを始める。
「何、高橋さん」
「ユキって呼んで」
「……ユキちゃん」
高橋は息を呑んで、小さく「ユキちゃん……」と嬉しさを噛み締めるように囁いた。そしてすぐに、大輪の花のような満面の笑みを浮かべる。数人の男子がぽかんとしてそれを見つめる。
「みのりん、今日放課後空いてる? タピオカ行こーよ、女子みんなで」
「タピオカ……?」
「おいしいタピオカドリンクの店、駅前にあるから、行こ! タピろ!」
「……うん」
神崎さんが頷いて、女子が一斉に歓喜の表情を浮かべた。何人かがふざけたように笑いながら「勝手に決めんなし!」「まあ行きますけど〜」と言っているが、声があまりにも弾んでいる。
「てか、タピオカはもう古くない?」
「いいじゃんうまいんだから! うまいからあの店も潰れてねーの! 分かる? ねーっ、みのりん?」
「……うん」
神崎さんが珍しく覇気のない声で応え、覇気のない仕草でこくんと頷いた。まるで普通の女の子みたいに頬を染めて微笑んでいる。多くの男子がそれを食い入るように見つめたが、数人はまだ呆然としたまま高橋を見ていた。
僕はその二人を交互に見つめて――彼女の本の題名を探る役割も今日で終わりかと、少しだけ残念に思った。
〈完〉
神崎さんは覇者のオーラを隠しきれない 綿野 明 @aki_wata
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