神崎さんと高橋



 僕がその朝教室に着いたのは、チャイムの十五分前だった。担任が来るまでにまだかなり時間の余裕があって、みな思い思いに朝の時間を過ごしている。


 僕の席は窓側の後ろから二番目だ。かなりいい位置なので、できればもうしばらく席替えしたくない。教師からすれば真ん中だろうが端っこだろうがよく見えているのは知っているが、それでもやっぱり端の方が安心するのは変わりない。


 自分の席まで行くには教室の後ろから回った方が早いが、僕はあえて前の扉から入って、窓側の一番前の席に座っている女の子にさりげなく挨拶した。


「こ、神崎さん……おはよう」

「おはよう」


 手の中の文庫本から顔を上げて、神崎さんが言った。寡黙ではあるが、話しかければきちんと返事をしてくれる人なのだ。ごく普通の挨拶の声に、周囲の数人が小さく身震いするのが見えた。彼女の声を聞いて鳥肌が立ったのだろう。分かる。僕もそうだ。


 彼女はとても小さな声で話す。声質も、どちらかというとウィスパーボイスかなというような、少し息の混ざった感じの声だ。


 けれど、彼女の声を聞いて「大人しそう」と思う人は一人もいないだろう。その響きは何か言語化できない……気迫のようなものに満ち満ちているのだ。


(ああ……今日も覇気に満ちてる!)


 僕は感極まって天を仰ぎたいのを我慢して、特徴のないメガネの奥から見上げてくる真っ直ぐな視線を見つめ返した。その強さに背筋が再びぞわりとした。時が戦国なら、彼女はきっと大軍を率いる将だっただろう。いや、たぶん前世がそれだろう。斜め後ろに座っている山下が両手で顔を覆っているのを恨めしく思う。僕もできればそうしたい。


「……今日は、なに読んでるの?」


 僕は尋ねた。神崎さんに本のタイトルを尋ねるのは、図書委員である僕の役目なのだ。あとは僕がわりかし真面目で成績が良く、読書好きそうな見た目をしているのもある。「クラスメイトが読んでいる本に興味を持っても全く不自然じゃない外見」らしい。実際はマンガとラノベしか読まないが。


「朝下望の『水煙草』」


 神崎さんが淡々と教えてくれた。皆が体の陰でさっとメモを取る。全然知らない作家だが、真面目そうな本だ。僕が何かそれに返事をしようと口を開きかけた時、突如教室の反対側からガタンと大きな音がして、皆が振り返った。もちろん神崎さんも。


「あ、あたしこないだ読んだ……!」


 そう言ったのは高橋だった。長い黒髪の下の方だけを緩く巻き、睫毛をくるんとさせ、第一ボタンを開けてスカートは膝上十五センチ。口癖は「タピオカ行こ」。文学に興味なんてなさそうに見えるが、彼女はあれで結構な読書家だ。というか、神崎さんの影響でそうなったらしい。メモしたタイトルを追いかけて読むだけでは話すチャンスが掴めないと、神崎さんの好みを分析し、先回りして新しい本を読み続けている努力家である。


「めっちゃウケるよね! 水煙草ってアリスしか知らなかったけど……言われてみれば確かに、芋虫って子供だからタバコはダメだわ!」


 うわずった早口で高橋が言った。頬が紅潮して、いつもより可愛く見える。彼女の努力がついに実を結ぼうとしている瞬間に、皆が息を呑んで立ち会う。何だその本、と思っていそうな人間はとりあえず見当たらない。


「私もそこ笑った」


 神崎さんが言った。それも、ふっと笑みを浮かべて。高橋は今にも気絶しそうな顔をして「あたしら、趣味合うかも」と言った。


「そうだね。今度オススメ教えて」

「うん……っ! あの、あのさ。みのりちゃんって呼んでいい?」

「いいよ」


 皆が驚愕と、羨望と、嫉妬の混ざり合った目で高橋を見る。高橋は目尻に涙を浮かべて「ありがと……!」と言う。


 僕はそれを横目に見ながら、自分の席に鞄をどさりと置いた。中身を机に詰めてゆく。あ、ジャージ忘れた。やばい。


 慌てて他のクラスに借りに行こうと立ち上がると、高橋が女子達に囲まれていた。「やったじゃん、ユキ!」とか「ウチにもその本貸して」とか聞こえてくる。


「ねえ、ウチも季ちゃんって呼びたい。呼んでもいいと思う?」

「いけるって! きいてみなよ」

「無理無理ムリ! ユキ言ってよ!」


 楽しそうだな、と思いながら脇を通り過ぎると、神崎さんがその騒ぎをじっと見つめているのが目に入った。いつもの冷静な表情とは少しだけ違って見えて、あれ、と思う。けれどチャイムまで時間がなかったので、僕は足早に友人の川西のところへ向かった。確か三組は今日、体育があるはずだ。





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