葡萄

蓮乗十互

葡萄

 橙色の光が天空の闇からこぼれ落ちた午後、男と女は病院を抜け出した。


 逃げよう。

 どこへ。

 どこかへ。


 病院は郊外の山の上に建てられていた。ここに来る時には、男も、女も、忌まわしい鉄格子入りの車の窓から、不自然に切り取られた風景を眺めることしか出来なかった。その路を今、二人はパジャマとスリッパで駆けてゆく。広がるのは、低く垂れた空と、立ち枯れた木々。

 女は絶望的に空を見上げた。どこまでも追ってくるというのだ。何が、と男が問う。恐い人達、と女が答える。男が振り返ると、山の上に聳えるコンクリートの塊が、冷たく二人を見下ろしていた。

 駄目だ、街へ逃げても監視される。

 男は女の手を引いて、路を外れた。林の中を、山を回り込むように走る。木の枝に鞭打たれ、二人はたちまち傷だらけになる。

 やがて、山の陰に病院の建物が見えなくなる頃、二人は葡萄畑に出た。

 もう、追ってこないね。

 ええ。

 女は笑った。

 葡萄はほとんど腐っていた。涸れて水分を失った房もあれば、発酵し弾けた粒もある。饐えた果汁の香りが霧のように立ち込め、頭がくるくると回る。放射能を含んだ風が、この辺りの作物を犯していた。

 女はくすくす笑う。笑いながら、踊るように葡萄畑をさまよう。男はその後を、ゆっくりとついて歩いた。

 あっ。

 女が小さな声を上げ、しゃがみこんだ。発作だ、と男は思った。病院の真っ白な壁に自らの月経を塗りたくる鬼女の形相が、無言の記憶として甦る。

 けれども、発作ではなかった。女は、地に落ちた一房の葡萄を手にとって、ぼんやりとそれを眺めていた。粒立ちは艶やかに張りつめて、おそらくは奇形の果樹園に残された最後の生命なのだろうと思われた。

 ほら、元気な赤ちゃん。

 女は立ち上がりながら、男にその房を示した。黒雲の切れ目から白い光が差し込み、女を照らす。モノクロームの風景に女の姿が浮かび上がる。美しい、と男は思った。地上のものではない、神聖な光景だった。

 女は葡萄を慈しむように頬擦りをした。そしておもむろに、一粒、口に含んだ。ころころ、ころころ。舌で粒を転がす。至福の表情が女に浮かんだ。

 男は女の足元にひざまずくと、素足に唇でそっと触れた。それから、尻を抱くように腕を回して、頬を柔らかな腹に当てた。とくん、とくん。もう永遠に生命を育むことのない女の腹に、男は鼓動を聞いた気がした。

 女はそっと男の髪を撫で、腰を下ろす。唇を求めたのは女の方だった。口に含んだ葡萄の粒を、そっと男の口腔に押し込む。男は少し口の中でそれを転がした後、再び女の口に押し戻した。二度、三度。大粒の葡萄が二人の口の中に蠢く。最後に、男が粒を飲み込んだ。それから愛撫が始まった。

 女は男を両手で弄んで、それからおもむろに口に含んだ。葡萄をそうしたように、舌を転がす。男は房を握り締めた。薄緑の果汁が白いパジャマにしたたり落ち、染みがひろがる。

 二人を心の病であると非難する者は、ここにはいない。その事実が彼らを安らかにさせる。二人は病院のパジャマを脱ぎ捨てると、素裸で抱き合った。男は動いた。女は、どんなに強く抱いても足りないとでもいうように、男に手足を絡ませた。

 女がつぶやく。

 葡萄になりたい。

 どうして。

 皮を脱ぐと、瑞々しい実が顕れるから。

 うん。

 病んでない自分が顕れるから。

 うん。

 この世界では生きてゆけない。

 ──生きて、ゆけない。

 男は知っていた。女が病院の壁に、経血で赤ん坊の姿を描こうとしていた事を。奇形に生まれ、闇に流された自らの子供への思いを、壁に叩きつけていた事を。誰にも理解されない病とその背後に潜む悲しみを、男と女は共有していた。

 男は仰向けの姿勢になって、空を見た。発酵した葡萄の香りに酔ったのか、それとも快楽に頭が痺れてしまったのか、くるくる、くるくる、世界が回る。土も、空も、光も死んだ。人間たちが、よってたかって殺してしまった。今生きているのは、自分と、それからこの柔らかで温かな女だけなのだ、そう男は思った。


        *


 病院からの追っ手が二人を発見したのは、脱走から三時間ほど経った頃だった。放射能防護服に身をかためた追跡者たちは、果樹園で睦み合う二人を取り囲んだ。

 男と女は裸で抱き合ったまま、動こうとしない。一人が舌打ちをして、女の肩に手をかけようとした。

 その時、異変が起こった。

 女の背中に一本の線が走った。ぷちん、と皮が弾け、瑞々しい緑色の肉が現れる。饐えた葡萄畑の匂いの中に、新鮮な果実の香りが広がった。肉は、見知らぬ外界に脅える胎児のように、ぷるるるん、とひとしきり震えた後、すっかり皮を脱ぎ捨てた。中から現れたのは、やはり女だった。しかし薬の為に弱く黒ずんだ肌はもはや失せ、若く張りつめた、生命力にあふれた肉体がそこにあった。緑色の果肉と見えたのは、つやつやと身体を包み込む液体のせいだ。

 彼女の目にはもう狂気の色はない。むしろ、この世の全てを許す者のような神々しさがあった。

 声を上げることもできずに立ちすくむ追跡者たちの前で、女はそっと男に頬擦りをした。それから空を振り仰ぐ。

 歪んだ風が舞った。

 さら、さら。女が崩れてゆく。髪が、胸が、腹が、砂のように崩れてゆく。女の破片はきらきらと光の粒になって、散っていった。

 後には、綿のように柔らかな女の抜け殻と、男の死体が残された。男の顔に、深く深く海の底を想っているような、静かな瞑想の表情が浮かぶ。手には一房の葡萄が、とても大切そうに握られていた。


 了

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葡萄 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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