5.忘れ形見

「亡くなった? ヴァルドが?」

「はい、出張先で消息が絶たれておりましたが、今日、遺体がみつかりました」


 工場の仕事をしているとき、唐突に社長室に呼ばれ、そう告げられた。

 ヴァルドの会社に就職してから、ちょうど2か月が過ぎていた。


「あんなに生命力のありそうな方が……まだ信じられません」

「大きな地震に巻き込まれたのです」


 海を渡ってきた9月2日付の東京日々新聞を手に取った。


  東京全市火の海に化す

  電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶

  日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万


「関東大震災……」


 1923年。

 1923年か。

 たしかにこの年だ。

 これも習った年号だ。

 写真の下に刻まれた太字。

 教科書のレイアウトまで思い出せる。


 思い出していれば、行く前に伝えられたのに。


「社長は凌雲閣で取引先の要人といたのですが、関係者含めいずれも……残念です」


 秘書らしい年配の男性は、うろたえる私に同乗するよう目を細めたが、それから淡々と続けた。


 手が震えた。

 表情も隠し切れない。


 泣き出したり、取り乱したりするようなことはなかった。

 ただ、私の中に芽生えつつあった、自信と希望のようなものが、またすうっと消えていくような感覚があった。


 ヴァルドの笑顔。

 ヴァルドの声。

 私が死ぬことを考えていたときに、生きることを教えてくれた人。


 用意された椅子に落ちるように腰かけて、無意識に部屋を見回した。

 鮮やかな部屋だったのに、その色を感じることは、もうできなくなっていた。


 あのショートの灰色髪に、黒い服が似合う女性はどこにもいなかった。

 お金につぶされて、過去に飛ばされて、途方に暮れていた私をたった数か月間で作り直してくれた。

 何があっても、彼女のところに戻りさえすれば、あの陽気な笑顔が失いかけている自信を取り戻してくれるはずだった。

 毎日の単純作業も、彼女の下にいられる限り辛くはなかった。


 がらんとした社長室に、灰皿だけがおいてあった。

 ラッキーストライクの吸い殻が一本だけ転がっていた。


 目の前に居るこの男性に、自分が彼女をどう思っていたか、どれだけ語っても伝わることはないだろう。

 当たり障りのない挨拶だけして、ここを出ていこう。


「……私も失業ですね」


 とってつけたように言った。

 ところがそれを聞くと、彼はいいえ、と小さく首を振って話を続けた。


「いえ、そうではないのです」


 言いながら、彼は懐から装飾が施された封筒を取り出した。


「……遺書ですか?」

「ええ」


 封蝋はすでに破れている。

 中の書類を渡された。


「ヴァルド……コールハンマー氏の? 私のことが書いてあるのですか?」

「はい」


 また遺書か。

 この紙にはいい思い出がないのに。


 促されるまま開くと、そこには長い文章が綴られていた。

 二枚目に個人的なことという紙があり、宛名が私になっている。

 以前も見た、彼女の少しゆがんだ肉太の字が書かれていた。


「私に財産の一部を譲渡する代わりに、彼女のご子息の面倒を見ること……?」

「はい」


「ヴァルドに子どもがいたんですか?」

「はい、その後見になっていただけませんかという意味です。社長が旦那様を亡くされて以来、仕事で多忙で使用人が面倒を見ておりましたが、やはり女親に当たる者がいたほうが良いかと」


「は、はあ……?」


 狐につままれたような気分のまま、私は突っ立っていた。

 そこにドアを開けて、しくしくと悲しそうに男の子が入ってきた。

 服だけは立派だが足取りはたどたどしく、五歳くらいに見えた。


 なんと声をかけようか迷ったが、彼は私のところに寄ってくると、お母さんが死んだよう、嫌だようと私の膝にしがみついた。


「彼のお名前は?」


 秘書に聞いたが、男の子が先にすすり泣く声を抑えて答えた。


「僕、カイです」

「カイ……」


 曾祖父の名前だった。

 遺産を残さなかった、私の曽祖父の。


 会ったことは多くない。

 ただ、覚えていることもある。

 印象的だったのは灰色の目。

 そして灰色の髪。


 この目の前にいる少年と、全く同じ色をしていた。

 ヴァルドから引き継いだ……

 

 私の曽祖父はカイ・ニシノだ。

 カイ・コールハンマーではなく。


 ではニシノという姓はどこから来たのか。

 

 カイの手を握った。

 ヴァルドと同じようにしっくりくる、不思議な親近感。

 ヴァルドに会ってからずっと感じていた……


 私の養子になれば、彼はカイ・ニシノになる。


 ヴァルドが以前日本へ行ったとき。

 彼女は神社で願掛けをしてきたと言っていた。


 自分に何かあったときに、子孫が助けに来てくれる。

 それは代々続く……


 もしかすると、あのお金も私の子孫から来たものなんだろうか。

 次に生まれる私が、あの世界で家族を作るのだろうか。


 もしそうだとすると……


 私は、カイを救うためにここへ来たのだろうか。


 ヴァルドの願掛けは、全て期待通りにうまくいくわけではないらしい。

 神様が私たち一族にもたらしてくれる恩恵は、本人の望むベストタイミングでくるわけではないようだ。

 少なくとも、ヴァルドは自分の命を守ることには役立てられなかった。


 そう考えると、お金が降ってくる時も、その使い方も、知恵や勇気が伴わないと無駄になる大きなギャンブルのきっかけでしかないのかもしれない。


 もし私があのお金につぶされ、死んでしまったら。

 私がヴァルドに出会えなかったら。

 出会えたとしても、あの使い道を思いつかず、私と決裂してしまったら。


 そうした可能性もいくらでもあった。


 でも、と私は思う。

 私たちの努力次第で、願掛けを生かすことはできるのだ。


 世界は、一筋縄ではない。

 ヴァルドのような力強い人でも超常的な力に願いを込めたくなるほど、過酷で予測できない。


 それでも、些細なきっかけであっても、今の私なら役立てられそうに思う。


 自分の中に、不思議なほどの活力が満ちている。

 頑張れ、頑張れという、先祖から子孫に至る全ての肉親から、力強い応援を受けていることに気づけたから。


 この数か月の戸惑いが、この少年の存在ですべて決着し、そして、私は今、自分が何をすべきなのか、はっきり理解できている。


 あれだけ何もかもどうとでもなれと思っていた自分が、こんな大きな責任を渡されても、それは新しい一歩だと感じられている。


 カイの目をのぞき込んだ。

 ヴァルドのように。

 彼は戸惑いながら、私に話しかけた。


「ニシノさんですよね。お母さんから聞いてます」

「ユキコって呼んで」


 嗚咽を抑えながら、カイがつぶやいた。


「いいんですか?」

「ええ。親しい人は名前で呼び合うものよ」


 私が言うと、彼の目に溜まった涙は少しずつ消えていった。


 やってみよう。

 これからは彼と二人で。


 未来の可能性を信じて、自分の全てを捧げてみよう。


 そして、次のユキコ・ニシノが生まれる時まで生きていられたなら、そのときはきっと伝えてやろう。


 あなたは立派に生きていけるのだと。

 人生を切り開く力があるのだと。


 ヴァルドのような力強い声と、芯を感じさせる微笑を添えて。


【おわり】

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ワイマールへ行きて生きよ 梧桐 彰 @neo_logic

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