4.あのころ

 空になったワインをウェイターが運んでいき、ベーコンと玉ねぎを牛肉で巻いたビーフ・ルーラーデンというドイツ料理も皿から消えた。


 女二人、レストランで隣同士に腰掛け、テーブルの上に置いたノートを見つめる。


「どうだい、この小生の読みは!」


 ゼロがたくさん並んだその帳面をパシッと指ではじき、彼女が得意そうに片目を閉じた。


「にわかには信じがたいけれど……本当にこの国は通貨に餓えてるんですね」


 あれから数ヶ月。

 社会はまだまだ混乱の極みだった。

 だが、そこに乗じた彼女の作戦は見事に当たった。


「必要なところに必要なものを持って行く。これが商売の極意さ」

「見事ですよ、ヴァルド」


「ようやく小生を名前で呼んでくれるようになったな」

「それだけ呼ばないとダメだと言われたら、もう断れません」


「もう一度言ってくれ」

「用もないのに言いませんよ」


「そこを頼んでいるんじゃないか」

「わかりましたよ、ヴァルド」


「結構だ。君の市民権も稼いだ金とどさくさのおかげで登録できた。君も日系ドイツ人として、堂々たる第二の人生を歩んでくれたまえ」


 パイプをくゆらせるヴァルドの得意そうな微笑。

 心を落ち着かせる声。

 動乱のさなかにいると感じさせない、芯を感じる彼女の気配。


 私に足りなかったものを与えてくれたヴァルド。

 友情を感じさせてくれる、たった一人の仲間。


「あの通貨が出回れば、滞っていた売掛金の回収もできる。君も自分の取り分を使って、商売でも初めてはいかがかな」


 コーヒーカップを小さく揺らし、上目遣いに私を見つめてくる。

 変わらない抜けるような笑顔を添えて。


 きれいな人だよな、と思う。


 私はこの人が好きだ。

 安っぽい好奇心やとってつけたような同情を感じさせない。

 ただただ、行動を通じて、私との関係を育んでくれた。


「やれればそうしたいですけど、私に商売は無理ですよ」

「ではお金を貸してみてはどうかね。利息をつけて回収できるぞ。たとえばこの正直で知的で美しく、並々ならぬ商才に溢れたこのヴァルドルーデ・コールハンマーを最初の客にしてみるというのはどうだ?」


 私の肩を抱いて笑いながら言う。

 こちらも肘で彼女をつつきながら笑った。


「あなたのように、将来を見て生きられる性格だったら考えましたけどね」


 言いながら、以前の自分を思い出して小さく苦笑した。


「君の時代では、君は楽しくなかったのかね、ユキコ」

「ヴァルド、その話はよしましょう。前にも言ったじゃないですか」


 そう言って彼女の頬を手のひらで押したが許してくれない。


「そろそろ、もう少しそこを聞かせてくれてもいいじゃないか、ユキコ」

「名前を呼べば親しくなる、それはわかりましたよ」

「納得いただけたということかな」


 押しが強いなあ。


 でも、そろそろそういう時期なのかもしれない。

 正直に言おう。

 誰にも言えないまま、心の底を腐らせたまま生きるくらいなら。


「そんなに、難しい話じゃないんです」


 そう前置きをして、私は小さく息をついた。


「おじいさんが……もっとちゃんと言うと、曾祖父が亡くなったんです」


 下を向かずに話し始めた。

 本当のことを。


「ほう……しかしなるほどといいたいが、身内の死が悲しいにしても、曾祖父ともなると高齢だろう。いくら未来の医療が進んでいようと、亡くなるのも当然では?」

「遺産がもらえるはずだったのです」

「うむ?」


 ヴァルドは肩に回した手をとくと、深く掛けなおして足を組んだ。


 この人になら、何を話してもこの微笑に溶かしてくれるかもしれない。

 それに、もうあの時代のことは私にとって小さなことになっていた。


「曽祖父はドイツで事業をやっていて、私も幼い頃は父や祖父と一緒に、長くデュッセルドルフにいました。ドイツ語を覚えたのもその時期でした。

 その後、曽祖父以外は私を連れて日本へ行ってから相次いで亡くなったんです。


 遺産があることを知ったのはその時期でした。

 当時の私は学生でしたが、当然のこととして、私はそのお金を得られると思っていました。ところが曽祖父は、私に一円もくれなかったということですよ」


「切ない話だ。お爺さんは愛人を後妻にでも貰ったかね?」

「いえ、生前からなぜか災害の話ばかりしている人だったのですが、被害者に全額を寄付したのです。ご存じないと思いますが、1万人が亡くなった東日本大震災というのがありまして」


「震災……つまり、地震かね」

「そうです」


「なるほど。立派な御仁だな。なんとおっしゃるんだ」

「介ですね。西野介」


「ほう……?」

「どうかしたんですか」


「カイというのは、日本人には多い名前なのかな」

「どうでしょうかね。古い人だとあまり多くはないような。まあでもいますよ。それで、彼は世の中にとっては立派な人間だったのは確かです。でも私には恨めしかった」


 コールハンマー氏が置いたパイプから漂う煙を眺めて息をついた。


「私は当時、そのお金を当て込んで、ほとんど働いていなかったんですよ。もらえないと分かった時の絶望感はひときわでした。

 もちろん、私が悪いといえばそうなんですけどね。それでも思っていた予定が狂うというのは、なかなか堪えるんですよ」


 言いながら、私はずっと昔のことを思い出していた。


 記憶の中の私は、新宿のファミレスに座っていた。

 周囲にだれがいたのかも思い出せない。

 中身のない話をだらだらと繰り返していた。


 高校を出てから、進学せず定職にもつかずに遊んでいた私と違い、周りの子たちは服が少しずつ変わっていった。

 化粧をして、彼氏を作り、仕事について、ファミレスからいなくなっていった。


 最後まで残った一人も、私がドリンクバーからメロンソーダを持って戻ってきたとき、先に帰ると言って小銭を置いて、それ以来会っていない。


 誰もいなくなったテーブルの隅に一人でいた。

 その時に、携帯に国際電話が届いたのだ。


 そこから先は、毎日毎日、同じことの繰り返しだった。


「気持ちはわかるが、しかしその後になって金が天から降ってきたのだ。よいじゃないか」

「まあ、そうですけどね!」


 ふと、自分が笑顔になっていることに気づいた。

 あのファミレスでの時間を過ごしてから、私は何年も笑ったことなんかないような気がしていた。

 金を得そびれて、それをまた失い、それでも笑っている。

 そこがさらにおかしかった。


「君から見たら随分減ったかもしれないが、それでも手元にいくらかは入ったじゃないか。余生がなんとかなる程度には」

「どうでしょう。ここでやっていくのも悪くないかもしれません。あなたがいますし。生まれ変わったとでも思ってやっていきますよ」


「だったら生まれ変わりついてでだ。私のところに勤めないかね? 重役候補の待遇を用意するぞ。女所帯の会社で大成功し、世界の度肝を抜いてやろうじゃないか」


 すぐにそう言ってくる。

 でも、これだけ繰り返してくれるし、もうここでの人生はこの人に委ねていくのもいいのかもしれない。


 今までは、この人の逞しさのわずかでも自分の中にあれば、もうちょっと人生を楽しめたのにと思っていた。

 でも違う。

 今からでも遅くないのかもしれない。


「まずは社員で結構ですよ。下働きから勉強させてください。やる気も出てきましたし、お願いします、ヴァルド」

「改めてよろしくだな、ユキコ」


 ヴァルドが差し出してくる手を握り返した。

 自分の手のようにしっくりくる握手だ。

 なんとなく、この人とうまくやっていけそうに思えた。

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