3.補完通貨ノートゲルト

「ノートゲルト……なんですか、それ」

「簡単に言えば、通貨を勝手に作るんだ」


 私はその単語をレストランから帰る馬車の中で知った。

 ガタゴト、ガタゴト、柔らかい椅子を使っているのに、乗り心地は最悪だ。

 

「ニセ札ですか?」

「いや、微妙なところでだね。ニセ札といえばニセ札だが、本物といえば本物とも言える。しかしそのためにはまず、このドイツが先の戦争後にどうなったかを話さなければならん」


 コールハンマー氏は馬車の椅子に深くかけ直すと、両手を組んで目を閉じ、それから数年前の戦争のことを話し始めた。


 1914年から1919年までの五年間の戦争。

 第一次世界大戦だ。

 もっとも「一次大戦ですね」と言ってしまうと、じゃあ二次大戦があるのかと聞かれてしまうので、黙っていたが……


 コールハンマー氏は戦争の経緯をかいつまんで話し、続いてドイツとオーストリアが帝国から共和国になったというところまでを続けた。


 ボスニアでオーストリアの皇太子が殺されて開戦。

 英仏露と渡り合った東西の戦線、新兵器の戦車やUボート。

 そして同盟国のトルコとオーストリアが敗れ、皇帝ヴィルヘルム2世が退位、停戦協定とヴェルサイユ条約……

 細部はしらないところもあったが、そんなものだったかなと黙って聞くことにした。


 そして、いよいよ通貨の話が始まった。


「ということでだね。このドイツ国内では戦争に負けて以来、ライヒスバンクという中央銀行ではなく、銀行や自治体、ばかりか民間企業が紙幣を作っているのだよ」


「それはわかりました。でもその会社は許可をもらって印刷してるんでしょう?」

「いや、君の目にはいささか奇妙に見えるかもしれぬが、これは法定貨幣ではない。便宜的に使用される緊急の補完通貨なのだ」


「補完通貨……」


 なんだか体よくごまかして犯罪に巻き込もうとしているんじゃないかと、私はわざとらしく不満そうな顔を見せた。

 それでも彼女の話は止まらない。


「インフレーションというのを知っているかね。ドイツは敗戦で多額の賠償金を支払う取り決めがかわされた。戦時中から悲惨な状態だったが、戦争賠償を支払うため、さらに大量の紙幣を発行して外貨を購入しなければならなくなった」


 聞いたことはありますよ、と答える。

 コールハンマー氏は大げさに喜んで続けた。


「これでマルクの価値は地に落ちた。それでも対戦相手だったフランスはこれを認めなかった。マルクの為替相場は暴落の一途だ。さあどうなったと思う」

「そんなことを言われても」


 じらさないでほしい。

 こちらも一応、聞く気にはなっているのだ。


「強硬な態度を取るフランスは、ベルギーとともにルール工業地帯を占領した。これに対しての抗議として、ドイツは賠償の支払いも石炭の提供も拒否して業務を何もしないようにと労働者たちに伝えた。ストライキというやつだ」


「そんなことをすれば、フランスは怒って労働者を殺してしまうんじゃ?」


「そうはいかん。働いてもらうために占領したんだからね。だが労働者も働かねば飢え死にだ。そこでドイツはルールの労働者に金を渡した。こうして政府はまたも紙幣を増刷し、ドイツ中に紙幣が溢れかえることになった。今、1米ドルは4兆2105億マルク」


「兆?」


 びっくりして聞き返した。走る馬車まで一緒に跳ねたような気がした。


「その通り。こうなると額面の大きな新しい紙幣を常に作っていかなければならず、印刷局の輪転機がいくつあっても足りん。直属の工場はすでに回りきらず、補助の印刷所も常時稼働だが話にならん。そこで出てきたのが」


「臨時の通貨。つまりそのノートゲルト、というわけですか」


「その通りだ」


 パチンと両方の指を鳴らして女社長が言った。

 興奮気味に話す彼女に、私も頬杖をはずして耳を傾ける。


「つまり小生は、この札をノートゲルトとして使えないかと考えているのだ」

「できますかね?」


「共和国は極めて逼迫した状況にある。喉から手が出るほど紙はほしい。しかもこの1億円札とやら、実に美しく、また精緻な印刷だ。このまま使えるに決まっているさ。私たちがこれを着服しなければそれでよいのだよ」


「にしたって、元々の価値からすると冗談みたいに低くなりますね」

「今のままならただの紙だ」


 それもそうか。


「それにしても今更だが、なぜ降ってわいてきたのかね」

「さあ……死ぬか金か。そんなことばっかり考えていいましたからね。神様か何かが、金でも食らって死ね、とおっしゃったのかもですね」


「穏やかならんな! 死にたかったのかね」


 そう言うと彼女は興味深そうに私へ目を向けて顔を寄せた。

 灰皿から立ち上る煙が彼女の声に揺れた。


「しかし神は慈悲深い。君は生きている」

「100年前には飛ばされましたがね」


「死ぬなんて言うもんじゃない、やり直すチャンスをくれてやる。そういうメッセージかもしれん。私はこう見えても信心深いから、そう考えたいところだ。なにしろ小生もそういうものにすがりたいと思ったことがある」

「そうなんですか? 神頼みとか似合いそうにないですけどね」


 そう聞くと、彼女は大きく首を横に振った。


「若い時分に読んだ、スペインのリンバウという人の『時間遡行者』という小説があってね。ガルシア博士という人が過去の世界を旅行するんだが」

「なんだ、お話ですか……」


「いやいや、真に迫った面白い小説だったよ。それを読んで以来、私の先祖はずいぶん苦労したと聞いたので、救いに行ってやれたらと思い続けていたのさ」


 なぜか彼女は急に話へ熱を入れ始め、響く車輪の音に負けない声で続けた。


「今あなたがいるんだから、少なくとも子孫は残せてるじゃないですか」

「それでも幸福でなかったなら、やはり気にはなる」


「そんなものですかね」

「そうさ。それで以前、仕事で日本に行ったとき、神社というところで祈願ができると知った。そこで何かを犠牲にすれば救いがもらえると聞いてね。先祖を救えるものなら救います。その代わりに窮地に陥った時には、子孫に助けてもらいたいと祈ってみたんだ。子々孫々に至るまでね」


 いきなり神道の話が出てきて何かと思った。

 断ち物とか苦行とかのことだろうか。


「そんな形の祈祷はあまり聞いたことがないですね。先祖を助けるとか子孫に助けてもらう話は、私の時代にはたくさんありますけど」

「いつの時代も人の考えることは似たようなものさ」


 パン、と彼女は白い手袋を合わせてこの話はここで中断だと示し、私にすっと人差し指を向けた。


「ともかくだ。君へ舞い降りた天恵は私にとっても天恵だ。どうせそのままでは無価値と言っていたくらいだ。これを譲ってくれれば利益を半分君に渡そう。どうだ?」


 コールハンマー氏が私の目をのぞき込む。

 さっとそらす。

 下からのぞき込んでくる。

 逃がしてくれない。


 やれやれ。

 こんな状況だし食事まで奢ってもらったし、答えなんか選べないよ。


「まあ、なんでしょう。ほかにできることもないし、乗りかかった船ですし。わかりました。いいですよ。手伝います。あの紙切れをノートゲルトにできるように」


「結構!」


 彼女が叫んだところで馬車が止まった。

 さあ会議の続きだぞと肩を抱かれ、彼女の家へと導かれた。

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