2.ベルリン、1923年、灰色の髪の女
ヴァイマル共和国首都、ベルリン。
それが私のいるところだそうだ。
1923年。
それが私のいる年代だそうだ。
「いやあの」
途方に暮れ、手を振りながら彼女の話を遮った。
「混乱しているのには同情するが、小生は極めて正直に申し上げているんだぞ。なにしろ君をからかう理由は何一つないからな」
大きな声で笑いながら、彼女の視線が私を抑え込む。
こんなに笑い声を聞いたのはいつ以来だろうと思うくらい笑う人だ。
こちらも質問を続けたかったが、その声に押されて言葉が出なかった。
身を固めていると、彼女は私の目の前に唇を寄せ、それからすんと息を吸った。
「変わった香りだ」
「な、何をするんです?」
「東洋人にも大金にも巡り会うのは初めてじゃない。だが未来人に出会ったのは初めてだ。あまりにも光栄すぎて、少しどんな匂いがするのか興味がわいてね」
「シャンプーですよ。単なる」
「未来の香りがする」
正確に言うとシャンプーではなくコンディショナーなのだが、なんとなく通じそうにないのでそういった。
幸い意味は伝わったようで、彼女は満足そうにまた深く腰を下ろした。
馬鹿にしているわけでもなく、本気で信じてくれてはいる。
が、いちいち不安になる私を見ては楽しそうに目を丸くするこの態度になかなか慣れない。
「時間を超えることがあり得ると思ってます? 本当に?」
「昨今、ついに人が空を飛ぶようになった。時間を飛ぶことも将来はできるのだと言われれば、そんなものかとも思う」
空を。
人が空を飛んだ、というのは、飛行機ができたということか。
ライト兄弟が飛行機の実験に成功したのは、たしか1900年くらいだったはずだ。
学校で習った話とは一致していた。
高校の頃はそこそこ世界史が得意だったから、なんとなく話はわかる。
「なんにしても、よく話を丸呑みした上に、あんな量を持ってくる気になりましたね」
「素晴らしい印刷技術だからな。現行の紙幣でないのは明らかだが、捨て置くのは惜しい。時間を飛べなくても、小生にも馬車を何十往復させる程度ならできる」
「あなたはお金もちなんですか?」
「左様、小生は金持ちだ。だが金というのは魔物でな。なかなかこれで足りたとは思えないのさ。そういう人にうってつけのおもちゃだよ、あれは」
二人でグラスワインの向こう、広間を埋め尽くす、巨大な直方体へ目を向けた。
「10億円と書いてある紙が500万枚。額面通りなら5000兆円」
「3束くらい見ず知らずの人に抜かれましたけどね……」
「なんと。では3000億円の損失だな。君の時代だと何がどれだけ買える?」
「さあ……適当ですけど、百人住める家が百棟くらいですかね」
「大事件じゃないか。張り倒してでも止めるべきだったね」
彼女は再び目を細め、心底楽しそうな顔を見せた。
口は達者で迫力のある美人。
気も強そうだけど、なぜか笑顔だけは屈託がない。
私へ向けてくる態度は、以前からの友人へのもののようだ。
「あなたは貴族とかなんですか……? いや、貴族はもういないんですかね。共和国ですし」
「左様。ホーエンツォレルン家プロイセンが滅びワイマール共和国が発足した1919年。貴族制度は消滅し、この国から差別は消えた」
「あなたは貴族だったのですか?」
「いいや、実業家だ。生まれも育ちも」
「この時代で、女性なのに」
「これからは女性の時代だ。自覚はないかもしれないが、君は女性の時代を生きているはずだ」
いや、100年後もさっぱりですよ?
とは言わないでおいた。
「それにしても、小生はこんなに君に興味があるのに、君はそうでもないのだな」
「ありますけど、どこから聞けばいいやらで」
「何を聞いてもいいじゃないか」
「何を聞いてもいいんですか?」
「何を聞かれても答えるさ」
「お名前はなんとおっしゃるんですか?」
そう聞くと、彼女はそれまでの余裕に満ちた微笑をやめて、一瞬だけきょとんとしてから、今度はくすくすと小さな声を出した。
表情のパターンが多い人だ。
彼女は巨大な万年筆を取り出してさっと紙の上に走らせ、青く塗った長い爪で挟むと音もなくさしだした。
少しゆがんだ、大きな肉太のサインが書かれていた。
「ヴァルトルーデ・コールハンマーだ。面白い客人を招くことができて光栄だ」
「私には面白くもなんともないですけどね……」
差し出された白い手を握り返しながら言った。
「君の名前はなんというのかね?」
「西田行子です」
「ユキコ・ニシダ。ご出身は」
「東京の足立区というところです」
息をつく間もなく、次々にいろんなことを聞いてくる。
私がひとつ質問する。
10個以上の質問が返ってくる。
私たちの会話はその繰り返しになった。
「世界の文明は大きく進んでいるかね」
「どうですかね。考えたことないんですよ」
「そんなものかなあ。小生が過去に飛ばされたら、意気揚々とその時代を誇らしく語るところだがなあ」
「そんな自信のある生き方をしてこなかったので……」
「何をして生計を立てていたのかね」
「失業してました」
それを聞くと、ほうと興味深そうに彼女は目を丸くした。
「なんだ、100年後なら働かなくても食べられるのかと思っていたのに。現実は厳しいな」
「まあ私には。いや、結構周りを見ても厳しい世の中だったような……どうなんでしょうかね。まあ楽しくはなかったですね」
言っていて、自分でもみじめな気分になってくる。
せめて、あのお金がこの時代のものだったらよかったのにな。
縁のない土地の見たこともない家の椅子に腰掛け、深くため息をついた。
「吸うかね」
女実業家が紙巻きをテーブルの上に置いた。
首を横に振った。
「では失礼。小生は重度のニコチン中毒でね。これがないとどうにも具合が悪くてかなわないんだ。最近、米国ではラッキーストライクなる紙巻きが出たらしく嗜んでみたいのだが、なかなか手に入らない」
興味もない話題だったから、手だけを差し出して返事にした。
このめちゃくちゃな現象の前には、多少煙が漂っていようが気にもならない。
願いは叶った。
金は手に入った。
人生も大きく変わりそうだ。
だが、望んでいた話と違う。
お金が降ってきたのはいいけれど、過去に飛ばされるとはどういうことなんだ。
普通のフィクションならどっちかだけだろう。
神様に『金ならくれてやるが、それでうまくいくと思うな』と言われた気分だ。
その私の思いなど霞ほども気にすることなく、コールハンマー氏はタバコをくわえながらお札の束を興味深そうに眺めた。
「この人は誰かな」
「大隈重信と書いてありますね。私が名前を知ってる程度には有名人ですよ。もしかしたらまだ生きてるかもしれません」
「日本の早稲田大学を作った方ではないかね?」
「……そうですけど、ずいぶん詳しいですね。なんでそんなこと?」
「先ほども話したが、私は東洋に縁があってね。経営している会社の支店があるんだ。幸いにして、戦災にあえぐこの国でも比較的なんとかやっていけている」
「お仕事、何なさってるんでしたっけ?」
「貿易だよ。駆け出しの身分だが、いちおう企業を経営している」
商社の社長か。
そう聞くと、なんとなく裕福そうなのもわかる。
二一世紀だと卸売りはネット販売に押されがちなイメージだけど、このころはなんか豊かそうというか。
「何を売ってるんですか」
「絹糸だ。日本の話をすると、最近は
グンゼというのはあの下着メーカーで、富岡製紙というのはあの女工さんが泣きながら働いてるやつだろうか。
テレビとか学習マンガとか、そんなので目にしたことがあるようなないような単語にいちいち反応してしまう。
「そんなわけで、小生の商売にいくらかでもヒントになることがあるかもとは思っていてね。未来人ならいろんなことを知っているはずだ。その記憶をすっかり吐き出し、残しておくのは君の責務で、同時に私の利益にもなると存じるがね」
「いやま、それはかまいませんよ。かまいませんけどね、私が知ってることなんてすごく限られますよ」
「それでもかまわんさ。なんであれ、あとで当たれば千里眼あつかいだ」
「まあそんなのでいいなら。あんな無価値な紙の束よりはマシでしょうしね」
言って、親指で後ろの札束を指さした。
「無価値?」
「いやだって、この時代のお金じゃないですし」
私の時代でもないけどな。
思って実業家に上目遣いを向けた。
ところが彼女は私の瞳孔めがけてはっきりした視線を返し、今まで以上に穏やかな微笑を見せた。
「それは心配いらないよ。あれはあれで、すぐ意味を出せるさ」
「意味? どんな?」
コールハンマー氏は吸殻を大理石の灰皿に押しつけると、おもむろに背もたれに体をあずけ、細く長い煙を吐きながら言った。
「小生にはもう目星がついている」
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