ワイマールへ行きて生きよ
梧桐 彰
1.夜の出会い
広場にいた。
夜の広場だ。
地面の冷たさが背中に広がっていた。
なんでこんなところに?
記憶を探ってみる。
大量の札束に押しつぶされたはずだ。
アスファルトの上を歩いていたときに。
その時は……朝だった。
全部違う。
驚いて、自分の体を見回してみた。
腕が二本、足が二本で身なりも一緒。
ろくに梳かしてない髪も、あか抜けない普段着も。
生きてるし、怪我もしてない。
でも、どこなんだろう、ここは。
右手に見慣れない建物があった。
石造りの壁だ。
錆びついた金属の門につながっている。
バロックだかゴシックだかいう、観光地にある教会みたいな作りに思えた。
洋風の建物が私の視界を埋めて連なり、端に巨大な時計がある。
短針はⅩを少し過ぎていて、やはり夜なんだな、と思った。
どういうことか全くわからない。
小さく息をついて石畳を見つめる。
それから急に顔を上げ、慌てて周囲を見渡した。
そうだ。
あのお金、どうしたんだろう。
左右に首を振る。
真後ろにあった。
紙の輪で止められた札束が、冗談のように積みあがっている。
「あるんだ」
誰に言うともなくつぶやいた。
肩が痛むのは、多分この紙の山から転げ落ちたからだ。
どうしよう。
これ持ってればとりあえずなんとかなるだろうけど、それにしても。
まず、どうやって持っていこうか。
誰かに頼むべきだろうか。
盗まれるかも。
いや、これだけの量だし、少しくらいいいか。
いくらかでもまずは手元にあれば……
立ち上がって周囲を見回した。
全く人がいないわけじゃない。明るい通りに目をやると、雑踏が見えた。
しかもこちらから声をかけるまでもなく、遠巻きに見ていた中の幾人かが集まってきている。
その中の何人かが私を見て人差し指を向けていた。
「あの……」
少し距離があるけど、しゃべろうと思った。
けれど、なんだかうまく声が出ない。
手を振り回すと、男がまとまって近寄ってきた。
やがて、体の輪郭がはっきり見えるくらいになったとき、私の正面にいた男が、やけに低い声でつぶやいた。
「女だな。おい、中国人か?」
どきっとして身を引いた。
しまった。
声かけちゃダメなタイプの人たちだろうか。
寄ってきたのは三人とも男だ。
一人はカートを引いていて、その上に五つくらいトランクを重ねている。
それを石畳の上で引いているのでやたらにうるさかった。
服は私より古く粗末で、どう見てもまともそうじゃない。
「おい、そいつは金か?」
「いや、その……」
私がどもりながら腰をひいたところで、別のひとりが声をかけた男を制した。
「よせよ、浮浪者だろ」
なんだって。
そっちのほうが浮浪者みたいなくせに。
言い返したかったけれど、あまりにも相手のガラが悪い。
言って殴られでもしたらバカみたいだ。
「どういうこと……」
どなりつけたい気持ちを抑えて聞いたけれど、男たちは無視して両脇をすり抜けていく。
そうか、こいつらは私を見てるんじゃない。
用があるのは札束のほうだ。
あわてて、私も転がっている一束を拾い上げた。
が、そこで、これまでとは別の驚きが重なった。
「なんだ、これ……」
ゼロの数がやたら多い。
暗がりでよく見えなかったが、万札にしてはケタが多すぎる。
男たちはそれを次から次へと手に取っていたが、やがて眉間にしわを寄せると、低く鼻を鳴らして投げ捨てた。
「こいつは中国の金か?」
一人が私に向いた。
「知らない……」
「知らねえだと?」
「やめとけよ。こいつもくすねに来たんだろ」
彼らはかかえた札束を石畳に投げつけると、唾をその一つに吐きかけた。
「どうする」
「いらねえよ」
「一束くらいもらってもいいじゃねえの」
「こんなの見たこともねえぞ」
「持っていくだけ持っていこうぜ、両替屋によ」
「だったら全部だろ」
「多すぎたら怪しまれるだろ! 第一こんなに持てるかよ!」
彼らはめいめいに鼻を鳴らすと、それぞれ一束ずつをポケットに入れて、壊れかけのキャスターがついたカートをガラガラ引いて消えた。
街灯がほとんどないせいで、姿はすぐに見えなくなった。
「なんなんだ」
絡まれなくてよかったけれど、なんだか荒っぽい人だったな。
思いながら、目の前の紙幣を拾い上げた。
一つだけ建物の門に点いていた明かりの下でそれを掲げてみる。
透かしがある。
パラパラパラと束を鳴らしてみると、記号も全部違うようだ。
でも、肖像画の下には大隈重信と書いてあった。
「うーん」
ニセ札なのか、おもちゃなのか。
子どものゲームかなんかだろうか。
「10億円札?」
なんだ、これ。
バカにされてるのかな。
なんかそんな気がする。
確かに無職で半分引きこもりだし、文句は多いし、大して美人じゃない。
性格も悪いし彼氏もいない。
でも、こんなわけがわからないことに巻き込まれるような悪いことをした覚えはないぞ。
冷たい空気に包まれた巨大な紙の山を見つめながら自問自答した。
その札束をバタバタと鳴らす風と一緒に、誰かの声が届いた。
「それは君のお金かね?」
ぎょっとして振り返った。
真っ黒なコートの上にもう一つ、マントのような上着をかけた女が立っていた。
背が高い。
かすかな明かりに照らされた短い灰色の髪が、私の視線よりもかなり上にあった。
「いえ、私のじゃ」
ぎょっとして身を引きながら、白い息を交えて答えた。
それを見ながら女性は私の足元にかがみ、落ちた紙幣を手に取った。
ペパーミントのような香水が私の鼻をくすぐった。
「小生は青島にいたので漢字に馴染みがある。これは中国か日本の紙幣では?」
立ち上がりながら、紙幣を突きつけて彼女が言った。
口調は男性のようだが、なんとなく育ちの良さが伝わってきた。
そしてこの時。
突然、彼女が話しているのは日本語ではないことに気がついた。
ドイツ語だ。
それも現代のものではなく、少し古いドイツ語のように思えた。
そして同時に、私も日本語ではない言語で話していたことに気づいた。
私はこの言語で育った時期がある。
重なりに重なった唐突な事態に頭がついていかなかったが、私はさっきから、ドイツ語しか使っていなかったのだ。
「さて。見ず知らずの大富豪君」
彼女が勢いをこめて話しかけてきた。
「君とは是非、深く話をしなければならないな」
「なんの話があるんです?」
「これから決めるのさ。君と二人でね」
しっかりとした灰色の瞳が私を捕まえる。
返事を待っているのだろうが、そうですねとも言えない。
何度か言いよどんでから、細く返した。
「いや、急にそんなことを言われても」
「言わずにいられるか。この紙の山に面白さを見いだせないほど、小生は鈍い女じゃないんだ」
女は微笑をたたえた顔を、私の唇の手前まで近づけてささやいた。
その声の独特な響きに、ここが現代ではなく、日本でもないと改めて理解した。
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