第40話 ステップ・バイ・ステップ
夜、僕は綾さんに電話をかけてみた。
綾さんの様子をうかがってみて、機嫌が良さそうなら、梨華さんから聞いたリハビリセンターの話を提案してみるつもりだった。
「もしもし、綾さん」
「律くん、どうしたの? 私の声が聞きたくなっちゃった?」
スマートフォン越しに聞こえてくる綾さんの声のトーンは明るい。この調子なら、今夜、切り出せるかもしれない。
「実は、今日、駅前の本屋に行って」
「そこで梨華ちゃんに会って、一緒にお茶したんだってね」
「え? なんで知っているんですか?」
「瞳ちゃんといい、梨華ちゃんといい、律くんモテモテだねえ。二人とも可愛いもんね。そんなに私以外の女の子とお茶したかったんだ。さぞ楽しかったんでしょうねー」
……あれ? 綾さん、すごく機嫌悪くない?
夏の盛りだというのに、冷や汗がたらたらと垂れてきた。
「誤解ですから。黒木さんとはたまたま一緒になっただけで」
「たまたまで、一緒にお茶までするかなあ?」
「……すみません。以後、気をつけます」
スマートフォンを握りしめ、張りついた笑顔で僕と会話を交わす綾さん。そのこめかみに、怒りのマークがくっきりと浮かんでいそうだ。
別にやましいことがあったわけじゃないし、自然な成り行きでそうなっただけなのだけど、綾さんがこれ以上むくれてしまっては大変だ。ここは一旦引くのが得策だろう。
すると、綾さんがぷっと吹き出した。
「嘘うそ。ごめんね。ちょっとからかってみたかっただけ。別になんとも思っていないよ」
「ほんとうですか? 実はめちゃくちゃ怒っていたりして」
「疑り深いなあ。梨華ちゃんから聞いたよ。私の病気のこと、いろいろ調べようとしてくれていたんだってね。ありがとう」
「いえ。僕にもなにかお手伝いできることはないかなって」
「……私、リハビリ受けてみるよ」
僕が提案するより先に、綾さんのほうから切り出してくれた。
「ママとも相談したんだけどね、今通っている総合病院以外にも、セカンドオピニオンを持っておくのもいいかもしれないって話になって。とりあえず、梨華ちゃんに教わったリハビリセンターに一度行ってみるよ。そこで相性が良さそうなら、続けてみるつもり」
僕はホッと胸を撫で下ろした。
これで手術せずとも綾さんが快方に向かうのなら、他に望むものはなにもない。
「それと、ごめんね、律くん。この間は律くんに当たっちゃって」
「大丈夫です。僕は少しも気にしていませんから」
「でも、私は気にしているよ。この先だって、病気のことで律くんにいっぱい迷惑をかけるかもしれないよ。……それでも、いいの?」
「なにがです?」
「ほんとうに私が律くんの彼女で」
「なにを今さら。僕には綾さんがいいんです。僕の彼女は綾さん以外には考えられません」
「……ありがとう、律くん」
綾さんが思わず涙ぐむ。
僕はまた綾さんを泣かせてしまっただろうか。
でも、嬉し涙ならきっと許してもらえるよね?
その後、綾さんは月に何度かリハビリセンターに通うことになった。
「リハビリの先生が言うにはね、筋肉が衰えているんだって。だから、適度に運動したり、後でほぐしたりするといいみたい」
綾さんは今日もうちに遊びに来てくれた。
おかげで、今僕は狭いソファに綾さんと身を寄せ合って座り、一緒にゲームを楽しんでいる。
僕の家には綾さん専用のマグカップや食器が増えた。
そんな些細なことが、僕にはちょっと嬉しかったりする。
「じゃあ、僕と運動しますか? 僕も綾さんのリハビリを手伝いたいです」
「えー、この夏の盛りに運動するのはさすがに嫌だなあ」
「でも、うちでゲームしてばかりしていたら身体に悪いんでしょう? 外に出ましょうよ」
「もう、ママみたいなこと言わないで。家でもできる簡単なストレッチならしているから、大丈夫だよ」
「ほんとかなあ」
「それとも、律くんが私の足をマッサージしてくれる?」
「えっ?」
思わず視線を下げ、清楚なワンピースに包まれた綾さんの太ももに目をやる。
マッサージとはいえ、綾さんの色白の美脚にほんとうに触れてもいいのかな? ちょっと変な気分になりそうなんだけど。
「律くん、なに赤くなってるの?」
「い、いえ。別に」
「もしかして変なこと考えてる?」
「まさか」
「ふぅん。律くんのえっち」
「だから、そういうことは考えていませんって」
「うふふ、冗談だよ。そのうちお願いするかもしれないから、よろしくね」
綾さんは僕をからかって満足したのか、目を細めてカラカラと笑う。
「もう、綾さんてば」
やっぱり僕は綾さんには敵わない。
もっとも、こうして綾さんに遊ばれていても幸せを感じてしまうのだから、僕にも困ったものだ。
夕暮れ時、今日も綾さんをバス停まで送っていく。
「うう、この時間でも外は暑いねー」
八月も半ばを過ぎ、陽はすでに傾いているのに、夏の大気はいまだ熱を失ってはいない。
まるで僕たちの恋のようですね――と言いかけて、慌てて口をつぐむ。
上手いことを言ったつもりになって、綾さんにまた笑われたり、からかわれたりしたら、恥ずかしいからね。
僕たちは、離れがたい気持ちを愛おしむように、互いに歩調を合わせながら、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
綾さんの手には日傘が握られていた。
「傘、僕が持ちましょうか?」
「そう? じゃあ、はい」
綾さんが黒い日傘をひょいと手渡す。柄が細い、軽い傘だった。
「律くん、もっとこっち来て。二人で入ろうよ」
「いや、僕は別に」
「いいから、いいから」
綾さんが甘えるように僕の右腕を抱きかかえ、ぎゅっと身を寄せてくる。
おかげで二人とも日傘の影には入れたけれど、身体はしぜんと熱くなって、かえって熱中症になってしまいそうだ。
「相合傘っていう言葉はありますけど、相合日傘ってあるんですかね?」
「あるかどうかは分からないけど、いいじゃん、私たちらしくて」
道行く人たちが僕たちを不思議そうに眺め、あるいは先を急ぐように追い抜いていく。
けれども、周りはどうだってかまわない。
恋人たちの間にあるのは二人だけの世界であって、周りの人間はただのエキストラ。そう教えてくれたのは、他ならぬ綾さんだ。
綾さんが教えてくれたことは、それだけじゃない。
健常者として過ごすことが、けっして当たり前ではないこと。
世の中には想像だにしない苦労や困難に直面し、言葉にならない様々な気持ちを抱えながら、それでも健気に懸命に生きている人たちがたくさんいること。
そして、その困難を乗り越えた先には素晴らしい世界が待っていること。
そういう人生において大切なことを、綾さんは自らの生命力を輝かせながら、僕にたくさん教えてくれた。
万が一――こんなことは考えたくないけれど――綾さんの病状が進行して、僕を忘れてしまう日が来たとしても、僕はずっと綾さんのとなりにいたい。
そして、今度は僕が綾さんに教えてあげよう。
僕たちがいかに深く愛し合い、かけがえのない尊い日々を過ごしてきたのかを。
僕たちの目の前には、長い道が続いている。
「綾さん」
「なに?」
「これからも、ずっと一緒に歩いていきましょうね」
「もちろんだよ。これからもよろしくね、律くん」
綾さんがニッコリと目を細め、満たされた笑みを輝かせる。
綾さんのこの笑顔こそが、僕のすべてだ。
なにも将来の不安を憂いて笑顔を曇らせることもない。
今ある幸せに感謝して、これからの毎日を綾さんと丁寧に生きていけばいい。
そうして綾さんの笑顔を守り続けられたら、それ以上の幸せはない。
たとえ小さな歩幅でも。
一歩一歩、着実に。
僕たちは、明るい未来へとつながる道を、今日も仲良く歩いていく。
【了】
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ステップ・バイ・ステップ~秘密を抱えた女子大生と僕とのピュア・ラブストーリー~ 和希 @Sikuramen_P
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