第39話 卒業写真
翌日、僕は駅前の本屋にやって来た。
綾さんの病気が良くなる方法の手がかりになりそうな本がないか、探してみようと思ったのだ。
「さて、医療関係の本はどこだろう?」
なにせファッションビルの五階すべてが売り場という広い本屋である。
ここに来ればどんな本でも手に入るというくらい無数の本で溢れていて、圧倒されてしまう。
「あった!」
ようやく医療関係の本が置かれたレーンを見つけた。それだけでもざっと二列分、膨大な数である。
自律神経の整え方。睡眠障害やうつ症状など、心の病の対処法。内臓疾患の治療法や予防法。腰痛。手足のしびれに至るまで、いろんな種類の本が並んでいた。
世の中には、僕が想像だにしない様々な病気があるものだ。だから、健康であることを当たり前と思わず、思いやりの心をもって寄り添っていかなくちゃいけない。
綾さんと付き合うようになって、強くそう思う。
「どの本が綾さんに一番適しているんだろう?」
あまりに数が多すぎて、およそ見当がつかない。とりあえず棚に飾られた一冊を手に取って、広げてみる。
そうして本を眺めていると、ふいに声をかけられた。
「おや、君は」
「あっ、黒木さん」
なんと、声の主は綾さんの同級生、黒木梨華さんだった。
黒木さんは、僕が手にした本を目にし、きりっとした表情を和らげた。
「もしかして、綾のことかい?」
「ええ。少しでも綾さんの足が良くなればいいなって。でも、どの本を買えばいいのか分からなくて」
「なるほどね。綾は今も元気かい? 大学に行かなくなって、なかなか会えなくてね」
「元気ですよ。ただ、ちょっと……この間、泣かせてしまって」
僕の部屋で、両手で顔をおおって涙を流す綾さんの映像が、にわかに脳裏によみがえる。たちまち胸が苦しくなって、僕の表情にもしぜんと影が差してしまう。
黒木さんは小さく息を吐き、眉尻を下げて言った。
「私でよかったら、話を聞こうか?」
一階にある喫茶店に、黒木さんと一緒に入る。
ここは名古屋発祥の喫茶店で、朝に行くとモーニングを無料でサービスしてくれる。ほくほくに焼けた厚手の食パンにあんこを塗って食べるのが、僕は好きだった。
「で、なにがあったんだい?」
正面に座る黒木さんが、涼やかな目で僕にたずねる。
「実は、綾さんの歩き方が前より悪くなった気がして。それで、僕は提案したんです。お医者様に見てもらって、必要なら手術を受けたらどうかって。そうしたら、綾さんが、手術は絶対に嫌だと泣き出して」
黒木さんはマグカップを優雅に口に運び、ひと口たしなむと、短く言った。
「難しい問題だね」
「自分でも分かっているんです、僕が悪いって。いかなる理由であれ、綾さんを泣かせていいはずがありませんから。ただ……」
「ただ?」
「それなら、あの時、僕は綾さんにどう言えばよかったのか、それが今でも分からなくて」
黒木さんが、ことり、とマグカップをテーブルに置く。そして、頬づえをつくと、鋭い目で僕の顔をじっと見つめた。
「綾にとって手術がどれほど怖いものか、君は考えたことはあるかい?」
「……いえ、あまり」
情けないことに、僕には想像力が欠如している。
だから、綾さんの痛みや苦しみに気づいてあげられないことが、これまでも多々あった。
すると、黒木さんは椅子に深く背を預け、思い出を語りはじめた。
「実は、高校時代、私は綾とそれほど話したわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「なにせ彼女はずっと入院していたからね。ただ、綾のことは強烈に印象に残っている。なぜだと思う?」
僕は静かに首を横にふる。なぜと問われても、答えがまるで思いつかない。
「三年の冬だった。教室では、そろそろ卒業だね、なんて皆と話していたものさ。そんな時、綾が急に教室に姿を現した」
黒木さんは淡々と、しかし過去を懐かしむように目を細め、言葉を重ねる。
「綾は教室でもニット帽を取らなかった。寒い時期だったから、ニット帽をかぶって登校するのは分かる。でも、教室でもずっとかぶりっぱなしというのは、さすがに違和感があるだろう?」
「……取れなかったんですね」
黒木さんがうなずく。
僕は綾さんから一度だけ聞いたことがあった。薬の副作用で髪がすべて抜けてしまう時もあった、って。
たとえ退院できたとしても、髪が生えそろうまでには相当な時間が必要だったに違いない。
「一月に撮った卒業アルバムの集合写真には、ニット帽姿の綾が写っているよ。高校三年間を経てもほとんど傷んでいない制服に身を包んで、緊張気味に表情をこわばらせて。……でもね、私はそんな彼女をとても美しいと思ったんだ」
「綾さん、美人ですもんね。黒木さんもですけど」
「ノロケかい? 別に、私はそういう意味で言ったんじゃないんだけどね」
黒木さんがクスッと口元を緩める。
「ちょうどその頃、私の父も病を患っていてね。闘病生活の大変さを目の当たりにしていたから、綾の凄さがよく分かるんだ。病との壮絶な戦いに打ち勝って、後遺症を抱えてもけっして心折れず、現実と向き合ってちゃんと卒業写真に収まろうとする。そういう彼女の芯の強さに、私は尊い生命の輝きを感じてね。とても美しいと思ったのさ」
いかにも綾さんらしい話で、思わず涙を誘われてしまう。
健気で、いじらしくて、くじけそうな心を奮い立たせて。そんな素敵な綾さんを誇らしく思わずにはいられない。
そして、それほどまでに壮絶な過去を背負った綾さんに、簡単に手術を勧めてしまった自分の浅はかさが恥ずかしくなった。
「だから、私のほうから綾に声をかけたんだ。高校生活、残りわずかだけれど、今からでも友達になってくれないかって」
「綾さん、喜んだでしょうね」
「ありがたいことにね。その後、私は現役で大学に入り、一年後、浪人した綾が入ってきた。久しぶりに会って驚いたよ。あんなに艶やかで美しい黒髪を取り戻しているんだもの」
「努力したんでしょうね、きっと」
綾さんのロングヘアーの下には、痛々しい縫い目が今も残っている。
それを完全におおい隠せた時、綾さんはどんな気持ちだっただろう? 鏡の前でガッツポーズでもしてみせただろうか?
黒木さんから聞かされた綾さんの過去に、僕はしばらく感傷に浸っていた。
それから、自問自答するように言った。
「でも、これから僕は綾さんになにをしてあげたらいいんだろう?」
綾さんの歩みがこれ以上悪くなっていくのを、ただ指をくわえて見ているわけにはいかない。
僕にできることがあるなら、なんだってしてあげたい。
「手術すると決めつけず、他の方法を綾と一緒に探してあげることだね。たとえば、テレビのCMでよく見かける、膝関節に効くサプリメントなんかはどうだろう? ああいうものだって、効果があるかもしれないよ」
綾さんがそういうサプリメントを飲んでいるとは、これまで聞いたことがない。試してみる価値はあるかもしれない。
黒木さんのおかげで、綾さんとの未来にひと筋の明るい光が射した気がした。
僕ははじめから手術しかないものと思いこんでいた。けれども、それは間違いだった。
もっと綾さんの心に寄り添って、できるだけ綾さんの望む形に近づきながら、二人で解決の道を模索していく。
それが、僕にできる最善の方法なのだろう。
「そうだ」
黒木さんが急に思い出したように声を発した。
「綾は、リハビリはしているのかい?」
「リハビリ?」
「父が退院した後、しばらくリハビリセンターに通っていてね。もしかしたら、綾もそこで見てもらえば、なにかアドバイスがもらえるかもしれないよ。よかったら、連絡先を教えようか?」
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