ステップ・バイ・ステップ

第38話 彼氏失格

 世の中がオリンピックに沸き立つ夏休み。

 僕が住む千葉県では、感染者数の拡大に歯止めがかからず、ふたたび緊急事態宣言が出されていた。


 僕はこの夏も帰省をあきらめた。検査を受けて帰ることも考えたけれど、あまり歓迎されない気がしたし、実家に帰ったところで特にすることがあるわけじゃない。両親としばらく会えていないのは寂しいけれど。


 しかし、それ以上に、僕には気になることがあった。

 綾さんの健康状態だ。


 夏休み、綾さんは時おり僕の部屋をおとずれては、一緒にゲームをしたり、僕のために料理を作ってくれたりした。

 綾さんと過ごす時間は甘くくすぐったくて、僕の心はたちまち満たされてしまう。

 けれども、一緒にいればいるほど、綾さんの身体に起きている変化にも気づかされるのだった。


「綾さん。最近、足の具合はどうですか?」


 部屋のソファに座る綾さんにカルピスの入ったグラスを差し出しながら、努めて軽い調子でたずねてみる。


「足? 別に、大丈夫だけど」

「なんだか以前よりも歩きづらそうじゃありません?」


 しらを切る綾さんに、僕はたまらず問いただす。


 旅行の時に感じた違和感は、僕のなかで確信に変わっていた。

 綾さんは以前にも増して歩くのが遅くなったし、身体を左右に揺らすようにもなった。それはもう、疑いようのない事実だった。


「大丈夫だって。自分の足で歩けているし、特に問題ないよ」

「でも……。ご家族はなにか言っていませんか?」

「病院で見てもらえって、ママが」

「やっぱり」

「でも、病院に行ったってなにも変わらないよ。今でも定期的に通院しているけど、足のことはなにも言われないし」

「でも、これ以上足が悪くなったら手術だって、以前綾さんが」

「手術はしないよ」


 綾さんはきっぱりと言い、カルピスをごくりと飲む。それから唇をグラスから離すと、さらに語気を強めた。


「私、絶対に手術なんてしないから」


 どうやら綾さんの意志は固いらしい。


 綾さんが抱える病気の後遺症については、二つの心配がある。

 一つは、足を含めた身体機能の低下。

 そして、もう一つは記憶力の低下だ。


 幸い、心配していた記憶力の低下の兆候は今のところ見られない。

 けれども、足のほうは、やっぱり看過できない状況に思えてしまう。

 今も薬で治療してはいるけれど、それでも病がのそり、のそりと不気味に進行している気がして、怖くなる。

 やがては足だけでなく、記憶にまで障害が及んだら……そう考えると不安で、心がかき乱されそうになってしまう。


 僕は綾さんの彼氏として、どんな言葉をかけてあげるべきなのだろう?


 今でも定期的に通院しているとはいえ、もっとちゃんと見てもらうよう勧めてもいいのかもしれない。


「綾さん。もし今手術をして快方に向かうのなら、それも選択肢の一つだと僕は思います」


 僕は冷静に、綾さんを諭すように告げた。


「早い段階でお医者様に見てもらって、手術をして治るならそうしてもらったほうが、後々は楽に……」

「簡単に言わないでッ!」


 綾さんがカッとなって叫ぶ。

 びっくりした。綾さんが声を荒らげるなんて、めったにないことだったから。

 綾さんは苛立ちを隠さず、目をつり上げる。


「律くんは、入院生活がどれほど辛いか分からないから、そんなことが言えるんだよ。何年も経って、やっと病院の外に出られたんだよ? それなのに、また私に病院に戻れって言うの?」


 綾さんの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。


「もう嫌なんだよ……手術も、入院も。私はもう絶対に戻りたくない! ずっと律くんと一緒にここにいるっ!」


 綾さんは両手で顔をおおい、肩を震わせて泣いている。

 泣かしてしまったのは、僕だ。


 綾さんはずっと病気の不安と戦っている。

 表面的には明るく見えても、心の奥底にはいつも闇を抱えている。


 それなのに、僕は……。

 いとも簡単に綾さんの闇に土足で踏みこみ、逆鱗に触れてしまった。

 これじゃ彼氏失格だよね……。


 僕の落ち込みようは、綾さんにも伝わったらしい。

 綾さんは落ち着きを取り戻すと、穏やかな声で言った。


「ごめんね。律くんが悪いわけじゃないのに、当たっちゃって」

「いえ、こちらこそすみません」

「ううん。律くんが言っていることは、ほんとうのことだから。ありがとう、いつも気にかけてくれて」


 綾さんの優しさが、胸に痛い。


 配慮が欠けていたのは僕のほうだ。その事実は、綾さんの涙が証明している。

 自分では正しいことを言ったつもりでも、大切な人を傷つけてしまうこともある。こういう時、恋愛ってすごく難しいと感じてしまう。


 でも、だとしたら、僕は綾さんにどんな言葉をかけてあげるのが正解だったのだろう? その答えが、今の僕には分からない。


 綾さんの温かい手が、僕の頬をそっと撫でる。


「律くん、そんな悲しそうな顔をしないで。律くんが悲しいと、私も悲しい」


 綾さんの純粋で綺麗な瞳が、僕にまっすぐ向けられている。


「律くんにはいつも感謝してる。こんな私を受け止めて、たくさん愛してくれて。……でもね、もしこんな私に愛想を尽かしたら、遠慮なく言ってね。私の存在が律くんの足かせになることが、私には一番辛いことだから。律くんには、律くんの自由を生きてほしい」


 綾さんの優しい気遣いが、僕の心に沁みわたる。


 僕にとって、綾さんは世界で一番素敵な彼女で。

 そんな素晴らしい人が、傷つけた相手を労わり、逆に、自分を責めるような言葉を口にしている。

 僕はたまらなく情けない気持ちになって、救いを求めるように、綾さんの細い身体を強く抱きしめた。


「愛想を尽かすなんて、そんなこと言わないでください。僕の気持ちは変わりません。綾さんのことをずっと好きでいさせてください」

「律くん……」


 僕たちは見つめ合い、やがて互いを慰め合うようにキスをした。






 夏休みも『燕屋珈琲』でのアルバイトは続けていたものの、客足はあまり芳しくなかった。


「人来ませんね、律先輩」


 山根さんも張り合いがないのか、つまらなそうにつぶやく。


「今日は勉強はいいの?」

「受験生にだって、息抜きは必要ですよ。それに、律先輩に会えただけで元気ももらえますから」


 山根さんは今日も変わらず無邪気な笑みをこぼす。


「でも、律先輩はあまり元気そうじゃありませんね」

「そう見える?」

「見えますよ、思いっきり」


 山根さんはきっぱりと言い、それから探偵のように顎に手を添えて、じいーっと僕の表情をうかがってきた。


「ははあー。さては律先輩、彼女さんと上手くいってませんね?」

「そんなことは」

「ほら、目を逸らした。図星ですね」


 どうやら山根さんには嘘がつけないらしい。

 山瀬さんは確信を深め、勝ち誇ったように口角を上げる。


「もし、あの美人な彼女さんと別れることになったら、すぐに教えてくださいね」

「別れることはないと思うけど」

「分かりませんよ。律先輩がそう思っているだけで、彼女さんがどう思っているかなんて分かりませんし」

「怖いこと言うなあ」


 山根さんの言葉がグサリと心臓に突き刺さる。

 綾さんの愛情を疑うことはないけれど、山根さんの言葉も真理を突いている気がして、なにも言い返せない。


 綾さんを泣かせたんだもの。綾さんから別れを切り出されたって、おかしくないよね……。

 そんなマイナスな思考を巡らせていると、山根さんが不機嫌そうに頬を膨らませ、腰に手を当てて僕に迫ってきた。


「もう、なんなんです? 辛気臭いな」

「ごめん。ちょっと考え事をしていて」

「いつもみたいに、彼女さんと一緒にいられて幸せ~っ! なオーラを出してくださいよ。そのほうが律先輩らしいですから」

「え? 僕からそんなオーラが出てた?」

「いつも頭のてっぺんにお花が咲いて見えましたよ。自分で気づいていなかったんですか?」


 山根さんは呆れたように肩をすくめ、さらに続けた。


「とにかく、律先輩がそんな調子だとこっちまで調子が狂います。もっと私を苛立たせるくらい彼女さんとイチャイチャして、私に『早く大学生になって彼氏欲しいなー』って思わせてくださいよ。そのほうが私も受験勉強に身が入りますので」


 山根さんはそこまで言うと身をひるがえし、最後に言い捨てた。


「ま、律先輩が別れてくれたほうが、私的には都合がいいんですけどねー」


 僕は苦笑するしかない。


 年下の女子高生に励まされるなんてカッコ悪い。

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