ランチタイム

つくお

ランチタイム

 職場で注文した弁当が男の分だけ足りなかった。同僚たちは皆もう食べはじめていた。弁当屋に問い合わせると、注文分は間違いなく届けたという。誰かが男の分を勝手に取ったのだ。同僚たちは素知らぬふりで黙々と食べており、騒ぎ立てるのはためらわれた。

 あきらめて外へ食べに出ることにした。近道となる裏路地に入ると、シャッターの降りたスナックの前で女同士が争っていた。血しぶきが飛び散るほどの激しい喧嘩だった。男は脇をすり抜けようとしたが、投げ飛ばされた女に巻き込まれてスナックの看板もろとも地面に倒れ込んだ。痩せた女なのに重かった。女の下からなんとか這い出すと、転がるようにして逃げた。

 看板の角にでもぶつけたのか、左の上腕に強い痛みがあった。男は痛むところを押さえながら地下にレストラン街がある商業ビルを目指した。そこに入っている洋食屋のオムライスを久しぶりに食べたい気分だった。

 裏路地を抜けたところの区画一帯で開発が進んでいた。どちらを向いても解体用シートに視界が遮られ、目指すビルは見つけられなかった。見覚えのある風景の一つも見当たらず、自分がどこにいるのかさえわからなくなるくらいだった。コンクリートを削る音が耳の奥に直接響いた。

「おい」

 後ろから声をかけられた。以前働いていた会社の先輩だった。前置きもなく昼飯に付き合えと言われ、空腹の男は成り行きに任せることにした。

 古ぼけたビルの二階にある喫茶店だった。ブレンドコーヒーが600円とあり目を丸くしたが、奢りだというのでBLTサンドにセットでコーヒーをつけた。窓際の席だった。外に目をやると、通りの先の方に駅前広場がわずかに覗いていた。男は自分の居所がわかって少し安心した。

 先輩とはあちこちの民家や施設などを回って害虫駆除をしたのだった。ときどき、うっかりペットを殺してしまうようなこともあったが、いつも先輩が機転を利かせて助けてくれた。

 あるとき、強力な殺鼠剤を溶いた液体について、家主にそれは何かと問われたことがあった。先輩が冗談でソーダですと答えた。ところが、それを真に受けた家主は、男と先輩が目を離している隙にそれを飲んでしまったのだ。地下で血の泡を吹いて倒れている家主を発見した男と先輩は、パニックになってその場から逃げたのだった。

 あの家主がどうなったか、男は知らないままだった。おそらく死んだだろう。すぐに助けていたら一命を取り留めていたかもしれないと考えることもあったが、もう取り返しがつかなかった。

 男はそのあとすぐに仕事をやめ、先輩もそれに続いたはずだった。今どうしているのか気になったが、先輩は男がまったく興味のない釣りの話を延々と続けるばかりだった。

 そのうち、近くの席の客がマルチ商法の勧誘をしているらしいことが分かってきた。男はそちらが気になったが、先輩は気づく気配もないようだった。男の座る席からは、勧誘されている方の女の髪の長い後ろ姿しかわからなかった。男はなんとか警告してやりたいと思った。

「お前、腕どうしたの?」

 先輩が急に聞いた。

 男は怪我をしたところにずっと手を当てていた。骨に異常はなさそうだが、じんじんと脈打つように痛んだ。ちょっとぶつけてと口ごもると、先輩は「まぁ、たくさん食えよ」とやけに声を張った。励ましてくれているようだったが、どこかピントがずれていた。注文したものはなかなか来なかった。

 鮎釣りにハマっている先輩は、朝まだ暗いうちに家を出て神奈川や静岡の川まで行くということだった。鮎釣りは蚊がやばいと言っていた。

 男は、身振り手振りでキャスティングについて語る先輩に断ってトイレに席を立った。先輩は想像上の釣り針を男に引っかけ、トイレに行かせまいと懸命にリールを巻くふりをした。男は少しだけ付き合って釣られるふりをしてやった。

 用を足しながらあっと気がついた。あいつは狂っている。男は席に戻るのが少し怖くなった。

 トイレを出たところの狭い通路で、マルチ商法に誘われている女と行き合った。くりっとした大きな瞳が目を引くかわいらしい女だった。

「あの、あれ、ちょっと怪しくないですか」

 男は努めて立ち入りすぎないように言った。

「は?」

 女の表情が一変した。女は眉間に皺を寄せ、まるでイキがっている不良を思わせるやり方で男の顔を下から覗き込むように睨んできた。男は怯んで後ずさり、背中をトイレのドアにぶつけた。ドアノブが臀部に当たり、先ほど痛めたのは腕だけではなかったことを知った。

「いてっ」

「は? なんだお前」

 男はすいませんすいませんと頭を下げながら、わずかな隙間をすり抜けるようにして女から逃げた。今だかつて、初対面の人にこれほどあからさまに因縁をつけられたことはなかった。

 席に戻ってみると先輩の姿がなかった。店内を見回してもどこにもいない。テーブルの上にバインダーに挟むタイプの伝票が裏返しに置いてあった。店員に声をかけると、二人が注文したものはすべてテイクアウトされていた。

 逃げ場はなかった。仕方なく二人分の会計を済ませると、男は財布の中身が空になってしまった。

 臀部も怪我をしていると分かり、急に歩くのがつらくなった。壁に手をつきながらよろよろと階段を降りていくと、あっと気がついた。これは狂った人間には不可能な所業だ。男はまんまと二人分の昼飯代を支払わされたのだ。

 どちらにしろ手遅れだった。食事にありつけないまま、昼休みが終わろうとしていた。左腕を押さえて片足を引きずるようにして駅前広場を横切っていると、男はデスクの引き出しの中にチーズクッキーがしまってあるのを思い出した。虫の好かない同僚から旅行土産でもらったものだが、苦手な味なので奥に押しやったままになっていたのだ。あれを食べるしかなかった。

 職場に近づくと、何かがおかしいことに気がついた。なだらかにカーブする生活道路の行く手に見えてくるはずの見慣れた建物が一向に姿を現さないのだ。

 そのまま川まで来てしまった。職場の先にある、少し下ると暗渠になる小さな川だ。来た道を戻ってみたが、やはり職場は見つけられなかった。もう一往復しても同じ。途方に暮れた男は、通りかかりの近隣住民にこの辺りにあった建物について聞いた。小型犬を連れた老婦人だった。相手は怪訝そうな顔で犬を守るように抱えあげた。

 男は事務所の入っている建物のあるはずの場所、建物の特徴などを伝えた。利用者への暴力行為などで評判の悪い福祉事務所だったので名前は出したくなかったが、勤め先についても話した。老婦人の表情は固く、まるで話が通じていない様子だった。犬はぴくりとも動かなかった。死んでいるように見えた。いつか、男と先輩が害虫駆除の仕事で誤って殺してしまった犬に似ていた。

 何かおかしいと思っていると、ふいに辺りに煙が立ち込めはじめた。煙は足元からじわじわと這い上がってくる。老婦人はじっとこちらを見ていた。わけがわからずにいると、鼻がよく知っている香りに反応した。フローラル。フローラルな香り。男はそれが香りをつけられた害虫駆除用の燻煙だと気がついた。

 すでに遅かった。白い煙にすっぽりと包まれた男は激しく咳き込み、煙が染みてろくに目を開けることもできなかった。気配を感じて振り返ると、靄の中に先ほどの老婦人が棒のようなものを振りかぶっているのを目の端で捉えた。直後、後頭部に強い衝撃を受けた。

 見覚えのあるコンクリート打ちっぱなしの床に倒れ込んでいた。どこなのか思い出すよりも前に、隣にあのときの家主が血の泡を吹いて倒れているのに気がついた。そこはあの家の地下だった。害虫駆除用の燻煙が充満している。

「バカがよ」

 老婦人が脇にしゃがみ込んでいた。見た目は老婦人だが、声の響きは先輩だった。体中が痛かった。男は先輩に何度も殴られたことを思い出した。昼になって弁当を取り出そうとリュックを漁っているところを、古いシャッターの開閉に使う鉄の引っかけ棒で後ろから襲われたのだ。

「おれだってこんなことしたくねぇけどな」

 先輩が背中を踏みつけにしながら言った。頭を狙って棒を構えているのがわかった。男は助けを呼ぼうとしたが、煙で喉がやられて声が出なかった。

「お前、おれが依頼人のペットを殺したなんてチクりやがるからこういう目に遭うんだぜ」






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