第6話 呪霊域:迷い家の狐火③
様子が変わったのは俺の方だけでは無かった。
今まで逃げ惑うだけだった俺の行動になにか機先を感じ取ったのか、化け物はその規則的な足音を崩して、道路を爪でひっかくような音でこちらを追いかけ始めていた。
キッキッキキキ!!ガリガリガリ!!!
それはもう人の足音では無かった。獣の疾駆する野性的な響きだった。
「ハァ……!!ハァ…!!なんだいッ、もう革靴を履くのは止めたのかよ!?」
化け物の正体はなんとなく想像がつく。きっとあの公園で見かけた狐顔の怪物が追い駆けてきているのだろう。
さて。問題は二つはある。一つは俺の現在地だ。
最初に見当違いの方向に走りだしてしまったせいで、このまま走り続けていても公園に辿り着くことは無い。
かといって引き返しても、何かの拍子で後ろを振り向いてしまってはアウトだ。
ならばどうするか。
「――ッ!!ここだ!」
俺は予め見当をつけていた和風建築のお屋敷の玄関口に飛び込む。
この家は辺鄙な住宅街の中でもひときわ豪勢で目立っていたからよく覚えている。
玄関口には門が閉まっていたが、すぐ隣の塀から簡単に侵入することが出来た。
つまり、道に迷ってこの街の建造物の中に入ること。これがあのループの条件だと俺は踏んでいた。
「いっけぇぇえぇぇ!!!」
半分は賭けだった。これで元の交差点に帰れる保証は無い。だが、不思議とそれを
塀を飛び越え、地面で受け身をする姿勢を構える。
だが思った通り、その着地点は虚空を廻って宙を舞い、円環を描いてまたあの三叉路に落下した。
無数の外灯に照らされた既知の交差点。
汚れたアスファルト。
冷えきったマンション群の遠景。
間違いない。あの交差点だ。
「…っよし!!!予想通りまたループが起こったな……!!」
世が常なら白昼夢かと思う程に一瞬だった。だが額に張り付いた汗と、地を踏んでしびれた足の感覚がそれが夢では無いことを教えてくれる。
とりあえず第一の問題はクリアした。
あとは……。
「もう一つの関門……自力で奴から逃げ切ることだな……」
猶予が無いことは分かっていた。
もうすでに伽藍洞の奥底から、爪を掻き立てるあの音が聞こえてきたからだ。
***
「オぉいいいっ!!!!チートだろこんなの!!何だってもう追いついてきやがるんだ!!?」
しかし現実は厳しく、形勢は前の状態へと逆戻りする。
悲鳴を上げる身体に鞭打ち、またもや全力疾走で駆けていた。
確かに俺はあの交差点から十分な距離までヤツを引きつけてからループした。
少なくとも、俺を再び探す時間は十分稼いだつもりだった。
だがヤツの追いつくスピードは異常すぎる。
一度捕捉した獲物は、匂いか何かでいくらでも追跡できるって寸法か?
キキキキッキッ!!ガリッガリッガリ!!!
いずれにせよあの怪物はすぐ傍まで迫ってきていた。
既に酷使した手足は限界に近く、呼吸も絶え絶えで体力が底をつき始めていた。
(まずいっ……!このままじゃ公園に辿り着くまでに追いつかれるぞ……!)
ここで取れる選択肢は二つしかない。
このまま走り続けるか、迎え撃つか。
(しかしどうやってっ……!?)
こんな時、いつも光明を与えてくれたのはあの老人の言葉だ。
キヌガワさんとの会話を必死に思いだそうとする。
『―――あまり、背後に気を取られ過ぎるなよ』
老人の声はあまりに鮮明で、脳裡に録音された音声のように再生された。
『ヤマナシ君、君はワシの言いつけを守ってさえくれれば助かるんだ』
そうだ。彼はあの化け物に対処してくれると、そう言っていた。
信じるしかない。それが俺がこの場で取れる最善の選択肢だ。
「ハァっ…!!ハァっ…!!頼んだぞ爺さんっ!!」
俺は意を決してペースを落とした。そして段々とその歩みを遅め、だが決して立ち止まることなく、ジョギング程度のスピードまで緩める。
気が抜けば、立ち止まって膝に手をついてしまいそうだ。
肩で大きく息をし、血気に逸る鼓動を抑えながら、全身で呼吸を整える。
すると不思議なことに、今まで追ってきたはずの足音が急に消え、耳元で鳴っていたあのけたたましい爪擦音がひっそりと止んだ。
「………………………?」
不気味な静寂が辺りを包んだ。噴き出る汗と疲労にうなだれながらも、決して油断はしまいと全身を緊張させる。
(諦めたか………?それとも、やはり走り続けたのが
こうなれば好都合だ。このまま公園まで歩き続けよう。
そう思ったが―――。
「ひまりぃ……こっち来いよ……。」
「っ!?」
明らかに人の声だった。声は
「ひまり」だって?そんな名前の知り合いはいないし、まして俺の事だとも思えない。
「おーい……ひまりよぉ……返事してくれぇ……おーい……。」
声の発生源はすぐ後ろだと判る。
おそらくあの怪物が俺の気を引こうとしているのだろう。
その声はどこか親しみがあり、そして哀愁の漂った声色だった。
しかしそのちぐはぐさが却って不気味さを増し、否応にも反応してしまう。
「おーい……おーい……おーい……ひまりよぉ……」
ここで声をあげて反応してしまって終わりだ。この手の怪談話では、相手にしないことが賢明だと相場が決まっている。
黙ってやり過ごそう。
「おーい……ひまりぃ……」
「……………………………」
「おーい……ひまりよぉ……なんでおれを殺したんだよぉ……?」
「え………?」
しまった、と後悔した。
疑問に遮られ、一瞬、足が止まってしまった。
刹那、金縛りにあったように身体が硬直する。
足はぬかるんだ泥に沈んだように重くなり、両腕はひきつって動かず、喉に石を詰められたように息が出来なくなる。
張り詰めた空気が次第に密度を増し、突き刺すプレッシャーとなって全身を締め上げた。
「う、う、うお、……かッ…い、息が……」
背後から、無音の気配が忍び寄る。
悪寒が足元から這い上がり、一瞬にして意識が凍てついた。
カリ……カリ……カリ……カリ……
ひっかいたような爪の音。
外灯に照らされた影にヤツが映った。
自分の身長をはるかに越える体躯。
不相応な程に鋭い半月状の鎌。
血と糞が混ざり合ったような獣の匂い。
「こ、こっ、ろ、……うヴ、あ…」
―――もう駄目だ。殺される。
もう死ぬのだと、言葉にならない声を絞り出した。
(ワン!!ワンワン!!アオー―――ン!!!)
意識の片隅から、犬の遠吠えが聞こえたような気がした。
だがそれはサイレンのように頭から遠のき、薄れる意識の中で微かにこだまする。
既に身体の感覚は無かった。
崩れる落ちる膝、受け身も取れずに地に伏せる体を、どこか冷静に俯瞰する自分がいる。だがその剥離も慟哭の内に消えていった。
意識は途切れ――
世界から断絶され――
そして全ては真っ白な境界線上に堕ちていった。
月見里蓮夜の怪奇譚 もぶぷりん @Midwest
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