第5話 呪霊域:迷い家の狐火②






 三叉路の行方は見当を得ず、肌に馴染んだはずの住宅街は、フィルム越しに映された異国の街のようによそよそしく見えた。

 

 均一に並んだ屋壁の道沿いには沈黙のとばりが降り、街灯が照らす青白い光が、点滅を繰り返して蠅の羽音のような低音だけが響いている。


 そこでやっと気が付く。俺は帰っているんじゃない。



「はは……こんなことってあるんだな……」


 余りに現実離れした事態に、思わず乾いた笑いがこみ上げてくる。

 

 この街で育ったという実感はあった。

 見慣れたアスファルトの汚れ、擦れた歩道線がそれを教えてくれる。

 だというのに、最初から居着く場所など無かったのだと告げられたように、所在なく俺は立ち尽くしているではないか。


「とりあえず、歩いていれば思い出せるか……?」



 夢の中の足取りのように、俺は当てもなく歩き始めた。

 いや、とにかく俺はここに留まっていることに嫌な感じを覚えたのだ。

 「――立ち止まってはいけない。」という言葉がふと頭に浮かんだ。

 ……さて、これは一体どこで聞いた言葉だっけか?

 



  ***

 



 ―――歩き始めてからどのくらいたっただろうか。


 思えば今が何時なのかもわからない。

 凪いだ空には月が消え、星々の瞬きさえ失っている。

 わからないといえば、この見慣れたはずの住宅街も、どこかおかしい。



 

 車の通行はおろか、窓明かりの向こうに映る人影さえも見当たらない。


 そしてすべての信号機は赤色の点灯を繰り返すばかりで、「止まれ。止まれ。」と叫けぶ壊れた玩具のようだ。



「おかしい……おかしい……これは……夢じゃないのか?」


 そして一向に思い出せない家の帰路。

 もはや夢だと疑うことが一番現実的な考えになっていた。


 だが、悪夢にしてはリアルな感覚だった。歩き続けた足腰は既に疲労を覚え、硬いアスファルトが返す感触がこの幻想をことごとく打ち砕いてくる。


「タチの悪い冗談だぜ……これだとまるで俺の方が狂っちまったみたいじゃないか……」




 ふと、視界の先に見慣れた看板が見えた。

 24時間営業、どこにでもある大手コンビニエンスストアの文字。


 良かった。

 いつも日常に戻ってきたような気がして、ホッと胸を撫でおろす。

 いつの間にか俺は駆け寄っていた。


 コンビニに入れば流石に人には会えるだろう……。

 そう思っていた。



 ―――だが、初めに感じたのはやはり違和感だった。

   人気のないレジ。無音の店頭。どこか古臭い商品の数々。

   コンビニの自動ドアをくぐった時、俺は「アッ」と小さな悲鳴を上げていた。


 ……何に怯えたのかは分からない。ただ、身体いっぱいに抱えた不安が、実となって破裂はじけた瞬間だったのだろう。



 

 画面が白昼夢ホワイトアウトに襲われ、白い砂嵐の中に現れる始まりの三叉路。

 ドアを潜り抜けた先に視界に飛び込んできたのは、人工的な明かりではなく




  ***




 「ここは……?」


 壊れかけた街灯の光。公園へと伸びる交差点の一角。

 コンビニには辿り着けず、また同じ交差点の上に俺は立っていた。


 「えっと……?」


 もう訳が分からない。

 どこからが夢で、どこまでが虚妄なのか。


 「誰か…!誰かいませんか!………っクソ!何で誰もいないんだ!?」


 恥も外聞も捨てた叫び声も、伽藍洞の底に消えるかのように街の中へ沈んでいく。

 辺りを見渡せば、人の営みだけを模倣した家屋が果てなく続いていた。

 

 「ハァ……ハァ……落ち着け、俺。そうだ、一旦状況を整理するんだ…!この悪夢が始まったのは、一体いつからなんだ……!?」


 記憶を遡ってみる。

 学校での出来事。瑠璃川と話した口裂け女の話。記憶に懐かしい公園への道。

 そして……。


 「――そうだ……俺は公園で爺さんと出会っていて……!!」


 俺は最後に公園にいたはずだ。そこで生きた人間に出会っている。

 しかしその先は何故か霧がかかったように朧げで、思い出すことが出来ない。

 そこで何か重要なものを見た気がする。そして大事なことも聞いたはずだ。

 忘れ去られた家路と公園での出来事。これが恐らく脱出のヒントに違いない。


                    

 

 だが再び冷静を取り戻そうとしたその時。

 狙いすましたかのようには訪れた。

 


      コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…


 踵を踏み鳴らすような、甲高い足音。


 コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…


 規則的な足取りに、どこか人間離れした不気味さを与える、そんな足音。


              コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…


 いる。後ろに。


「………ッ!!?」


 背筋に悪寒が奔った。めつけるような視線が、背骨から首筋にかけてねっとりと這い上がり、冷たい殺意となって首元に注がれる。


 (――ダメだ。振り向いてはダメだ。)

 だがその時、誰とも分からない警告が頭の中に響き渡った。


「――クソっ!!どうなってんだコレ!!?」



 俺はその場から脱兎の如く走り出した。

 その判断が功を奏したのか、首筋に這う視線がその焦点を見失い、凍えるような悪寒から解放される。


                     コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…


 だが、依然としてその足音は鳴り止まない。

 こちらが全力で走っているというのに、一向にその距離が開く気配がしなかった。



「う、うわああああぁああああ!!!?」


 俺はいつの間にか大声を出していた。

 それは、頭の内に直接響いてきたからだ。

 「コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…」と。耳元で囁くように。


 俺はそれを全力で振り払おうとした。叫び声で搔き消そうとしたのだ。



「ハァ…!ハァ…!嫌だっ…!もう帰りてぇよ!どこにあるんだよ!?」


 思い出せ。思い出せ。駆ける手足に手綱を任せ、その回転で脳幹を駆動させろ。

 俺は最初公園にいた。そして老人と出会った。

 そこで俺は辿るべき道筋を教わったはずだ。


 思い出せ。思い出せ。化け物の対処法は――。俺の帰るべき場所は――!

 




 『……必ずここに帰ってこい。どんな状況に陥っても、それだけは守るんだ……』





 「――帰る場所は家じゃない!!……!!」


 今度はハッキリと聞こえた。脳裡に響くこの声はあの爺さんの言葉だ。

 爺さんの助言はきっとこう言いたかったのだ。

 、と。


 

 相克する足音と箴言。だが活路を見出すには少し遅かったかもしれない。

 まずはこの背後から迫りくる化け物から逃げ切らなければ話にならない。



            コツ…コツ…コツ…コツ…コツ… 



 追跡者の歩調は崩れることは無く、なおも喉元を刈り取ろうするその殺意は衰えることを知らない。

 振り向けば、死。立ち止まればまた、死。

 有無を言わせぬ現象としての死が、俺を追いかけているような気がした。


 「ここが……ここからが正念場だ……!!」


 酸素と安息を求めわめく心臓を抑えながら、闇に沈んだ迷路を必死に駆け抜ける。

 だが俺は爺さんのおかげで全てを思い出せた。

 もう家を探して迷う必要はない。


 ギミックは全て解けた。あとはあの公園の東屋に向かうだけだ。



 「っクソォ!!絶対にだ!!絶対に逃げ切ってやる!!」






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