第4話 呪霊域:迷い家の狐火①
渋顔に刻まれた眉間のしわが彼の苦労を物語っているようで、尚且つ耄碌することのない意志の頑強さを窺わせる。不思議な魅力を持つ老人だった。
「―――ヤマナシ君と言ったか。君は私に会うまでの道中で、すれ違った人はいたかね?」
初めて見た時の様子とは打って変わって、老人は落ち着いた口調で語りかける。
「………いや、見てない気がする。不思議なくらいにだ。」
俺も平静こそ保ってはいたが、今すぐにでも後ろのアイツについて詰問したい気持ちでいっぱいだった。
「どのあたりからだ?」
「少なくとも公園に入ってから……いや違うな、この公園へ続く道に入って以来、誰ともすれ違っていない。」
「それは家に帰る道とは違うのか?」
「ああ。寄り道のつもりだった。ふと懐かしい気持ちに誘われて、幼い頃遊んでた公園に立ち寄っただけなんだ。」
「――……ふむ、もうひとつ質問させてくれ。君は昔から、お化けや幽霊が見える人だったか?」
「それは……ない気がする。少なくともあんな化け物を見るのは初めてだ。」
「……そうか。色々腑に落ちない点はあるが、今はいいだろう。」
老人は一旦周囲の様子を確かめると、おもむろに歩き始めた。
そして俺に一言、「歩調を合わせてついて来い」と命じてきた。
「ちょ、ちょっと!どこに行くつもりだよ!」
「黙ってついて来いと言ったはずだ。それと、あまり背後に気を取られ過ぎるなよ。」
老人は俺がちょうど来た道を引き返そうとしていた。
背後に潜む刃の影を残して。
それを老人は気にするなという。
余程の胆力の持ち主か、それとも愚策が為せる業なのか。
俺も彼に続いて並び立つことにした。
***
公園の雰囲気は一変していた。
樹々の気配が一層濃くなり、点滅を繰り返す外灯が辺りをストロボのように映し出す。遠くに光る住宅街の光が、今は何故か走馬灯の背景となって周りを廻っているように思えた。
無機質な遠景と、充溢する闇の匂い。
俺が来た道とはまるで印象が違う。
「爺さん……これ、大丈夫なのか?」
不安に耐えきれず、思わず口から曖昧な質問がこぼれてしまう。
「大丈夫だ。このままもう少し歩き続ける。」
不気味な印象が胸中に現れては像を結び、果てにはいつ襲われるかも分からない異形の影にすっかり俺は萎縮していた。
確かに、あれからあの狐顔の化け物が後をついてくる気配は無い。
だが、一歩踏み出すごとに変化していく公園の風景が、まるで地獄への入り口のように思えて、引き返すなら今だという考えが警鐘のように心臓の鼓動を早めた。
川に溺れる子供というのはこういう紙一重の恐怖に足をすくわれて沈んでいくに違いない、なんて馬鹿な考えさえ浮かんでくる。
「よし……ここでいいな。」
老人が止まったのは公園の高台へと伸びる三叉路。
道と未知が交わる、交点の中心。
後に続いていた俺に振り返って、老人はこう告げた。
「いいか。お前はここから一人でこの公園を一周して、この高台へと戻ってこい。決して後ろを振り返ったり、途中で止まっては駄目だ。必ずここに帰ってこい。どんな状況に陥っても、それだけは守るんだ。」
言葉短く、芯の通った声には強い意志が感じられた。
だがその決意は俺の感情には程遠く、突然の警告に一瞬頭が真っ白になる。
「……え?……じ、じいさんについていくだけじゃダメなのか?」
「駄目だ。一人で行かねばならん。」
「一人で、って……あの化け物に襲われたらどうするんだ!?」
「大丈夫だ。ワシが必ず何とかする。ヤマナシ君、君はワシの言いつけを守ってさえくれれば助かるんだ。」
老人の言葉はとても力強いものだった。
その言葉を聞いて、俺は自分の決意と現状との乖離に気付かされる。
そうだ、俺は恐怖のうちに溺れて死んだりしないと誓ったではないか。
こんなに弱気になってしまっては、生き延びるチャンスも見逃してしまうというものだ。
「―――分かった。騙されたと思って、キヌガワさんを信じてみるよ。」
「ほう」と感心したのか、殊勝に頷いて老人は俺の目を見つめた。
覚悟を受け取った老人は高台へと足を向け、最後に「その目を、失うんじゃないぞ」と告げて去っていった。
俺は交差点の真ん中にポツンと残されたが、しかし恐怖で足が竦むことは無かった。
(よし……やってやる…!『苦しみが残して行ったものを享受せよ。苦難も過ぎてしまえば、甘い』とは、よく言ったものだ……)
虚勢も勇めば本物となるはずだ。
皮一枚隔てた、外なる恐怖と内なる克己。
張り詰めた感情に弾かれ、俺は確かな一歩を踏み出した。
踏み出した、ように見えた。
瞬間、視界が180度に回転する錯覚を起こす。
宙に踏み出した足はその地を踏むことなく、まるで地面があるなんて常識が嘘だったかのようだ。
バランスを失った体は不可視の水面を突き破り、空と海が逆転した水平線に溺れるイメージが月見里蓮夜を貫く。
地に足付けた人間の五感は既に無い。人が夢をみる瞬間のような、世界と身体が融け合う空間に彼はいた。
崩壊した
***
気が付くと俺はあの公園に続く道の交差点に立っていた。
いつもの帰り道の途中で、何とはなしに公園への道を眺めている。
すべてが一瞬で、あれは夢だったのだと思わせる余韻すらない。
「あれ……俺は確か……塾から帰るところで……?」
閑静な夜の住宅街に相変わらず人気はない。
不意に見上げた空には、月明かりのない漆黒の天蓋が広がっている。
交錯した街道を、薄明りをたたえた外灯が果てしなく続いていた。
「なんだ……何だって俺はこんな所に突っ立ってんだ?」
確か俺は自転車に乗っていたはずだが、その自転車も何故か見つからない。
だがこうやって交差点のど真ん中に立っていては、車も通れず邪魔なだけだ。
思い出したかのように俺は歩きだし、いつもの家路に着こうとする。
「あれ……?」
だが、歩き出してやっと、ある事に気付いた。
「俺の家って………どこだ?」
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