最終話 そして新たな箱庭へ
カツカツと、廊下をテンポよく踏み鳴らすヒールの音が響く。日常的に身につけている衣服は式典などに関係なく基本的にはスカートで、動きにくいことこの上ないのだけれど、今はそんことはどうでもよかった。意図せずどんどん歩調が速まる。もうほとんど廊下を駆けているような状態だ。
そして、目的の扉を視界に捉えてからは、そこに辿り着くまでの時間ももどかしく、何の断りも入れずに勢いよく扉を開いていた。
「レイフ様!! いらっしゃいますか!?」
すると、タイミングよく実験室から出ようとしていた黒髪の少年が、驚いてこちらを振り返った。髪色と同色の真っ黒な光彩を放つ彼の眼が、始め大きく見開かれてから、やがて、ゆっくりと柔らかに細められる。
「レーナ様。こちらにいらしてくださるのは随分久しぶりですね」
どきりとする。まだあどけなさが残るのに、どこまでも優しく、とても安心感をくれるそれ。もちろんずっと見たかった顔だけれど、一方で、それを遠ざけようとしていたのは自分自身なのだという一抹の罪悪感がちくりと胸を刺したのだった。
「あ……、いえ、その……。久しぶり……になってしまったのは……」
上手く言葉を繋げず、しどろもどろでうつ向いた私の目の前に、気が付くとすっと右手が差し出されている。
「少し、奥で話をしませんか? 今日は、僕が紅茶を準備しますから」
反射的に私はその手に自らの右手を重ねていた。
「お、お願い……します。お時間をいただけると」
ぽしょぽしょと、自覚できるくらいに弱弱しく頷いて、それから私はきゅっとその手を握り直した。
「また来てくださって、僕はとても嬉しいです」
ぎりぎり聞こえるくらいの声量で、彼がそう呟いたことに私自身もひっそりと頬を緩ませながら、いつかみたいに、彼に手を引かれるがままに、私は数か月ぶりに彼の研究室に足を踏み入れたのだった。
*****
「一体どういうことなのですか?」
レイフ様とソファに並んで腰かける。これも随分久しぶりだ。紅茶を少し口に含んで、乱れた呼吸を整えてから、私はすぐに切り出した。
「どういうこと、とは?」
いかにも白々しいレイフ様の態度が、今の私にはひどくもどかしい。
「今朝になって急に、話があるとお父様に呼び出されて……。私に、『選びなさい』と。このまま予定通り、アルベルト殿下の妻としてオレガノ王国に迎えられるか、レイフ・カールフェルトの下で魔法技能研究の補助員となるか」
ははとレイフ様は苦笑いを浮かべていた。
「それは確かに、あまりに説明不足ですね」
「レイフ様が何かされたとしか思えません。一体何が、どうなれば……。私が重要な隣国からの縁談を断るかもしれないようなご提案を。それもお父様自ら……」
戸惑う私に、レイフ様は真っすぐな瞳を向けていた。
「細かい話は少し置いておきましょう。それで、レーナ様はなんとご返答されたのですか?」
その目があまりに真剣だったから、なんだか急に恥ずかしくなって、思わず私はふいと視線を反らしてしまった。
「とても細かい話としては片付けられな……」
「なんと、ご返答されたのですか」
けれど、もう一度はっきりと、やっぱり少しも瞬きすることなく、真っ黒な光彩に私は射抜かれていた。どうやら、逃げることは許されないみたいだ。
「そ、それは……。もし許されるのであれば、まだこの国に残りたいと。レイフ様のところへ行きたいと、答えました」
私のその発言を聞くや否や、力ない溜息と共に、ずりずりとレイフ様の身体がソファに沈み込んでゆく。
「よかった……」
「あ、あの、レイフ様?」
「すみません、少し、気が抜けてしまったようで」
先ほどまでは動転して気づかなかったけれど、改めて隣のレイフ様に目を向けると、その顔には深い疲労の色が見て取れた。私が初めてお会いした時と同じ。目元には深いクマ。皴の寄った研究着。おまけに、紙束であふれかえった床とデスク。
「ふふっ」
その様に思わず笑みが零れる。まったくこの人は。私が少し留守にしただけでこうも元通りになってしまうものかという呆れか。あるいは、不謹慎にもその変化に、かつての私の存在を明確に感じることができたからか。
「何か、可笑しなことがありましたか?」
胡乱な、放っておいたら間もなく眠ってしまいそうな顔でレイフ様は私に尋ねる。
思わず私はその頬に、自らの手をのばしていた。
「あっ……、え? ちょっと、レーナ様?」
「いいえ……可笑しなことなんて何も。でも、随分眠たそうなお顔。少し、お休みになってはいかがですか?」
「そんな、レーナ様が、せっかくいらしてくださったのに」
「いいんですよ? 今日はいくらでも時間がありますから。急に王族を離脱することになって、国事行為も今全て閉じているところなんです」
「でも……」
こんなやりとりも、どこか懐かしいと思いながら、私は少しだけ強引にレイフ様の頭を引き寄せた。男の子にしては少し華奢で、それでもやっぱり私よりはしっかりとした身体が、思っていたよりはずっと弱い力で引いただけで、すとんと私の膝の上に倒れこむ。
「あ……れ? なんか力が……」
自分でも驚いたような声を、レイフ様は口から零していた。
「ほら、やっぱり疲れていたんですよ」
さらと、目元にかかった前髪を払って、その顔を覗き込む。すると、どうしてか。せっかく上を向いていたのに、ふいと目を反らされてしまった。けれど、その方が私にとっても都合がよかったかもしれない。レイフ様の顔をまじまじと見ながらでは発せられなかった私の言葉がするりと零れる。
「常駐の研究員と聞かされたのですが。それはつまり、毎日一緒に過ごすということですか?」
「え、ええ。そういうことに、なりますね」
少しだけ答えづらそうにレイフ様が返事をする。
「以前のように、実験室を片付けたり、書棚を整理したり、休憩用の紅茶を淹れたり、それからたまにお食事を用意してみたり、雑談を交わしたり。そういったことも、続けた方がよいでしょうか?」
するとレイフ様は何かを考えるようにしばし口を噤んでいた。
「もちろん、そういうのが嫌であれば、レーナ様には拒否する権利も」
「そっ、そういう意味ではなく」
また、見当違いの方向へ気を使っていたらしいレイフ様の言葉を制して、私は続ける。
「本当に、それでいいんでしょうか……」
「え……?」
「今私が言ったたことは全部、その……、私の趣味のようなもので。私が少しでもレイフ様の手助けをしたくて。私がやりたくてやっていることばかりです。とても、これまで私が受けてきた王族の恩恵の対価とは……。私が果たすべき義務というには余りに私にとって、都合がよすぎるのではないかと、思ってしまいます」
分かってはいるのだ。私はレイフ様にあんな風に弱い姿を見せた。助けてほしいと、直接的な言葉を口にはしていないけれど、あれでは自らの本心を。本当は見せてはいけなかった身勝手な内側を吐露してしまったようなものだ。それを見て助けてくれた人物に対して、今度は享受できそうな幸福が不安だと口にする。本当に私は、彼に甘えてばかりの、どうしようもない元王女である。
複雑な心境だった私に、レイフ様が目を合わせないまま口を開く。
「僕が、レーナ様のことを欲しいと言ったんです」
「へっ?」
「国王の前で、第五王女、レーナ・アイブライト様をくださいと言いました」
もう一度、丁寧に言い直されたレイフ様の言葉をようやく頭が理解して、私は瞬間的に顔が熱くなるのを感じた。
「ほしっ、え!? それ、どういう」
その時、そっぽを向いているレイフ様の耳も私に負けないくらい真っ赤になっていることに私は気づいた。けれど、私の動揺も、自身の羞恥も。おそらく言葉を発する前からこうなることは織り込み済みだったのだろう。レイフ様は何事もなかったかのように続ける。
「形式上、レーナ様にはこれから、僕のものになってもらうということです。…………………非常に恥ずかしい言い方をすると」
「……っ」
今度こそ私は耐えられなくなった。湯気が出そうな顔を両手で覆う私とは裏腹にレイフ様はいくらか落ち着きを取り戻した声を発する。
「幸いなことに今、アイブライト王朝は僕との関係性を、オレガノ王国との関係と同じくらい重要だと考えてくれているみたいです。僕の発言には力があります。つまり、レーナ様からしてみれば、相手が王族なのか、アルベルト殿下なのか、あるいは僕なのか、という問題だけで。どの選択肢をとっても何かに縛られて、自由を奪われていることに変わりはありません。それが、国のための対価です。レーナ様は十分に、義務を果たされていると思います」
もちろん僕はレーナ様に何かを強要するつもりはありませんが、と最後に小さな声で付け足される。最後に、私の瞳をしっかり見上げながら告げた。
「僕の気持ちを……。あ、いえ……。つまり、今、僕をアイブライト王朝に引き留めているのはレーナ様で。僕を国に引き留められるということは、それだけで十分義務を全うしていることになるとは思えませんか?」
やっぱり、レイフ様は本当にお優しい。レイフ様はこうやって、私が彼の下にいていい理由までつくってくれようとしている。私は多分今、そんな彼の優しさを拒否するのではなく、いつか彼の研究の役に立つことで、彼の優しさに報いなければならないのだと、そんな思考が頭を過った。
「だから、決して強制はできませんが……」
そこで言葉を切って、長い間逡巡するように瞳をせわしなく動かしてから。
「レーナ様は僕をずっとここに引き留めていてください。それがレーナ様に課される新しい義務です。つまり……、ずっと僕のそばにいてください」
「……」
ずっと、傍に。そんな嘘みたいな言葉が、最後、消え入りそうなボリュームではあったけれど、私の鼓膜を震わせた気がした。
「もっ、もしレーナ様がいいなら、少し、このまま休むことにします」
それだけを告げると、レイフ様は再び体の向きを変える。どこか母親に甘えるみたいに、今度は私のお腹の方へ顔を向けていた。
「レイフ様。今のお言葉をもう一度。少し聞こえづらかったので」
「――っ」
慌てて狸寝入りを始めたレイフ様の様子が少し可笑しくて、くすりと笑みを零す。彼の肩を軽く押して、こてんと身体を仰向けにさせると、その顔は、私が予想したとおり、真っ赤に染まっていた。リクエストなど聞こえなかったとでも言いたげに、ぎゅっと固く目を瞑って、返事をしてくれそうな雰囲気はない。時々こうやって年相応の姿を見せるのだから、彼はずるい。
その姿に、私はもう一度くすりと笑みを零してから、その柔らかな黒髪に指を通した。
「本当に、しようがない人」
そばにいてください。
誰かに必要とされたい。誰かの役に立ちたい。ずっとそんな願望を心に秘めてきた私にとってそれは、いつか誰かに心の底から掛けてほしかった言葉である。こうも適切なタイミングで、それも無自覚に言葉にされるなんて。この人は本当に人たらしだ。エイノ様も、彼のこういうところに惹かれるのかもしれない。
そんなことを考えながら、いくらかレイフ様の黒髪を弄んでいると、やがて彼の口元からは、スゥスゥと規則的な寝息が聞こえ始めた。その顔をもう一度まじまじと眺めて、どうしようもない愛おしさを、私は実感する。
ふと、とある衝動が頭を過って、私はそれを抑えられなくなる。そして、完全に彼が寝入ってしまっていることをもう一度念入りに確認してから――。
私は、その額にそっと控えめなキスを落とした。
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完結です。最後までご覧になってくださった方々、本当にありがとうございました。
少しでも面白いと思ってくださった方々がいらっしゃいましたら、☆評価、コメント等いただけますと筆者は大変うれしく思います。
じゅようときょうきゅう~天才魔法技術師と箱庭の王女様は今日も互いに求めあっています~ 無味乾燥 @kenbho
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