あったかいんだから。
鈴トラ
第1話
「ただいま」と玄関を開けても「おかえり」と帰ってくる言葉はない。薄暗く少し冷えてる部屋に夕食の温かい湯気やご飯の匂いはない。部屋干ししてある洗濯物から洗剤の匂いがするだけだった。
三つ離れた妹のミホとランドセルを並べて歩く帰り道は、近所の家から風に乗って美味しそうなご飯の匂いが泳いでいた。
「カレーの匂いだ」
「餃子の匂いもするね」
そんなことを話しながら歩く帰路。
僕の家の小さい食卓には緑のたぬきがひとつと冷たいおむすびがふたつ。
ひとり親の僕たちはいつもふたりの夕食。不思議と不満はなかった。
『仲良く食べてね』母の書き置きには下手くそなマルちゃんの似顔絵付きで
、ミホと戯れあいながら作る夕食は楽しかった。
「お湯沸かしてくるから、あとミホやっといて」
いつの間にかお湯当番はお兄ちゃんの僕。お椀を並べて袋から開けるのはミホになっていた。ままごとのような我が家の夕食はミホのお気に入りだった。
ケトルの細い湯気が白く一本線を描くと、部屋が暖かくなる。
「お兄ちゃん見て、きれいに割れたよ」
「すごいな、みほ」
かき揚げをお煎餅を割るようにぱりっと割る。半分個にするのが上手になってきた。半分個にしたかき揚げを二つ並べたお碗に入れた。
「美味しくなあれ、美味しくなあれ」
仕上げは二人で呪文を唱えながら、ゆっくりお湯を注いだ。
あれから十五年。
社会人になって一人暮らしを始めた。働いて、働いて、夜は終電が当たり前で家事をする時間は当然なかった。絵に描いたような独身男の日常は疎かで冷蔵庫は財布より空っぽだ。お金がないより、時間がない。食べずに眠ってしまう事もよくある。
泥のように疲れ果てた金曜日。前屈みでアパートの階段を登ると玄関先で膝を抱えているミホが居た。驚いて思わず小走りで駆け寄った。
「どうしたんだよ」
「ちょっとね」
久しぶりに会う、リクルートスーツを着た妹は疲れて見えた。推察するときっとこうだ。就活で心が折れたのだろう。プレッシャーと焦りに押し潰されたのかもしれない。母さんに心配をかけられないから僕のところに来たのだと思った。
僕の部屋は冷たく、部屋干しの洗濯から洗剤の匂いがするだけの殺風景。
「なんか懐かしいな」
ミホの一言に幼い記憶が蘇り、電気のスイッチを入れたように思いついた。
「そうだ、飯まだだろ」
いつかに買った緑のたぬきがあったはず。コンビニの袋を漁るとひとつ出てきた。
「これ、食うか?一個しかないけど」
「うん!半分個だよね」
花が一瞬で満開になったような、相変わらずの無邪気な笑顔が戻ってきて安堵する。
「私やるから、お兄ちゃんお湯、お湯」
「はい、はい」
昔みたいにかき揚げを半分に割るミホの横顔はいつまで経っても変わらない。でも少し綺麗になったかな。
「見て見てお兄ちゃん。きれいに割れたよ」
「本当だ、うまいな」
「お兄ちゃん呪文!」
「やるのかよ」
「当たり前、せいの」
僕は照れながら、ミホは無邪気に二人で呪文を唱えた。
「美味しくなあれ、美味しくなあれ」
懐かしい思い出を蘇らせるように、ゆっくりお湯を注いだ。
「いただきます」
殺風景の部屋に響く声。お椀の湯気が温かい。同時に啜る緑のたぬきは相変わらず美味しい。でも今日は少し美味しいかな。
体に染み込む暖かさが、今日の一杯も記憶に染み込むんだ。
あったかいんだから。 鈴トラ @menzukuri
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