かんのむし
八白 嘘
かんのむし
友人を、仮にAとする。
いまから僕が述べるのは、Aの母親から聞いた話だ。
けれど、その前に、Aがどういう人物なのかを僕から説明しておこうと思う。
Aは癇癪持ちだった。
性格が悪い、というより、感情の抑制ができないと言ったほうが近い。
なにかにつけ、人に当たる。物に当たる。小学生のとき、低学年の子に思いきり手を上げて、救急車を呼ぶ騒ぎになったことをよく覚えている。小競り合いを含めれば、それこそ枚挙にいとまがないことだろう。
当然、僕や他の友人たちも、Aからは距離を置いていた。いじめとはまた違う距離感だ。どちらかと言うと、天災に対する恐怖や畏怖に近かったように思う。つまり僕たちは、Aのことを、ひとりの人間として見なしていなかったのだ。
Aは孤独な小学校時代を過ごした。
その寂しさがAの悪行を加速させていると知りつつも、関わり合いになろうだなんて、誰も思わなかった。
中学二年の初夏、近所である事件が起きた。
飼い犬の連続虐殺事件。
外飼いの犬が腹を裂かれて殺される、という事件が多発したのだ。
誰が最初に言い出したのかはわからないが、Aが犯人だという噂が立ったのは、ごく自然な流れだったろう。
ある日の深夜のことだ。
テスト勉強をしていた僕がふと窓の外に目を向けると、斜向かいの家の前で蠢くものがあった。
大人の男性。それも、かなりの肥満体に見えた。
僕は大して気にも留めず、勉強を再開した。
翌日、斜向かいの飼い犬が惨殺死体で見つかった。
僕は犯人を見た。
そして、それはAではない。
ヒーロー気分でそれを吹聴して回った。
数日後、犯人が捕まった。
顔こそ新聞に載っていなかったものの、Aでないことは明白だった。
Aが僕についてまわるようになったのは、それからだ。
最初は鬱陶しく思っていたのだが、いざ話してみれば、拍子抜けなくらい普通の男子中学生だった。かつての荒れようが嘘のようだ、と思った。
僕とAは間もなく互いの家を行き来するようになり、夏休みを共に過ごし、気がつけば親友になっていた。
Aの癇癪は、もう治ったのだ。
そう思っていた。
ただ、当時、ひとつだけ気になることがあった。
Aの持っているゲーム機のコントローラーが、いつも新品のように思えたのだ。
Aは、コントローラーの裏側に自分の名前を書いていたのだが、その歪み方が、毎回変わっているような──
その違和感が気のせいではなく、また、新品になっていたものがコントローラーだけでなかったことを知るのは、それから数年の後になる。
ここから先が、Aの母親から聞いた話となる。
Aは癇癪持ちだった。
それも、僕の知るよりずっとずっと異常なほどの。
小学校時代、Aの癇癪は家の外に向けられていた。
何故なら、家の内側に向けるには力不足だったから。
中学時代、Aの癇癪は収まったように、僕には思えていた。
それが何故なのか、Aの母親は教えてくれた。
夏には不似合いな長袖を、めくることで。
僕が見たものを、あえて説明はするまい。
おかしいとは思っていたのだ。引っ越したてのように家具の少ない、がらんとした屋内。いつも目立たないように包帯を巻いていた母親。休日にも関わらず、一度も顔を見たことのない父親。
僕は、単に、目を背けていただけなのかもしれない。
親友と呼べるまでになった友人が、蛮行を繰り返している事実から。
しかし、気づいていたとして、僕になにができただろう。
止めることが、できただろうか。
話を戻す。
Aの母親は、息子に包丁で肩を刺されたとき、ようやく悟ったのだそうだ。
このままでは殺される。
息子は、もう、どうにもならない。
認めるのが遅いだろうと僕は思ったが、それが母の愛──というより、親の欲目というものなのかもしれない。
母親には、ひとつだけ思い当たる方法があった。
かんのむし、である。
いわゆる民間療法のひとつで、主に夜泣きや癇癪のひどい赤ん坊に行われるものだ。手のひらに梵字を書き、粗塩でもみ洗いをする。そして、しばらくすると、指先から白い糸のようなものが出てくる。これをかんのむしと呼ぶ。
かんのむしを抜かれた赤ん坊は、嘘のように夜泣きをしなくなるという。
それくらいのことは、僕でも知っていた。
「──でも、それは迷信でしょう?」
僕は、勇気を出してAの母親に言った。
Aの母親は、微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「違うわ。
かんのむしは本当なの。
本当のことなの。
だって──」
母親は、そこで言葉を止め、ぽつぽつと続きを語り始めた。
Aの両親は、Aのかんのむしを抜くため、母方の実家へと向かった。Aには、単に帰省とだけ告げていたらしい。
深夜となり、虫出しのできるという近所のお婆さんと、あらかじめ手配してあった青年団の若い衆が、門戸を叩いた。
Aはその時点でなにかを察したらしく、ひどく暴れたそうだ。
若い衆が五、六人、総出でかかっても止められないほどに。
かんのむしを抜くときは、落ち着いた状態で行うのが良いとされる。
お婆さんが「これは無理かもしれない」とこぼしたとき、Aの母親は決意した。
母親は、花瓶を持ち上げると、Aの頭を思いきり打ち据えたそうだ。
何度も、何度も。
気絶するまで。
誰にも、止められなかったそうだ。
Aが気を失ったことで、ようやく虫出しが始まった。
ぐったりしているAの手のひらに梵字を書き、粗塩で揉む。
しかし、かんのむしは出てこない。
何度か繰り返すが、それでも出てこない。
奇妙に思ってAの手をよく見ると、
人差し指の先が、奇妙に膨れ上がっていた。
母親が、恐る恐るAの指先に触れる。
「あア、あっぁぁああァあアぁあああああ──」
目を覚ましたのか、Aが悲鳴を上げた。
そして、
指先から、
生爪を剥がしながら、
指より何倍も太いなにかが、
──ずるん、
と姿を現した。
それは、まるで、両端がしっぽになっている真っ白な蛇のようだったという。
皆が絶叫し、我を失っているあいだに、かんのむしは消えてしまった。
生爪の剥がれたAだけを残して。
「これでぜんぶ」
Aの母親は、すっきりとした顔でそう締めた。
「……あの、こんなこと言うの、なんですけど。冗談ですよね?」
「Aに会えばわかるわ」
Aの母親が、二階の息子の名を呼んだ。
足音は、すぐにした。
降りてきたのは、Aだった。
その額には、ガーゼが当てられていた。まるで腫れを隠しているかのように。
右手の人差し指には、包帯が巻かれていた。まるで生爪が剥がれたかのように。
「──……A」
僕は、思わず、Aの名を呼んだ。
「あイ!」
Aが無邪気に手を上げる。
よだれまみれの顔を、くしゃくしゃに歪ませて。
「……もっと早くにこうしておけばよかったなって思うの」
母親が、Aを自分の膝へと導く。
Aは、自分の親指をくわえながら、幸せそうな顔で寝転んだ。
僕には、それが、ひどくおぞましいものに見えた。
それ以来、Aの家には行っていない。
かんのむし 八白 嘘 @neargarden
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