竿老

壬生 葵

竿老



 斉の張起は釣りに一端の覚えがあった。

 幼年は黄河に向かって竿を振り、青年にあっては旅して淮・江へ糸を垂らし、その帰郷に当たっては海へ針を投じ、当地の漁民が手を焼いた大物を次々と釣り上げてきた。黄河の老亀、淮河の麗鯉に長江の大鯰、海の未知なる魚介……いずれの獲物も彼にとって誇るべき勲章である。故国にて壮年を迎えた彼は「四海に自分以上の釣り人は居るまい」と、口には出さずとも内心豪語する程に意気盛んであった。

 そんな彼はある時、西方から訪ねてくる商人の間で妙な噂が流れているのを聞く。

「あれは仙人ではなかろうか」

「いや、世俗を憂う知識人であろう。大方、かの太公呂尚の真似事をしているだけさ」

 長起は商人の一人を捕まえて話を聞くに、どうやらはるか西方の渭水のほとりに釣りの名人がいるらしい。何でもその名人は釣り針を用いず、水面に糸を垂らしただけで魚がその先端を咥えに寄ってくるという。

「釣り人ならではの釣り針が大きな与太話だ」と彼はせせら笑った。各地を周遊し、漁の達人としのぎを削った彼にとっては取るに足らない与太話としか思えなかった。

 その日の夜、張起は夢を見た。眼前には深山幽谷を流れる川の風景が広がり、そのほとりの苔むした岩の上で、一人の老人が佇んでいるのが見えた。張起は老人に対し、霞のような儚さと巌の如き静かな威容を両立した不思議な印象を抱く。

(幽鬼の類か、それとも……)

 老人は相対してもなお沈黙している。張起が言葉を発そうと口を開いた途端、一陣の風が谷に吹き込み、肌を撫でた。

「うっ」

 風が二人の間を駆け抜けた後、老人が唸ってビクッと身を震わす。何事かと様子をよく観察してみると、水面に白濁した液体が飛び、靄のように中へ溶け消えたのが見えた。

「爺さん何してんだ!?」と張起は思わず声を荒げる。

 老人は着衣の裾から局部を露出させていた。枯れた佇まいからは想像もつかぬ、瑞々しく雄々しき逸物は鈴口から先の残滓を垂らしている。

「何って、餌撒きさ」

「えっ?」

 老人の意を問いただす間もなく、水面がざわついたのを彼は感じ取った。沸々と小さな気配が寄り集まり、その奥にとんでもない大物が控えていると、彼は長年の経験で瞬時に理解した。

「見てな」

 老人は釣り竿を振り、糸の先を水面へ投じた。無論、それには重りも針も付いていない。そんな竿をいくら振ったところで、糸先は風に吹かれて水面に落ちることさえ叶わぬはずなのに、糸はまっすぐ水面に刺さり、流れに逆らっている。ちなみに老人の局部はなお風に晒されたままだ。

「来た」

 老人は静かにそう呟くと、股間の竿をピクリと跳ね上げさせるのと同時に釣り竿を振り上げる。

 ザバンと大きなしぶきと共に、人の体躯五つ分はありそうなほどの巨大な鯉が姿を現した。

「うおおっ!」

 顔に水しぶきがかかるのも厭わず、張起はその刹那の光景に見惚れた。鯉が再び大しぶきを上げて水中に落ちた後、川は元通りの静けさを取り戻す。夢にあってなお夢を見ている心地であった。

「来たれ。竿の極意を授けてやろう」

 老人はそう告げると、風に乗って深山の果てへ消えていった。景色はだんだんとおぼろげになり、次に意識が戻った時、見慣れた天井が目の前にあった。股間が濡れている。彼は夢精していた。

 ぼんやりした目覚めの中で、張起は何やら頭の中枢に刻み込まれた感覚を抱いた。行ったこともない場所への道のりが次々と浮かんでくる。

 その日の内に張起は旅支度して街を出た。旅立つ彼を見た人曰く「まるで何かに取り憑かれたようであった」と。

 それからしばらく彼の姿を見た者はいなかったが、十余年経った頃、渭水の源流がある鳥鼠山の奥深き地にて、それらしき人物が川の流れに「竿」を垂らしているのを目撃されている。



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