カタチの形―機捜112―

秋原 シン

第1話_正義の形

 春のうららの隅田川。たしかこれは滝廉太郎だっただろうか。必要もないのに古い記憶の底の知識を引っ張り出しながら、目の前にそびえ立つ建物を見上げた。

わざわざ『花』の歌詞を出したものの、ここには隅田川はおろか、満開の桜の木すらもがない。それでも春らしさを感じるには十分に温かい、ある晴れた日の朝。笠間景かさま けいは、警視庁第一機動捜査隊へとやってきた。


そもそも機動捜査隊とはなにか。最近ドラマでも取り上げられているため知っている人もいるかもしれないが、その名の通り、機動力を売りにした警察組織だ。普段は覆面車で管轄内のパトロール(隊員の間では密行と呼ばれる)を行い、緊急通報が入れば直ちに現場に急行して初動捜査を行う。英語名を『Mobile Investigation Unit』、略称を『MIU』、『機捜』などと呼ぶことが多い。昔は定年間際のベテラン刑事が任命されることが多かったようだが、今は二、三十代くらいの若手刑事が多く起用される傾向にあり、血気盛んな奴ばかり。功績を上げれば上の方の刑事部に引っ張っていかれることもあるため、『捜査一課への登竜門』と呼ばれているくらいだ。出世競争は激しいし、職務の内容そのものも過酷だ。戦場と言っても過言ではないだろう。

そんな機捜だが、警視庁には第一機捜から第三機捜まで3つの隊が存在しており、それぞれ担当する区間が決められている。例えば一機捜であれは東京都の東側を、二機捜なら西側を、三機捜なら多摩地域などその他のエリアを管轄しており、三隊合わせて、東京都全域を管轄する仕組みになっているのだ。


ここで、話を冒頭に戻そう。笠間は、一機捜の本部がある新橋庁舎の前に立っていた。愛宕あたご署裏にあるそこは、交通管理センターが設置されていることもあって結構でかい。また、最近改装工事が行われたことによって設備も新しく、働く場としては文句なしだ。

が、それを見上げる笠間の顔は、この春の陽気とは正反対に暗く沈んでいる。というのも、笠間はこの仕事に魅力もやりがいも感じていなかったのだ。

いや、正確には少し違うのかもしれない。笠間はもともと、三機捜所属の新米刑事だった。それも、異例の速さで配属され、期待の新星と讃えられた、ちょっとした有名人の。配属当初はやる気に満ち溢れ、行動力や忍耐力を活かして犯人を次々と検挙していった。それを見て周囲はさらに期待するようになり、それに比例するように、同僚の隊員たちの熱意も上がっていった。はたから見れば、切磋琢磨できる理想的な関係だろう。

その熱意が、犯人検挙に向けられていたら、の話だが。

先程も言ったように、機捜は捜査一課への登竜門だ。配属されて数年にもなれば、嫌でもそれを意識してしまう。突然現れた若手に、捜一行きの切符を取られてなるものかと、隊員たちは躍起になった。それに疲れてしまったのだ。笠間が手柄を上げれば上げるほど、彼らの視線は冷たくなる。いつの間にか、笠間は他の隊員にとって、まるで憎むべき敵のような存在になってしまった。

それを心底くだらないと思った。

いつしか笠間は、自分が当初抱いていたやる気や正義感さえもくだらないと思うようになってしまった。こんな出世競争にしか目がない奴らの中で、頑張る方がどうかしている。どうせ努力は報われない。出世欲丸出しの奴らが守る治安など、本当の平和とは思えない。仲が良かった相棒も、笠間が冷めたとわかるやいなや疎ましいものを扱うように接し始めた。彼にとっても笠間は、出世の道具でしかなかったのだ。その時にはもう、それに幻滅できるほど彼らに期待などしていなかった。

笠間の周りには人がいなくなり、所属する班にも気まずい空気が流れ始めた。このままでは隊全体のやる気が削がれる。そう判断した三機捜隊長の手によって、笠間は春の移動で一機捜に飛ばされたということだ。いや、『飛ばされた』という表現は適切ではないかもしれない。一機捜は六本木や築地など、都心での仕事が多い。それだけに犯罪件数が増え、手柄も立てやすくなる。一見横移動だが、その実、上への移動と言ってもおかしくない。やる気を出しやすい環境で頑張れと、そういうことなのだろう。

いい迷惑だった。どうせ隊が違っても、機捜の本質は変わらない。出世競争に巻き込まれるのは御免だし、それをしている奴らの中で働くこと自体憂鬱でしかなかった。そんなところでやる気を出せと言われても、無理な話だ。


ふと腕時計に目をやると、もうまもなく八時になろうとしているところだった。機捜が密行を始める時間は午前9時であるため、今から行けば分駐所――機捜隊員が休憩や仮眠をとる場所――で休むくらいの余裕はある。が、今日は着任の挨拶などをしなくてはならず、そんな暇などないだろう。ひとつため息を漏らしてからようやく覚悟を決め、庁舎の中に足を踏み入れた。



流石に改築してすぐということもあり、廊下も壁も清潔感があって美しい。タバコを押し付けた跡や、壁紙が剥がれている箇所もなく、手入れが行き届いていることがわかる。ガラス張りの窓から見えるのは、向かいの愛宕署。ちらほらと制服姿の警察官が見え、同時にスーツに身を包んだ刑事らしき人間も歩いていた。

皮肉だな。口元に嘲笑を浮かべながら、笠間は思う。所轄の刑事は、本庁――つまり警視庁の所属になることを目指している人間が圧倒的に多い。本庁が偉いとかそういうことはないが、やはり憧れを抱いてしまうものなのだ。

対して機捜は、警視庁が直接管理・運営している組織だ。要するに機捜隊員は本庁の人間というカテゴリに入るわけで、彼らの本部がある新橋庁舎は、所轄刑事にとって鼻面の前にぶら下げられた人参も同然。欲しくても手に入らない、そのもどかしさを感じ続けることになるのだ。ここに一機捜の本部を設置したやつは、それを考えなかったのだろうか。

まあ、だからどうということもないのだが。所轄のそういう事情など、今の自分とは関係ない。考えるだけ無駄というものだ。 


そうこうするうちに、とうとう一機捜の本部へとたどり着いてしまった。慣れない場所であるせいか、どうしても身構えてしまう。ひとつ息を吐いて姿勢を正し、目の前の扉を開けて、中へ足を踏み入れた。

まず目指すは隊長室。時折すれ違う隊員たちに目線で会釈しながら、一目でそれとわかる部屋の前に進む。若手が集まる機捜だが、隊長や班長はベテラン刑事が務めることが多い。すなわちそれは立場的にも階級的にも上司に当たるということであり、だからいつも、隊長室に入る前は緊張してしまう。一度呼吸を整えてから、右の拳で扉をノックする。すぐに中から返事が聞こえてきて、部屋に入ることを促された。声的にはまだ年老いているわけではなさそうだ。一体どんな人物だろうと思いながら、ゆっくりと扉を開けた。


「やあ笠間くん、待っていたよ。」


部屋に入るなり、先程と寸分違わない声で歓迎された。机に向かう男は、想像していたよりも若い。50代か、下手をすればその手前。三機捜の隊長がかなり年を食った人だっただけに、笠間にとっては衝撃だった。


「一機捜隊長の兼森かねもりだ。君のことは、三機捜の隊長から聞いている。優秀な隊員だったそうじゃないか。ここでの活躍を、期待しているよ。」


一見強面の兼森は、見た目に反して穏やかな喋り方をしている。そのことにも軽く驚きつつ、ありがとうございます、と言って頭を下げた。そんな静かな反応を意外に思ったのか、兼森の片眉がひょいと持ち上がり、口がキュッとすぼまる。が、それも一瞬のことで、すぐに納得したようにうなずいて、再び穏やかな笑みを浮かべた。

なんとなく胡散臭い。何を考えているのか知らないが、今の笠間にとって『優秀だった』は嫌味でしかないだろう。そして、隊長という要職の人間が、常にニコニコしているのもあまり良いこととは思えない。この隊長とは、うまく付き合っていける自信がなかった。


と、背後の扉からコンコン、と軽いノックの音がした。どうぞ、という兼森の声に扉を開けたのは、一人の男性。灰色のTシャツにゴワッとした緑色の上着を羽織った彼は、おそらく機捜隊員だろう。年齢は、兼森とさして変わらないように見える。部屋に入ってきた男は、一瞬笠間のことを驚いたように見てから、兼森の方に向かって口を開いた。


「彼が例の…?」


男の言葉を受けて、兼森が一つうなずく。そして、視線を再び笠間の方に向けて、明るい声で言った。


「紹介しよう。彼は、君が所属する班の班長の駿河するがだ。」


「よろしくな笠間。わかんないことはバシバシ聞けよ?」


朗らかに笑う駿河の雰囲気は、兼森とどこか似ている。仕事終わりに酒に誘ってくるタイプの上司だろう。飲みに行くのが嫌いなわけではないが、こういう中年のおじさんについていくと碌なことにならない。一応用心しておこうと、顔には出さずとも心のなかで思った。


「駿河は私の古くからの友人でね。なにか困ったことがあったら、彼に相談するといい。」


「……わかりました。」


返答しながらも、笠間は密かに憂鬱な気分になっていた。一機捜はこういう奴らばかりなのだろうか。兼森も駿河も始終笑っているし、なんというか締まりがない。厳しいことを望むわけではないが、アットホームすぎるのも考えものだろう。


そんな笠間の気持ちを知ってか知らずか、駿河が肩をポンポンと叩いてから扉を示す。そろそろ行こうと、そういうことだろう。時計を見ると、いつの間にか半を回っていた。これから班のメンバーに挨拶することも考えると、確かにもう行かなくては時間が無くなりそうだった。


「じゃ、失礼します。」


駿河の軽い一言とともに、笠間は隊長室を後にする。背後で扉が閉まる音を聞くと、ようやく体の力を抜けた。いくら穏やかそうな上司だったとはいえ、緊張しない方が難しい。すると、横から駿河の笑い含みの声が飛んできた。


「なんだ笠間、堅苦しいな。もうちょっと楽にしろ楽に。取って食おうとするやつなんていねぇからよ。」


「………。」


そんなことを言われても。別に、この部屋の空気に緊張しているわけではない。むしろ緩みきったゴムのような感じで、やる気が出てこないのだ。そんななかでは緊張もクソもあるわけがない。特に気の利いた返しも見つからずに沈黙していると、駿河は少し不思議そうな顔でこちらを見た。


「なんか話に聞いてたのと違うな。風邪でも引いたか?」


「……はい?」


最初の言葉に引っかかりを覚えて、笠間はうつむきかけていた顔を上げる。が、駿河はこちらの方など見ておらず、どこか独り言のような口調で先を続けた。


「兼森から、やる気ある優秀な隊員が来るって聞いてたんだ。でも実際会ってみると元気ねぇしよ、なんかあったのかと思ってな。」


駿河の言葉に、心の奥底の方で苛立ちが燻るのがわかった。

『やる気ある優秀な隊員』?笑わせるな。今の笠間のどこを見たらそんなことが言えるのか、ぜひ聞いてみたいものだ。

大方、引取先が見つからなくてそんな嘘を言ったのだろう。駿河には悪いが、笠間はやる気など欠片もない。いいお荷物になることがわかりきっているだけに、言葉を返すこともしなかった。が、そんな態度にも慣れたのか、はたまた本当に独り言だったのか、駿河は気にする風もなく口を開く。


「まあ安心しろ、ここにはいい奴らしかいない。今日の任務が終わる頃には、元気も出るだろうよ。」


それはどうですかね。

心のなかで皮肉めいた言葉を返す。いい奴らといっても、その実態はなんとなく想像がつく。周りからはやる気に満ちた人物に見えても、その実出世にしか興味がない奴などごまんと居るだろう。現に、今まで笠間はそういう環境にいたし、ここが違うという保証はない。それを知っているのかいないのか。知らないのだとしたら、この駿河はよっぽどおめでたいやつなのだろう。それでよく、班長が務まるものだ。


ふと、駿河が一つの部屋の前で足を止めた。上に設置されているプレートには、『第一機動捜査隊 分駐所』という文字。なるほどここが、と笠間はひとり納得する。他の部屋と同じように、ここも清潔感があって見た目はきれいだ。

一緒に部屋の中に入るなり、駿河が声を張り上げた。


「はい全員一旦こっち向けー」


太く張りのある声に、部屋の中にいた隊員たちが一斉に駿河の方を向いた。皆キョトンとした顔をしている者もいれば、声がでかい、とでも言いたげに苦笑を浮かべる者もいて、反応は様々だ。


「新人を紹介する。ほら、前出ろ。」


駿河に促されて、笠間は一歩足を踏み出す。そして、できる限り平坦な声で名を名乗り始めた。


「笠間景です。本日付で、一機捜駿河班に配属されました。よろしくお願いします。」


頭を下げると、パラパラと沸き起こる拍手。そこからは戸惑いの色が垣間見えた。それはそうだろう。隊長から聞いていたのとは全く違う人物像の隊員が現れたら、誰だってそうなる。

まばらな拍手が止むと、再び駿河が口を開いた。


「笠間が言ったように、こいつは第一方面…まあ俺の班だな。そこの所属になる。慣れないこともあるだろうから、みんな助けてやってくれ。」


力強い声に、今度は統一感のある返事が聞こえてくる。やはり、笠間はここに馴染めない。笠間の言葉への反応と、駿河の言葉への反応の違いが、それを物語っている。隊員たちと心を通わせるつもりなどないのだから、毛頭無理な話だ。


各々の仕事を再開させた隊員たちの中で、駿河が笠間に言った。


「お前の相棒を紹介する。こっちこい。」


駿河の言葉に、笠間は思わず呆気にとられた。相棒。すっかり忘れていた。どんなに他人との関わりを絶とうと思っても、相棒だけはそうはいかない。どんな相手だか知らないが、出世競争に巻き込まれるのだけはごめんだ。憂鬱の種が一つ増えたような気がして、駿河の後に続いて歩きながら、密かにげんなりと息を吐いた。


案内されたのは、一つのデスクだった。一人ノートパソコンに向かっていたらしい男が、笠間たちの気配に気づいたのか顔を上げる。そして、相手が駿河だとわかるやいなや、柔らかな笑みを口元に浮かべた。

その笑顔に、笠間は目を見開いた。

年の頃はだいたい三十代前半といったところだろう。若者特有のみずみずしさもありつつ、大人の余裕のようなものも纏っている。どことなく色気や、魅力的な雰囲気が感じられた。顔立ちも優しげで決して悪くない。世間一般からすればイケメンの部類に入るのだろうし、柔らかな目元や弧を描く薄い唇は、同性の笠間から見ても好ましく思えた。


「こいつが、今日からお前の相棒だ。あとは二人で適当にやってくれ。」


励ますような笑みを残して、駿河は別のデスクの方に行ってしまう。笠間は彼を引き止めたくなる気持ちを必死に抑えてその場に突っ立っていた。

初対面の、しかもえらく緊張しそうな相手とふたりきり。ここは地獄か?そうだよ地獄だよ。


不意に、目の前の男が立ち上がる。パソコンを閉じ、律儀にも机の中に椅子を入れてから、こちらに向かって穏やかな声を掛けた。


「はじめましてですね。今日から笠間さんと組むことになりました、32歳で巡査部長の、里見真さとみ まことです。里見でも真でも、好きなように呼んでください。よろしくお願いします。」


「は、い」


驚いた。どう見ても年上――笠間は現在26だ――の相手に敬語を使われ、なおかつ好きなように呼べと言われる。上下関係が割と厳しめだった三機捜にいた笠間にとって、これはなんだか調子が狂う。とにかくなにか言わなくてはと、必死に言葉を探して口を開いた。


「笠間景、26歳巡査部長です。その、いろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんが……」


よろしくおねがいします。この言葉は喉まで出かかって消えた。端から熱意のない自分が、まだ出世欲があるであろう相手に『よろしくおねがいします』?下手な茶番としか思えない。売れない芸人だってもう少し気の利いたネタを使える。言葉に詰まった笠間に、里見は一瞬不思議そうな顔になったものの、再び微笑みを浮かべて言った。


「そう固くならずに。長い付き合いになるのですから、もっと気楽に行きましょう?」


「…すみません。」


先輩に気を使わせてしまった感が否めない。他の奴らと線引をしても、こういう根本的な部分はどうしても変わらない。先輩の顔を立て、よいしょする。それが安全に出世するための鉄則だったし、知らないうちに、笠間にもそれが刻み込まれてしまったのだろう。自分のそういうところにも、笠間は既に辟易していた。


「さて、そろそろ出なくてはなりませんね。先に車に行っていますから、着替えてのんびり来てください。いつまでもスーツじゃ、気が休まらないでしょう。」


「…はい。ありがとうございます。」


笠間の鈍い反応に嫌な顔ひとつせず、里見は車の鍵と、記録用紙の挟み込まれたクリップボード片手に、すたすたと歩いていってしまう。またしても気を使わせてしまったことに申し訳無さを感じながら、笠間は自分に割り当てられたロッカーの方へ向かった。


まず、脱いだジャケットやスラックスをハンガーに掛け、代わりに黒いTシャツとジーンズを身につけた。その上にガンショルダーを装着し、点検と弾込めを済ませた拳銃や特殊警棒、インカム(イヤホン型の無線機で、隊員同士の連絡などに使う)などを装備する。さらにその上に、フード付きの紺色の上着を羽織って、警察手帳や手錠等、諸々のグッズを入れたら準備完了だ。

だんだん暖かくなってきた事もあって、この季節の上着は少々暑苦しい。それでも着るのは、ガンショルダーなどの装備品を一般市民の目から隠すためであった。先程の里見も、白いインナーの上に黒い上着を羽織っていた。班長の駿河も同様だ。


準備が整ったため、笠間も分駐所を後にして駐車場へ向かう。もうすぐ9時だ。急がないと遅れてしまうため、多少の小走りで廊下を駆け抜ける。初めての建物ということもあり、どこに何があるのかさっぱりわからない。駐車場まで行くのに、予想以上に時間を食ってしまった。

そういうわけで、ようやく目的地に着いたのは、あと数分で9時になろうかというぎりぎりの時間だった。似たようなデザインのスリーボックスカーがずらりと並ぶ中、幸いなことに里見が乗っている車はすぐに見つかり、笠間は軽く息を切らしながら助手席に身を滑り込ませた。


「すみません、遅れました。」


「お気になさらず。9時前に来たのですから、咎めるようなことは何もありませんよ。」


相変わらず穏やかな声で言う里見が、右手首をひねって車のキーを回す。すぐにエンジンが動き始める音がして、車が小刻みに振動する。笠間もまた右手を伸ばし、設置されている無線機のスイッチを起動させた。


「僕達のコールサインは112です。今日は麻布あたりの重点密行で、道を覚えるまで僕が運転します。」


横から里見が補足をしてくれた。ありがたい。今日が一機捜初任務である笠間にとって、慣れない部分は山ほどあるからだ。腕時計を見て、ちょうど9時になったところで無線機のマイクを手に取った。


「機捜112から一機捜本部。」


『機捜112、どうぞ。』


「これより麻生方面重点密行に入ります。どうぞ。」


『一機捜本部了解。』


「上出来です。」


笠間がマイクを戻すと、里見が柔らかい声で言う。同時に体が座席に押し付けられる感覚がして、笠間たちの乗る機捜車が発進した。



「時間はたっぷりありますし、とりあえず、お互いなにか自分のことを話していきませんか。」


駐車場を出てしばらくした後、唐突に里見がそう言い出した。助手席で周囲に視線を向けていた笠間は、反射的に里見の方へ顔を向ける。ハンドルを握り、正面を向いて運転する彼の顔にはやはり笑みが浮かんでおり、感情が読みにくい。一瞬だけこちらに視線を寄越すと、再び口を開いた。


「ほら、ずっと赤の他人のままではできるはずのこともできなくなってしまうでしょう?色々知ってみたいんですよ、笠間さんのこと。」


「あの…その『笠間さん』っていうの、やめませんか。」


「はい?」


キョトンとしたように、里見が言う。なんとなくそれに気まずさを覚えながらも、笠間は先を続けた。


「だって、里見さんは俺より年上でしょう。俺が敬語を使うのはわかりますが、里見さんが敬語を使う理由がわからない。笠間、と呼び捨てにしてしまえばいい話でしょう。」


「それを言うなら、あなたもですよ。僕と笠間さんは同じ階級ですが、あなたは僕に敬語を使っている。」


「そうですが…それとこれとは話が違うでしょう。」


「どうでしょうねぇ……」


どうにもやりにくい。そう思って笠間は内心でため息を吐く。里見は、のらりくらりとしているように見えて意外と頑固らしい。しかし、流石にこのままでは居心地が悪いため、どうにか変えてほしいところだった。どう言えば納得するだろうかと考えていると、でも、と里見の声が聞こえた。


「お互い敬語が抜けないということは、それだけ距離があるということでしょう。これからたくさん関わっていくことになるわけですから、いつの間にかなくなるものなのかもしれませんよ。」


「………。」


肯定も否定もせず、笠間はただ沈黙する。里見の言うことには一理あった。が、だとすればそんな日は永遠に来ないだろう。笠間は里見と馴れ合う気などない。今はこの距離感によって触れずに済んでいるが、里見にも手柄を上げて捜査一課に行きたいという欲があるはずだ。正義とは名ばかりで、検挙のために卑劣な手を使う里見を見たくはないし、手伝おうとは思わない。笠間にとっては、これくらいの距離感がちょうどよかった。

と、不意に里見がそっと息を吐いた。助手席に居る笠間にそれが聞こえないわけはなく、再び顔を里見に向ける。その目の前で、里見が口を開いて話し始めた。


「先程から元気がありませんが、何かあったんですか?無気力というかなんというか、もともとそういう人なんでしょうか。」


「……は?」


思わず、声に苛立ちが滲んだ。駿河からも言われたが、まさか里見にも同じことを言われるのだろうか。


「兼森隊長から聞いていたんです。新しく入ってくる隊員は、正義感が強く、熱意に溢れた優秀な奴だと。いったいどういう…」


「ふざけないでください」


気づいたときには、里見の声を遮っていた。抑えた声には自分でもはっきりと分かる程の怒りが垣間見え、里見がピタリと口を噤むのがわかる。そのまま勢いに乗せて、笠間はまくし立てるように言った。


「誰が言ったのか知りませんが、俺は熱意があるわけでも、優秀なわけでもない。周りの奴らが勝手にそう期待しただけです。正義感?熱意?本当にくだらないですね。こんな腐った組織の中で、そんなものを持っていても意味がない。はじめに言っておきますが、俺は手柄にも昇進にも興味がありません。そういうものが欲しいのだったら、さっさと相棒の解消を隊長に進言するべきです。」


言うだけ言って口を閉じると、車内になんともいたたまれない沈黙が降りた。里見は何も言わず、かといって笠間が口を開いてもろくなことにはならない。

と、ナイスタイミングと言ってしまうと不謹慎だが、ザザッと無線特有のノイズが車内に走った。


『警視庁から各局。港区元麻布にて、殺人未遂事案入電中。現場は、港区元麻布3丁目6-28。近隣住民からの通報。近い局は向かわれたい。』


「行きますよ。」


間髪を入れず里見が言う。それに一つうなずいてから、笠間は無線のマイクを取った。


「機捜112、東麻布から向かいます。」


『警視庁了解。』


返答を待ってマイクを元の位置に戻すと、今度は赤色灯――俗にパトランプと呼ばれているものを取り出し、窓からルーフに取り付ける。同時に足元にあるペダルを踏んだ。途端に鳴り響くけたたましいサイレンに、周囲の車両の運転手がぎょっとしたようにこちらを向いた。それはそうだろう。一般車だと思っていたものが突然、緊急車両(しかも警察の)へと姿を変えたのだから。


「はい緊急車両通ります。道を開けてください。」


マイクも使って警告すると、ゆっくりとだが道が開け始める。協力への感謝を言っている間にも、機捜車は先程よりも速度を上げて走行する。赤信号でさえも止まらない。緊急走行時のこのなんとも言えない感覚だけは、なんとなく気に入っていた。


「腐っているのは、あなたのほうじゃないですか?」


「え?」


サイレンが途切れるその一瞬、唐突に、里見が言った。反射的に問い返してしまったが、サイレンが鳴り響く中で会話ができようはずもない。それを知ってか、里見は首を振ったきり何も言わない。わざわざもう一度問い返すこともできず、釈然としない気持ちを抱えつつも、車窓から流れる景色をただ見るともなしに眺め続けた。



ようやく到着した現場には、所轄の刑事の手によって既に規制線が設けられていた。その直ぐ側に立っている制服警官は、笠間たちを見るなりテープの中程を持ち上げて通りやすいよう配慮してくれる。私服で一見一般人の機捜隊員だが、こういうときはきちんと腕章を身につけている。それさえあれば、現場のどこへでも入ることができるというわけだ。警官に一言礼を言ってから規制線の中に入り、インカムのマイクに向けて口を開く。


「機捜112現着。初動捜査始めます。」


本部に連絡を入れる笠間の横では、里見が器用にも片足で立ちながら、靴カバーを履いている。足跡や証拠品を消さないための配慮だ。現場保存が鉄則の現代、そういうものは欠かせない。


「さてと、やりますか。」


カバーを履き終えて体を起こした里見がつぶやき、それに同意するように笠間もうなずく。二人の視線の先は同じだった。


コンクリートの道路に広がる、真っ赤な血溜まり。


血液特有の金臭さがここまで届いてきて、笠間はそっと口元を白手袋を嵌めた手で覆う。機捜二年目になっても、この臭いにはいまだに慣れない。対して里見は、臆する素振りも見せずに血溜まりに近づいていく。それに気づいてか、近くにいた署員らしき男が声を掛けた。


「被害者は、身元不明の20代女性。刃物で胸部を刺された事により出血。意識はあるのですが、話せる状態ではなく、先程救急搬送されたばかりです。」


「なるほど。目撃者はいますか?」


「事件発生の瞬間を見た者はいませんが、その直後を目撃したのは何人か。あちらの方に待機してもらっています。」


「了解です。ありがとうございます。」


変わらず穏やかな声のまま署員とやり取りを交わした里見が、笠間の方を振り返る。


「話は聞いていましたね?あとから駿河さんも来ますから、鑑識作業は任せて目撃証言の聴取に行きましょう。」


「…はい。」


流石に先輩というか、テキパキと進めていく里見にはどことなく安心感があった。すたすたと歩く彼の後についていきながら、笠間は油断なく周囲に目を光らせる。小説やドラマでも度々言われることだが、『犯人は現場にとどまりたがる』。こういうところでの些細な記憶が、後に重要な鍵になることもあるのだ。

まさにセオリー通り。どうせこの後捜査一課に引き継ぐことになるのだから、このステップだけ黙々とこなせば、ここでの捜査は終了する。楽な仕事だと、当事者ながらそう思った。


聴取をしに目撃者が集められているあたりに向かうと、そこには先客がいた。体格のいい、スーツ姿の男たち。腕章を見ても、所轄の刑事で間違いないだろう。殺人事件というだけあって、空気がピリピリと張り詰めているのがわかる。そんな中でも、里見はブレなかった。お疲れさまです、と場違いなほど柔らかい声で話しかけ、一気に刑事たちの視線を集めた。


「機捜の者です。目撃証言の聴取に来たのですが、もしかしてお先にやられてた感じです?」


里見の言葉に、刑事の一人から鼻で笑うような声が聞こえる。次いで、それと同じ声質の持ち主があざ笑うように言った。


「ああそうだよ。後はこっちでやっておくから、あっち行ってろ。」


カチンと来る言い方だった。本来機捜と所轄は協力して初動捜査を行うべきだ。にもかかわらず、手柄の取り合いのようになって対立が生まれる。これだから、と笠間は盛大に息を吐いた。

が、里見は気分を害した風もなくにこやかに、そうですか、とだけ言って踵を返す。またしてもスタスタと歩き去ってしまう里見に、笠間は呆気に取られてその場に立ち尽くした。

いや、軽すぎるだろ。

もう少し苛立つとか、怒るとか、そういう感情を持ってもいいのではないだろうか。衝撃から立ち直れないままに里見の後を追い、規制線の外に出た。


「今回の所轄は随分とやる気ですね。助かります。」


笠間の前を歩く里見の声は、相変わらず柔らかい。段々と、彼の頭はお花畑なのではないかと思えてきた。あの発言はどう頑張ったって悪意しか感じられない。何をどんなふうに解釈したら、やる気があるというふうに捉えられるのだろうか。


「あの、この後どうすれば…?」


いま来た道をただ戻り続ける里見に、少々不安になって問いかける。まさか、このまま帰るだなんて言わないよな。


「どうするって、密行に戻りますよ。僕達の仕事は終わりました。」


「はぁ?」


あっけらかんと言い放つ里見に、思わず間抜けな声が出た。フラグ回収は華麗に決まったが、笠間の心の収集はつかない。もっと現場に未練のようなものはないのだろうか。


「今頃防カメのチェックは駿河さんたちがやっているでしょうし、聴取は所轄が頑張ってくれています。となれば、密行に戻るしかないでしょう。」


「いや、そうかもしれませんが…」


「それに」


笠間の言葉を遮って、里見が先を続ける。こうされるのは初めてのことだったので、大人しく口を閉じた。


「現場の状況を見る限り、犯人はたやすく一般市民に紛れ込むことが可能です。だから、もうとっくに現場を離れて遠くに行っている可能性が高い。」


「……どういうことです?」


里見の言っていることがよくわからなかった。普通刃物を使用した殺傷事件では、犯人に被害者の返り血がベッタリとつくはずだ。その状態で市井に紛れ込もうものなら、一瞬で通報されてゲームオーバー。愚かな行為としか言いようがない。いくらバカでも、そのくらいはわかるだろうに。そんな笠間の困惑を察したのか、里見が、よく見てください、と後ろを振り返った。


「あそこの血溜まり。被害者が倒れていたところから直線上に血の跡がある。どうしてかわかりますか?」


里見に言われて、笠間も背後を振り返る。被害者が倒れていたあたりは血に濡れててらてらと光っていたが、その先の方。きれいにまっすぐ、血の跡が残っていた。

はて、と笠間は首を傾げる。言われてみれば確かに妙だ。今までも何度か流血沙汰の事件に関わってきたが、あそこまできれいな血の跡は見たことがない。今までの事件と今回の事件、一体何が違うのだろう。沈黙して考えることしばし、ようやくその理由を閃くことができた。


「……犯人は被害者の正面にいなかったから、ですか?」


おそるおそる問いかけると、里見は我が意を得たり、と言わんばかりにうなずく。


「そのとおり。普通正面から刺したのなら、犯人が返り血を浴びることによって跡が歪みます。しかし、今回はそれがない。だからこう……」


言いながら里見が笠間の背後に回り込み、後ろから抱きつくようにして笠間の体の前に腕を回す。ちょうど、里見の右手が笠間の心臓の上にある状態だ。


「こんなふうに後ろから腕を伸ばして、被害者の胸を正面から刺したことになります。すると、返り血は腕の一部にしかかからない。血まみれになることもないから、堂々と街を歩けるというわけです。」


「な、るほど……」


そういうわけなので、行きますよ。そう言われてしまっては、もううなずくしかない。靴カバーを脱ぎながら里見の後を追い、再び規制線をくぐって外に出た。たったあれだけの時間でこの判断をできてしまうのは、やはり先輩だと言うべきか。


助手席に乗り込んで、ルーフに取り付けていた赤色灯を外す。そうしてしまえば、この車もただの車と変わらない。笠間がシートベルトを締めてすぐ、里見がアクセルを踏んで発進させた。


「先程の話の延長になりますが…」


ハンドルを握りながら、里見が言った。


「笠間さんは、犯人はそうやって逃走したと思いますか?」


「え?」


まさかそれを笠間に聞いてくるとは思わなかった。驚いて里見の方を向くと、先程までとは打って変わって真剣な表情が目に飛び込んでくる。『わかりません』は通用しない。直感的にそう思った。

それらしい考えはすぐに見つかった。自分で言うのもアレだが、日頃の鍛錬の賜物だろう。唇を湿らせてから、笠間は口を開く。


「…タクシーじゃないでしょうか。」


「なぜ?」


間髪入れず、里見の声が飛んでくる。それに一瞬焦ったものの、すでに答えは用意してあった。よどみなく、次の言葉を口にする。


「他人の目が最も少ない公共交通機関だから。バスでもいいですが、片腕を隠していればどうしても目立ちますし、監視カメラにも写ってしまいます。」


「なるほど、いい推理ですね。」


里見の返答に、笠間はほっと力を抜く。学校で先生に指名され、問題を解いた後のような安心感があった。


「このあたりはあまりタクシーが走っていませんから、国道の方に移動します。周囲の警戒、お願いしますね。」


「わかりました。」


うなずいて、笠間は再び周囲に目を走らせる。平日の昼間ということもあり、人通りもまばらだ。そんな中で歩いている人がいれば目立つし、挙動が怪しければより一層わかりやすい。正直、特に注意を払わなくても人目でわかるだろう。

それがわかっているのか、またしても里見が口を開いた。


「元麻布に臨場する前、僕があなたに言った台詞、覚えてます?」


「!」


さらっと持ち出された内容に、笠間は弾かれたように里見を見る。その横顔からは何も読み取る事ができず、質問の意図がわからない。大人しく、まあ、とうなずいて、顔を正面に戻した。


「『腐っているのはあなたの方』でしたっけ?」


「はい、そのとおりです。」


変わらない口調で、むしろ未だに微笑みを浮かべたまま、里見がうなずく。そのことに少々拍子抜けしながら、笠間はじっと沈黙する。この話を持ち出した理由がわからないから、下手に相槌を打つこともできないのだ。


「ひとつ聞きたいのですが、あなたは随分、出世欲旺盛な刑事を嫌っているようですね。なぜですか?」


「はい?」


投げかけられた質問の内容に、思わず聞き返してしまった。決して、質問の内容が理解できなかったわけではない。ただ、なぜそれをわざわざ聞くのかがわからなかったのだ。


「ずっと気になっていたんですよ。笠間さんは気づいていないかもしれませんが、あなたの言動は矛盾している。なぜそうなるのかが、不思議で仕方ないんです。」


「ちょ…っと待ってください、どういうことです?」


言っている意味がわからなかった。笠間の言動に矛盾?なにかそんな、矛盾が生まれるような発言をしただろうか。


「最初の質問に戻りましょうか。あなたが出世のことしか頭にない刑事を嫌うのはなぜですか。」


「えぇ…?」


話が全く読めなかった。思わず困惑した声を漏らしてしまったが、里見は助け舟を出してくれない。これは質問に答えないと先に進まないやつだということを悟って、笠間は深くため息を吐く。どんな意図があるのか知らないが、少しくらい付き合ってもいいだろう。


「至って単純な理由です。警察官が努力するのは治安を守るためであり、出世や手柄を奪い合う、不毛な争いに勝つためではないはずだからですよ。そのことに気づきもしないでいがみ合っている奴らは、本当にくだらない。軽蔑してもし足りないですよ。」


「ほら、それです。」


「?」


直後に放たれた里見の言葉に、笠間の脳内が疑問符でいっぱいになる。本当になんのことを言っているのかわからない。


「言っている意味がわからないのですが……?」


混乱する笠間に対し、里見はさも当然とでも言わんばかりに口を開く。


「だから、それです。あなたは正義などどうでもいいと言いつつも、きちんと自分の理想を持っている。それなのにやる気を無くし、せっかくの推理力を活かそうともしない。私はそれが不可解なんですよ。この際だから言いますが、今の腑抜けのようなあなたより、たとえ出世や手柄のためだったとしても必死で働いている彼らの方が、余程優秀です。」


「っ……」


里見の言葉が、笠間の心に深く突き刺さった。『腑抜け』、『彼らのほうが優秀』。この言葉が脳内をぐるぐると駆け巡り、口の中がカラカラになる。


「そこまで、言わなくても……」


発した声はかすれていた。思っていた以上に里見の言葉にショックを受けているようで、先を続けようにも言葉が出てこない。彼の言葉は、まったくの正論だったからだ。そんな笠間に追い打ちをかけるように、里見が言う。


「第一、前にも言いましたが腐っているのはあなたの方です。警察の中には、真っ当に働いている人たちがたくさんいる。全員が全員、手柄のために頑張っているわけじゃないんですよ。腐った考え方をしているから、周りまで腐っているように見える。ただそれだけのことでしょう。」


その言葉を最後に、車内にしん、と沈黙が降りる。その中で笠間は、今の里見の発言についてずっと考えていた。

自分の言動は矛盾しているのだという。でも、今更正義を語ってもどうにもならない。一人が考え方を変えただけでは、全体が動くことはないからだ。だから笠間は無気力になった。しかしそれが矛盾の原因になっている。

だんだん自分のことがよくわからなくなってきて、笠間は深いため息とともに頭を抱えた。

その時だった。


「あ」


隣で小さく、里見が声を上げた。何事かと思って顔をあげると、いつの間にか前の方を走ってたらしいタクシーがウインカーを出しているのが目に入る。反射的に車道側を見ると、思ったとおり人が立っていた。しかも、右腕が白い三角巾によって吊られている。先程までそこにいることに気づかなかったから、おそらくどこかの通りから出てきたと見て間違いない。病院に行くにしても方向が違うし、そもそもなぜ、突然脇の通りから姿を現したのか。

色々理由は考えられるはずだったが、笠間の脳内には一つのシナリオしか浮かんでいない。それは里見も同じようで、タクシーを追い抜かぬよう、少し速度を落としたのがわかった。


「本部に連絡を入れますか?」


笠間が確認すると、しかし里見は首を振る。


「まだ確定したわけではありません。追尾して、どこかで降りたら職質をかけましょう。」


「わかりました。」


車内に一気に緊張感が漂う。笠間はもちろんだが、こころなしかハンドルを握る里見の顔も強張っているように見えた。

ここから先はひたすら真似っ子だ。前のタクシーが左ウィンカーを出せばこちらも出し、右に曲がればハンドルを右に切る。いつどんな動きをするかわからないので、走行中は気を抜くことができなかった。



タクシーの追尾を始めてしばらく経った頃。ちょうど信号が赤に変わり、それに伴ってタクシーが徐々に減速する。ようやく少しばかり気を抜くことができ、二人揃って大きく息を吐いた。


「やっと休憩だ……。」


盛大なため息とともに言った笠間に、里見もゆるゆるとうなずく。


「ですね…。流石に集中力が途切れかけてました……。」


緊張した空気の中に身を置き続けるのは、やはり精神的に疲れが出る。が、運転している里見はそれ以上だろう。集中力だけでなく瞬発力も試されるそれは、並大抵の辛さではないはずだ。どちらにとっても、こういう少しの休憩が有り難いのは確かだった。


「あいつ、なかなか降りませんね。どこまで行くんでしょうか。」


少々気の抜けた声のまま、里見に問いを投げかける。特にちゃんとした回答を欲していたわけではないのだが、里見は律儀にも、考える素振りを見せながら口を開いた。


「そうですね…ひとまず東京都は出たいはずです。殺人の容疑者が逃走とあっては、緊急配備は必至ですからね。」


「てことは、東京を出るまでこれ続けるんですか?もうサイレン鳴らして止めたら楽なのに……。」


「万が一本当に殺人犯だった場合、下手に刺激するとタクシーの運転手が危ない。諦めて、もう少しこの真似っ子遊びを続けましょう。」


「はい……。」


太い道路が通っていることもあって、信号の待ち時間が長い。特にすることもなくて、座席に深く凭れながら外の景色を眺める。行き交う人や、たくさんの車。最近の車はカラーバリエーションが豊富で、今までになかったくすんだ色や、可愛らしいパステルカラーまで様々だ。

そういったものをぼんやり見ていると、不意に視界に何かが映った。ただの車とか、そういうものではない。それはちょうど、明るい光を見た後のように残像が目に焼き付いていた。


ピカッ


今度は色まではっきりと分かった。一瞬ではあるが、赤い光が視界の中で輝いた。

そこまで分析して、笠間はようやくまずいことが起きていると認識し始めた。背もたれから体を起こすと、視線がわずかに高くなる。それで目に映ったものを見た瞬間、笠間は目を見開いて固まった。


パトロール中であろうパトカーが、こちらの方向へウィンカーを出していた。


「里見さん!」


ほとんど悲鳴に近いような声で、笠間が叫ぶ。それに弾かれたように顔を上げた里見もまた、驚愕に目を見開いていた。


「まずい…っ」


直後、目の前のタクシーの扉が開き、転がるような勢いで腕吊り男が飛び出した。笠間たちが気づいたのだから、前のタクシーに座る男が気が付かないわけがない。慌てたように、パトカーとは反対方向である笠間たちの方へと駆けてくる。


ここで逃したら、いままでの努力が無駄になる。


そう思った刹那、笠間はまるで突き動かされたかのように助手席の扉を開けていた。身を乗り出しざまにシートベルトを外し、そのままの勢いで車を飛び出す。背後で里見が笠間野菜を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、それに構っている余裕はなかった。


「ちょっとお兄さん。」


腕吊り男の進路に立ちふさがるようにしながら、笠間は落ち着いた声で語りかけた。驚いたような顔で急ブレーキを掛けた男だったが、目には警戒の色がありありと浮かんでいる。


「今逃げると無賃乗車になっちゃうと思うんですけど、いいんですか?」


「は?」


はっきりと苛立ちの滲んだ声で、男が言う。が、同時にそこには隠しきれない動揺の色が見て取れた。


「…お前には関係ないだろ。さっさとそこどけよ。」


「いやいや、どけませんよ。目の前で無賃乗車が起きかけているんです。見逃すわけにはいきません。」


「あ゛?ふざけてんのかテメェ、ぶっ殺すぞ。」


ドスの利いた声で威圧しようとしてくる男を冷静に見返していると、男の背後に黒い影が現れた。気配を殺して立っているその人物は、間違いなく里見だ。そちらに視線を送ると、小さくうなずかれる。男が逃走しても、確保の準備はできている。そう言っているのがわかった。その頼もしさに後押しされて、笠間は落ち着いた声音から、挑発するような口調に切り替えた。


「うわぁ、おっかないこと言いますねお兄さん。でもそれ、言う相手には気をつけたほうがいいですよ?」


「……ああ?」


訝しげにこちらを見てくる男の前で、笠間はこれみよがしに懐に手を突っ込む。取り出したのは、黒くて四角いアレ。警察手帳だった。

サッと男の顔色が青くなり、目が驚愕に見開かれる。


「タクシーの無賃乗車は、立派な犯罪です。詐欺罪といって、場合によっては十年ほどの懲役刑になることもあるんですよ。今すぐ払えば、今回は見逃しても…っ」


いいですよ。言おうとしたその言葉は途中で絶たれた。というのも、今まで比較的大人しかった男が、突然両腕で笠間を突き飛ばし、逃亡を図ったからだ。三角巾の下の腕には包帯など巻かれておらず、全力で振りながら走っている。どうやらもう、怪我人を演じることはやめたようだ。が、不幸なことに――笠間にとっては有り難いことに――男が向かったのは後方、つまり、里見が立っている方向だった。里見のことも押しのけようとした男だったが、それよりも里見の反応のほうが早い。わずかに体を横にずらしたかと思うと、走ってくる男の足に自身の足を引っ掛け、バランスを崩させる。下手な転び方をしないよう、丁寧にも肩を手で掴んで勢いをわずかに殺し、そして、男が地面に倒れ伏すなり後ろ手に拘束し、手錠を打った。


「11時02分、公務執行妨害と詐欺の現行犯で逮捕します。」


里見に組み伏せられている男は、はぁはぁと荒い息を吐いていた。目には悔しそうな色と、焦りの色が滲んでいる。


「里見さん」


「ええ。」


里見が男の腕を押さえていた手をどけると、男の右手が現れる。それを見るなり、笠間はぺろりと唇を舐めた。


「ビンゴ?」


「そのようですね。」


男の服の袖口や手のひらは、茶色くカピカピとしたもの――乾燥した血液が張り付いていた。普通に生きていたら、血がいつの間にか手にべったりくっついてました、なんてことはありえない、これはもう動かぬ証拠と言っていいだろう。


「詳しい話は署で聞きます。まずは所轄に身柄を預けないと……。」


「呼びましたか?」


「!」


聞き慣れない声が背後から聞こえてきて、笠間と里見は揃ってそちらを振り向いた。立っていたのは。制服姿の警察官。よくよく見れば、先程対向車線を走っていた地域課のパトカーが路肩に停められていた。


「……はは」


不意に里見が笑い声を漏らした。


「運がいいなぁ。応援を呼ぶ手間が省けました。」


そう言うと彼は、地面に這いつくばっている男を立ち上がらせて制服警官の方へ歩いていく。それを見ながら、笠間は胸元のミニマイクに手を伸ばした。


「機捜112から警視庁宛。元麻布で発生した殺人未遂事件の被疑者と思われる男を確保しました。只今、所轄へ身柄引き渡しを実施します。」


その声が聞こえたのか。里見がこちらを振り向いた。その顔には再び柔らかい笑顔が浮かんでいて、先程までの緊張した面持ちはどこかへ消えてしまっている。それでようやく、この事件が一段落したことを実感した。

いや、正確にはこれから山程の書類を書かなくてはいけないのだが、それを考えるのは後でいい。こちらもまた、里見に応えるように微笑みを浮かべて、パトカーの中に消えていく男を見送った。



「ひとまず一件落着ですね。」


男を乗せたパトカーが走り去ってからしばらく。捜査一課や所轄への引き継ぎを無事に済ませ、笠間たちはへとへとの状態で、機捜車に向かって歩いていた。路肩に停めてあったそれに乗り込むなり、里見が言った。運転席のシートに深く腰掛けた彼は、しかしどこか清々しい表情をしている。助手席に座った笠間もまた、密かな達成感を噛み締めていた。


あれからはちょっとした騒動だった。応援に駆けつけた駿河たちには褒めちぎられるわ、所轄からは面白くなさそうに嫌味を言われるわ、目撃者たち含む近隣住民からは感謝されるわ……。一度に多くのことがありすぎて、犯人を確保したときより疲れたような気がする。里見でさえ、柔らかい表情の中に疲労の色が垣間見えたくらいだ。

その騒動もいつの間にか収束し、今はただ、心地の良い疲労感を全身に感じている。


と、不意に里見が笠間の名を呼んだ。それに答えるように顔を向けると、里見はシートに凭れ掛かりながら、穏やかな表情で口を開く。


「先程は、ありがとうございました。あなたが動いてくれたから、僕もあとに続くことができた。」


「いや、そんなお礼を言われるようなことじゃ……」


少々はにかみながら言うと、それに気づいたのか里見が小さく笑い声を漏らす。が、すぐにそれを引っ込めて先を続けた。


「正直、あのときは驚きました。まるでなにかのスイッチが入ったかのように、突然飛び出したのですから。」


「そう…でしょうか。」


実を言えば、その時のことを笠間はあまり覚えていなかった。とにかく必死だったことくらいしかわからない。


「犯人がタクシーを降りて逃げようとしたとき、とっさに思ったんです。このままじゃ、今までの努力が無駄になるって。そしたらもう、体が勝手に動いてしまって。」


「……それがあなたの正義ですか。」


里見がぽつりとこぼした言葉に、笠間はハッとして目を見開く。それに気づいているのかいないのか、里見は変わらず話を続ける。


「あれから考えてみたんです、なぜあなたが矛盾を抱えたまま腐ってしまったのか。」


里見の目がゆっくりと動き、笠間と視線が交錯する。柔らかな笑みを浮かべたまま、とうとう里見は言った


「怖かったのでしょう、彼らによって、自分の正義を否定されるのが。」


「…かもしれません。」


視線を外さないまま、笠間は答えた。里見の言葉が、何にも遮られることなく、すぅっと染み込んできたような感じがする。不思議と静かな気持ちで、笠間は先を続けた。


「俺は、誰も理不尽な損をしないように、そのために警察官になろうと思いました。それが叶うなら、正直刑事でもお巡りさんでも、何でもよくて……。刑事になったのは成り行きで、それならそれで頑張ろうと、そういうつもりでした。」


ここで一度言葉を切り、笠間は窓の外へ視線を移す。そして、当時のことを思い出すように、ゆっくりと、しかししっかりした口調で再び口を開いた。自分で自分のことを話すのはなんとなく恥ずかしいような気もしたが、里見の前だとスルスルと言葉が出てくるのが不思議だった。


「三機捜では、手柄の奪い合いばかりでした。犯人を逮捕しても、恨まれこそすれ褒められることはなく、逆にミスをすれば嬉々としてそれを掘り下げる。はっきりと俺の考え方が否定されたわけではありませんでしたが、それでもどこかで恐ろしかった。いつか、なにか言われるんじゃないか。俺までそうなってしまうんじゃないかって。だから、嫌な形で一線を引いた。」


「………。」


里見は、時折うなずくだけで口を挟まない。そのことに少し安堵しながら、笠間は口元に困ったような笑みを浮かべる。続いて出てきた言葉は、自嘲とも苦笑ともつかない色が滲んでいた。


「実を言えば、今でも怖いです。誰かに、俺の正義を否定されたら、俺の正義が間違っていたらどうしようって。誰かに笑われたら、俺はきっと立ち直れない…。」


「……ひとつ聞きたいのですが。」


ようやく、里見が口を開いた。その声に再び視線を里見の方に向け、じっと先の言葉を待つ。そして、沈黙の後に彼は言った。


「否定されたとして、それがなんです?」


「……え?」


一瞬理解が追いつかなくて、笠間は小さく声を漏らす。それに言葉を止めることはなく、里見は続けて言った。


「あなたの正義が誰かに否定されたとして、決してあなたが間違っているわけでも、否定した相手が間違っているわけでもないと思うんです。正義は、人によって形を変えますから。」


「どういう…ことでしょう?」


当惑して聞く笠間に対し、里見は例えば、と言って先を続ける。


「兵士の正義と、医者の正義は同じですか?警察にとっての正義と、殺人鬼にとっての正義は、一緒と言えるのでしょうか。」


里見は一度言葉を切り、励ますような微笑みを笠間に向ける。


「それと同じです。正義は、人によって形を変える。誰が間違っているわけでも、正しいわけでもない。正しく有りたいと願うなら、あなたはあなたの正義を貫けばいいんです。」


「………。」


言葉が出てこなかった。代わりに、喉の奥がきゅうっと痛くなって、笠間は唇を引き結ぶ。

里見の言葉は温かかった。笠間が知らないうちに抱えていた葛藤を言葉にし、それをひっくるめてすべてを包み込んでくれたかのように。許された、という言い方はおかしいかもしれないが、このままでもいいんだと、そう言ってくれているような気がする。自分は自分のままでいい。そう思うと、不思議と呼吸が楽になり、いつ入ったかもわからない肩の力を抜くことができた。


視線を向けた先、車窓から見える風景は、今までと同じはずなのにどこか明るい。善も悪も紙一重、物事を見る眼もまた、些細なきっかけでがらりと変わっていくのだろう。


「さて、そろそろ密行に戻りましょうか。」


相変わらず微笑みを口元に浮かべたまま、里見が右手をキーに伸ばす。その一瞬前に、笠間は口を開いた。


「里見」


言いながら、シートベルトのロックを外す。助手席の扉に片腕を伸ばしつつ、言葉を続けた。


「運転代わるよ。」


里見の顔が、一瞬驚きに染まる。が、すぐに破顔し、キーに伸ばしていた手を引っ込めた。


「じゃあ、お願いしようかな。」


それぞれ車の外へ出て、位置を入れ替えてまた車内に戻る。笠間がキーに伸ばした右手をひねると、すぐにエンジンが始動する音がした。アクセルを踏めば、周囲の風景がゆっくりと流れ出す。

不意に窓ガラスに反射した自分の顔は、どこか憑き物が落ちたようにさっぱりとしていた。


「そういえば」


突然何かを思い出したように、里見が言った。


「駿河さんが、仕事終わったら飲みに行こうってさっき。」


「えぇ……?」


どうやら自分が最初に抱いた彼へのイメージは当たっていたようだ。が、今は特に、その誘いを不快だとは思わない。どうしようか、と問いかけてくる里見に、笠間は口を開く。


「駿河さんに、喜んでって伝えてもらえる?」


そんな笠間に、里見は嬉しそうにうなずいた。


「もちろん。」



昼時になって人の出が多くなってきた大通りを、笠間たちを乗せた覆面車が走る。そろそろ笠間たちの腹の虫も騒ぎ出す頃合いだ。昼食はコンビニではなく、どこかの店で食べるのも悪くない。

そんなことを思いながら、笠間は静かにハンドルを切った。

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カタチの形―機捜112― 秋原 シン @sentohare

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