日曜日の夜というもの。
胡桃ゆず
初めてのケンカ。
一緒に住んでもうすぐ四年だったっけ。
そりゃあ、いつでも穏やかに、というわけにはいかない。私以外のところに原因があって、相手の神経がピリピリしていることだってあって、そこに私が偶然スイッチを入れちゃっただけとか。
だからって、私が食べかけていた赤いきつねをひっくり返して、ぐちゃぐちゃにしたまま出ていくことないじゃない。
無残に汚れた床を見つめながら、私は誰もいないのに、声に出して呟いていた。
必要以上に干渉し合わないこと。
それを条件に、私たちは一緒に暮らし始めた。適度に距離を保ちつつ、多少はこじれることがあっても、引きずることなく上手くやって来たはずだ。
彼女が、自分の感情を表現するのが下手糞だから、そんなふうに、踏み込み過ぎないのが快適な方法なのもわかっていた。
それなのに……。
確かに、私も余計なところにまで踏み込もうとしたかもしれない。だからって、これはない。
必要な干渉ではないのか。
始まりは、共通の知り合いの紹介だった。学生でお金もないし、一人で暮らすのは少しきついな、と思っていたところ、同じような状況の女の子がいるということだったので、紹介してもらったのだ。
二人でルームシェアをしたらどうか、と。
歳は一つ上だという彼女に初めて会った時、喫茶店で差し向かいに座り、まず思ったのは、愛想のない女だな、ということだった。真っ黒で、まっすぐな長い髪が、ときどき揺れているのを、私は見ていた。
軽く挨拶してから、彼女はずっと黙ったままスマートフォンをいじっているだけだったので、これはもう私から話しかけないと、絶対会話が進まないと悟ってしまう。
「改めて……私は、
「
彼女は、スマートフォンの画面に目を向けたままで、そう答えた。それから、一瞬だけ顔を上げて、よろしく、と、聞き逃しそうなくらい小さな声で言う。こちらも、よろしく、と言うと、ようやくスマートフォンをテーブルの上に置いてくれた。そこからは、向こうもぽつり、ぽつり、と、少しずつ話してくれるようになったので、それに私は少しだけ安心したのだ。
確かにとっつきにくいが、完全に拒絶をされているわけでもなさそうだし、寂しがりで下手に絡んでくるような子よりは、これくらいの方が、ただの同居人として、トラブルも少なく過ごせそうだという予感も、頭のどこかにはあったことは否めない。
第一印象で、向こうにこれは無理だと思われたのなら、ここでご破算だったが、そうはならずに済んだ。
それどころか、学校を卒業して、それなりに稼ぐようになり、一人で暮らせるようになった今でも、二人で暮らすことを解消していないのは、私たちがうまく行っているという証拠だったと思っていたのだ。
出会いのこの時、安奈の方が何を思っていたのか、今の今まではっきり聞いたことはない。
そして、怒って出ていく前に、何で泣いていたのかも、聞いていない。
そうなんだよ、本当は。
ただ、何で泣いているのか、教えて欲しかっただけなのに。それが、安奈にとっては煩わしいことだったのが、私の心に突き刺さった。
散らかった床を片付けた後、私は改めて赤いきつねを作り直した。火にかけたやかんが、しゅーっと音を立てると、胸の奥が焼かれたようにじりじりする。
心配。
言葉にすると、実に簡潔で、それっぽっちのことだけど、それはじくじくと膿んでいて、思ったより重症だ。
お湯を注いだところで、玄関のドアが開く音がした。
おかえり、とは言えなかった。言えばいいのに。でも、安奈だって、ただいま、とは言わない。
リビングにやってきて、しばらくこちらを向かずに立ったままだった安奈は、やっぱり私から何かを言わないと、口を開かなさそうに見えた。
だから、とにかく何かを言わなくちゃ。
そう思って、少し焦っていたら、結んだままだった彼女の口が動いた。
「ごめん」
「そうだよ。食べ物も無駄になっちゃったし」
「……新しいの買って来た」
おずおずと、買い物袋を差し出した安奈は、下を向いて目を合わせない。自分がどういうふうに私と接していいのか、きっとわかってないのだろう。私だって、安奈とどう接していいのかわからない。
でも、もう泣いているわけでもないし、怒っているわけでもなさそうではある。そのことに、悔しいが少し安心もする。
「お腹、空いてない?」
「……空いてる……かも」
頑張って引っ張り出しているような、安奈の声は少し掠れていた。泣いた後だからかもしれないが。
私は、お湯を注いである赤いきつねのカップを差し出した。
「じゃあ、あと一分でできるから、これあげる。私は買ってきてくれたやつを食べる」
「うん。ありがとう」
安奈がコートを脱いで手を洗っている間に、タイマーが鳴った。いつもよりけたたましく感じるのは気のせいか。
椅子に座って、食べ始めるのかと思ったら、安奈はまた少し泣きそうな顔をして、かすれた声を出した。
「本当はさ、里桜が心配してくれているっていうのもわかってたんだよ」
何をいまさらそんなことを言っているんだろう、と、呆れる気持ちと、ちゃんとわかってたんだ、という、嬉しい気持ちが絡まり合って、ますますどうしたらいいかわからなくなったので、思ったことをそのまま口に出してしまった。
「そりゃそうだよ。泣いてたら気になるでしょ」
「だから、目の前で泣いたりした私が悪かったって……」
「そうじゃないだろっ」
私はつい、カッとなって、安奈の頭に手刀をお見舞いしてしまった。
「いたっ……何よ」
「隠れて泣くな、って言ってんの」
「は?」
「別にいいんだよ、私の前で泣き喚いたって」
「よくないでしょ。子供じゃないんだから」
「馬鹿もーん!」
もう一発手刀を浴びせようと思ったら、今度は綺麗に避けられてしまう。
「同じ手は食わない」
避けられた苛立ちも加わって、私の口調は余計に荒くなった。
「いい加減、カッコ悪いところ見せる覚悟を決めなさい」
「は?」
「私にカッコつけてもしょうがない、ってこと」
ぱちくりと何度か瞬きをした安奈は、一瞬呆けていた。私の言っていることが、ちゃんとわかってないのか。
でも、自分の中で何かを消化は出来たらしい。
「そっか……カッコつけだから、いっぱいいっぱいになっちゃってたのかな」
「むっ」
私が唸ると、安奈は少し警戒したように身を引いた。でも、今度は手刀は出さない。
「もう、何なのよ」
「ようやく話す気になったんだ、と思って」
もう観念したように、ぎこちなくだけれど、安奈はちゃんと話をしてくれた。
「ただ、日曜日が終わるのが、辛かったの。明日になったらさ、また仕事だって」
「もしかして、職場に嫌な上司がいるとか?セクハラ、パワハラとか?」
「違うよ。特に大きなダメージを受けることがあったわけじゃないよ。上手く自分が出せないと、ただ、カッコつけていろいろ押し付けられて背負って……って、そんなことが、積もり積もって、溺れそうになってただけ。そんなの情けなくて、話せるわけないじゃん」
「いやいや、そういう小さい愚痴こそ話して、ぽいっと捨てちゃわないと」
理解できない、というように、安奈は不可解そうに眉間にしわを寄せる。
「そういうもん?」
「そういうもん。もういいよ、うどん伸びちゃうから、食べよう」
「うん」
しばらく無言で、私たちがうどんをすする音だけが、控えめに響いていたけれど、ある瞬間、安奈が箸を止めて、しみじみと呟いた。
「あったかくて、ほっとする」
「そう」
へへへ、と笑うと、安奈も笑った。やっと、ぎしぎしと音を立てていたものが、ちゃんと回り始めた感じがする。
「なんかさ……自分が不幸……というか、小さなものが積もり積もった不運の沼にいるような気がしてたけど……案外そうでもないのかもな」
「へー……」
にやにやと私が笑うと、彼女はむっと顔をしかめた。
ただ、心配が吹き飛んで、安心しただけなのに。
「馬鹿にしてる?」
「いや、そんなことないよ。照れ隠し。……っていうか、こういう話できるまで、一体私たち何年かかってるのよ」
「ほんとにね」
もうそろそろ日付が変わる。日曜日が終わろうとしている。月曜日でも、明日は安奈の足が、少し軽くなっているといいな、と、私はこっそり思っていた。
そんなこと、口に出しては言わないけれど。
日曜日の夜というもの。 胡桃ゆず @yuzu_kurumi
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