オヤジが泣いた日

芦田朴

オヤジが泣いた日

うちのオヤジは変わった人だった。

 ある日、ゴミ捨て場に落ちていたギターを拾って来て、ネットを見ながら芸能人のサインをマジックでマネして書いていた。それを見ながら僕が「何してるの?」と聞くと、「こうするだけで高く売れるんだよ」と僕の頭を撫でながら、顔中のシワを引き寄せて笑った。

 働かずいつも家にいて、僕が小学校に行くのを玄関で見送るのは母さんではなく、オヤジだった。僕はいつもパートに出かける母さんと一緒に玄関を出た。

オヤジは昔、車の修理工だったらしいが、僕が物心ついた頃から働いている姿を見た事がないから、本当かどうかはわからない。

 日曜日の午後、母さんは親戚の葬儀に泊まりがけで出かけていて、僕とオヤジは家でぼんやりテレビを見ていた。テレビの横に置いてある扇風機がカラカラと不器用な音を立てて回っていた。この扇風機だってオヤジがゴミ捨て場から拾って来て修理したものだった。修理工という割にはたいして上手には直せていなかった。

テレビでは男性人気ロックバンドが歌っていた。

「カッコいいなぁ。」

「コイツらの、誰だよ?この金髪がか?」

オヤジはテーブルに肘をつき、スルメを犬のように奥歯で噛みながら言った。

「バッドボトム、知らないの?今めちゃくちゃ人気あるんだよ!」

「こんなチャラチャラしたガキどもの、どこがいいんだよ」

オヤジは突然、スルメを噛むのをやめ、僕の顔を上から下へとマジマジと見始めた。

「な、なんだよ」

「お前……」

オヤジはおもむろに立ち上がると、何も言わずそのまま外へ出て行った。僕は頬杖をつきながら、ガチャガチャとテレビのチャンネルを変えた。オヤジの挙動不審の行動は今に始まった事じゃなかった。当時小4になっていた僕は、うちのオヤジが一般家庭の父親とは大きく乖離している事に、さすがに気づいていた。30分ほどしてオヤジは戻って来て、嬉しそうに僕にこう言った。

「ジャジャーン!コージ、お前も金髪にするべ」

オヤジはそう言って、近所のドラッグストアで買って来たのであろうブリーチを見せた。

「えっ?ヤダよ!先生に怒られる」

「大丈夫だ。確か小学校は金髪にしたらいけないという校則はないらしいぞ。もし先生が何か言って来たら、俺がガツンと言ってやるから、な?」

オヤジは半ば強引に僕の髪を染め始めた。10分置いてから、台所のシンクで頭を洗った。髪はしっかり金色に染まっていた。

オヤジはそれを見るなり、「いいね」と言って、スマホのカメラでパシャパシャと僕を写真を撮り始めた。

「おい、こっち見ろ。笑え」

「オヤジ、何やってんだよ」

「これから忙しくなるぞう」

「えっ?どういう意味?」

「お前はこれからバンドになるんだよ。あのペットボトルとかなんとかみたいな……」

「バッドボトム」

「なんでもいい。お前は俺に似てルックスは悪くないからな」

「は?バッドボトムになんか、なれるわけないじゃん」

「この写真をいろんな芸能事務所に送るんだよ。これを見りゃあ、みんなすぐ電話をかけて来て、お前の争奪戦になるぞう」

オヤジはスマホの写真を眺めながら、嬉しそうに笑った。そして僕の肩に手を置いて言った。

「安心しろ!父ちゃんがマネージャーやってやるから。ヒヒヒ」

 幸か不幸か、芸能事務所から連絡が来る事はなかった。数日後、僕は先生に、オヤジは母さんに怒られて僕は黒髪に戻し、オヤジの一攫千金アイドル育成計画はあっけなく幕を閉じた。

 少年みたいに純粋で、夢見がちなバカなオヤジだったけど、なぜか嫌いにはなれなかった。

 そんなオヤジが涙を流すのを、1年後僕は初めて目撃する事になる。


      ♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎


 僕はオヤジに連れられて、山の中にいた。山の中にあるポツンと建っている古民家の前でオヤジは足を止めた。何もない真っ暗な山の中に、そこだけポツンとあかりが灯っていた。

 僕はオヤジの母親、つまり自分の祖母には会った事がなかったから、突然オヤジに夕方「一緒に婆さんに会いに行くぞ」と言われて驚いた。オヤジのいつになく暗い様子から、なんとなく想像はしていたが、古民家に建てられた看板を見て、祖母が亡くなった事を知った。

 もう夜中だ。古民家の明かりはついているが、静まり返っていた。時々突然鳥の鳴き声がして、僕を驚かせた。オヤジが意を決したように呼び鈴を押すと、おじさんは待っていたとばかりに、すぐに玄関に出てきた。そのおじさんは、引き戸になっているドアを開けると、早く入れと言わんばかりにオヤジに目で合図をした。僕らが入るとすぐに玄関を閉めた。

 玄関を閉めるや否や、おじさんは膝をかがめて僕を見てこう言った。

「ヨウジの子供か、大きくなったな」

ヨウジというのは、オヤジの名前だ。

「おじさんはね、君のお父さんのお兄さん。君が生まれたばかりの頃、一度だけ会った事があるんだ。覚えてないだろうね」

オヤジは無表情で部屋を見渡し「変わんねーな」とつぶやいて、勝手に家に上がった。

居間の畳の部屋の真ん中に置かれた棺桶の前で、オヤジは棺桶に近寄るのが怖いかのように、突然立ち止まった。おじさんがオヤジの背後からこう言った。

「お袋の顔見たら帰れよ。お前がここにいるのが、近所にバレたら……」

「わかってるよ!」

オヤジはおじさんの言葉をかき消すように、そう言った。そしてゆっくりと棺桶に近づき、扉を開けた。オヤジは何も言わなかった。祖母の死を受け入れろと、自分の心を説得するように、ただずっと何分も、オヤジは黙ったまま表情も変えずに祖母の顔を見つめていた。

 初めて見る祖母は、どこにでも居そうな小さな婆さんだった。カビ臭い畳がひんやりと足の裏を冷たくした。オヤジは突然、横を向いて僕に「帰るぞ」と言って、玄関に向かってそそくさと歩き出した。僕は慌ててオヤジの後を追った。おじさんはオヤジの背後から「おい!お袋に何も言わなくていいのか?最期だぞ」と責めるように訊いた。

 オヤジは靴を履きながら「もう聞こえねーよ」と独り言のようにつぶやいて外に出た。僕も慌てて外に飛び出し、玄関の扉を閉めた。

 オヤジは玄関を出て数歩、歩くと突然歩くのをやめた。オヤジはじっと夜空を見ていた。僕も夜空を見上げた。これまで見たことのないほどの無数の星が輝いていた。オヤジは「変わんねーな」とつぶやいた。


       ♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢


 家に着くと、時計は夜の2時を回っていた。小学生の僕がこんな夜遅くまで起きているのは、初めての事だった。寝室で寝ている母さんを起こさないように、音を立てないようにそっと歩いた。

 「腹減ったな、コレ食って寝るか」

オヤジは帰り道のコンビニで買った「赤いきつね」を袋から取り出し、やかんでお湯を沸かし始めた。正方形のテーブルの上で、薄いビニールを無造作に剥ぎ取った。

 この世界に僕とオヤジしかいないように、世界は静まり返っていた。オヤジはシンクに背を向けて『赤いきつね』にお湯を注ぎながら、テーブルの前にいる僕に昔話を始めた。

 「俺はな、ガキの頃から親に迷惑かけっぱなしでな、ロクな人間じゃなかった」

「今もじゃん」

「ははは、そうだな」

オヤジは力なく笑った。元気のないオヤジを笑わせようと少し強めのツッコミをしたが、空回りをしてしまい、胸が少し痛んだ。

「で?」

「高校もすぐ辞めちまって、毎晩バイクに乗って、悪い奴らとつるんでたよ」

「だいたい想像は……つく」

「ある日さ、ケーサツに捕まったのよ。俺はその時未成年だったから親呼ばれてな。夜中だよ。お袋が慌ててやって来て、来るなり俺の頭をパシーンと一発しばいてさ、ケーサツに土下座だよ」

オヤジは『赤いきつね』の蓋を少し開けて、麺の茹で具合を確認して、上蓋を剥いだ。僕もそれを見て、上蓋を剥いだ。オヤジは話を続けた。

「夜中家に帰ってさ、お袋……何事もなかったみたいにさ、『腹減ったな』って言って、コレ食べたんだ」

「『赤いきつね』?」

「うん。それが美味くってな」

オヤジは「アチ」と言いながら、うどんをすすった。

「アゲが上手いのにさ、お袋、俺にアゲをくれたんだよ」

「僕はあげないよ」

オヤジは「そういう意味じゃねーよ」と笑いながら言った。

「うどん食いながらお袋がな、『何があっても、お前の味方だって』って言ってくれて……嬉しかったよ。心がボロボロになってたからな。あの時食った『赤いきつね』の温かい汁がじんわり心にしみたよ」

「そうなんだ」

オヤジは箸を止め、目の前に映る映像を見ているかのように、ぼんやりと空を見つめた。

「お袋が『お前は悪くない、子どもの時、面倒見てやれなかった私が悪い』ってさ。早くに親父が死んで、お袋は俺やアニキを食わすために昼夜働いてたからな。しょうがなかったのにさ。俺がこうなのは、俺の性分で、お袋のせいじゃなかったのに……最期までそれを言ってやれなかった」

オヤジは突然僕から顔を背けて、ゴツゴツした手のひらで乱暴に涙を拭った。僕は初めて見るオヤジの涙に驚いて、箸を止めた。オヤジは声を押し殺すようにして泣いた。「クックッ」という喉に流れる涙を飲む音が、静まり返った部屋に響いた。


    ♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢


オヤジの涙を見た10年後、僕は東京で一人暮らしを始めた。大学サークルでロックバンドを組んでいた。あれからオヤジがゴミ捨て場から拾ってきたギターを始めたのだ。そのギターは今も部屋の隅に転がっている。そのギターにはオヤジがマジックで書いた『武田鉄矢』の文字が残っている。



 

 



 

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オヤジが泣いた日 芦田朴 @homesicks

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