第33話 太盛は守り難し

倚玉之栄いぎょくのえいゆくりなく玉石同匱ぎょくせきどうきにして紛らわす


 カネヒラは、いつもの様に冒険者組合の酒場で、料理長と無駄話をしている最中に組合長から呼び出された。会議室に入室すると、踵を返したくなった。


「……っと部屋を間違えたかな?」


 カネヒラが呟く。会議室を見回せば、深淵の娘にして魔女の娘、深緑の大司教、白曼珠沙華の聖女、南方公爵、軍務卿、南方女辺境伯が会議室の円卓を囲んでいた。軍務卿が同席しているから、辛うじて南部独立の企てということではないだろうと彼は思う。


「西方大陸のナジャクナーフ州の正教会の大司教様からご連絡がございました」


 白曼珠沙華の聖女フローラが淡々と語り始めると、続く言葉は極めて物騒な話であった。


「西方大陸の皇帝陛下が弑虐されました」


「あー、何も聞こえなかったということで——」


 これは一介の中年冒険者が聞いていい話ではないと宣言して、カネヒラは手前勝手に退室しょうとする。深緑の大司教の後ろに控えていたキースが瞬歩で距離を詰めると、さっさと立ち去ろうとするカネヒラを捕まえる。


「逃がさんよ」


「近習殿ッ!ご容赦くださ——」


 キースは横着者の背後から抱き締める。ご立派な双丘をぐいッと押し付けた上に、束縛の死霊術を発動すれば、カネヒラは言葉に詰まる。三聖女の加護により、キースから天界の芳しい香りが漂ってくると、更に動きが鈍った。傾国の美人がカネヒラの肩越しに顔を近づけ、右耳に吐息を溢す様に囁く。


「諦めようね」


 キースは楽しそうである。


 カネヒラは、キースの艶やかな唇を避ける様に左肩越しに目線を向ければ、深緑の大司教ヒルデガルドの張り詰めた笑顔。彼女の目は笑っていない。ゾッとしてると、そのままずるずると引き摺られ、深淵の娘にして魔女の娘アデレイドの隣に座らされた。


 暫し間の後、白曼珠沙華の聖女が冷やかな眼差しを横着者に向けながら語気を強めて見えない何者かを断罪するように告げる。


「皇太子による簒奪です」


「……」


 それがどうかしたかというのがカネヒラの感想だった。海を隔てた大陸の皇帝の首がすげ変わっただけである。百歩譲って帝国臣民であれば喪にでも服すか、あるいは殉死を強いられる前に逃げ出す程度の事。別の大陸の別の国家で、生業が財宝探索者トレジャーハンターである者に関わりがあるとは誰も思わないだろう。カネヒラは凪いだ目顔を白曼珠沙華の聖女に返す。


 何とも言い難い間怠さを経てから深緑の大司教ヒルデガルドが会話を繋いだ。


「それだけではなく、簒奪者はを次々に襲撃しています」


 簒奪であれば、それは必然であって、対抗馬が消えるまで続けなければならない。然もなくば消されるのは簒奪者自身となる。他の帝位継承者全員を討ち取るに足る力を十分に蓄えてきたのだろう。であれば張り詰めた弓の弦はやがて放たれるものだ。


「帝都の常備軍が動員されているのか?」


「……」


 無言で白曼珠沙華の聖女が頷く。


「当たり前といえばそれまでだが……」


 帝国軍は、自惚れが強く、威勢がいい軍閥貴族が多い。皇帝の深謀遠慮を理解できない連中も少なくない。皇帝は間接的な侵略を望み、皇太子は直接的な侵攻を欲した。先の西方動乱にて、アッシード家の策謀が破綻したことを契機にペルシアハル帝国の武断派が勢力を増した結果、日頃武勇に優れると持て囃されていた皇太子が簒奪を図ったと容易に推察できる。不惑にもなれば先が見え隠れする。いつまでも皇太子の地位に甘んじては、野心を満たすことができない。簒奪者が置かれた状況も動機も明快だ。

 内乱に発展することなく、皇帝が呆気なく討ち取られたことを思えば、武断派の皇太子の側に近衛兵が付いたのは明らかだ。しかし、帝国の暴力装置が一気に皇太子に靡くというのも不自然。外法が使われた可能性は大いに有り得る。皇帝に重用されていたとは言え、反骨旺盛なコーニア一族は西方動乱の失策の責任を問われていたのは事実だ。十中八九、皇帝を裏切ったのであろう。


「黒百合様襲撃を受けました」


 カネヒラに限らず衝撃を受ける発言であった。聖女は特別な存在だ。世俗権力が奉るべきであり、侵してはならない一線がある。それを越えると神々の怒りを被る。表立って西の正教会と敵対しては戴冠式も望めまい。皇太子は外法か何かで気が触れたのだろうか——いや、そんな事はどうだっていいとカネヒラは心中で言切る。


「無事なのか?」


 カネヒラはキースに尋ねた。この辺りは、やはり冒険者一党の頭目としてのキースを頼りにしている。


「黒百合様の騎士団が撃退したよ」とキースがにっこり笑いながら応える。


 あの神器装備の黒百合の騎士団ならば、一騎でも雑兵数百人が殺到したところで、手も無く撃ち破るだろう。確かに無事かという質問は滑稽であった。


「今、黒百合様は、白き魔女様の下に匿われておられます」と深緑の大司教。


「……そりゃ良かった」


 最果ての迷宮の最奥に住まう白き魔女グレイシーは、希求の娘にして魔女の娘であり、深淵の娘にして魔女の娘たるアデレイドの妹。カネヒラは幾度か会っているが、彼女は淡々とし過ぎていて、人に与するという姿は脳裏に浮かばないものの、恐らく彼女にとって黒百合の聖女は特別枠なのだろう。


「ところで、何故、黒百合の聖女様が襲われるんだ?」とカネヒラがアデレイドに尋ねると、彼女は実に詰まらないという表情をカネヒラに向けた。


「黒百合殿は皇帝ハシーム・イブン・ユースフ・イブン・アダビィの末娘だ」


 事の真偽を確かめようと、アデレイドから再度キースへと見向けば、彼はゆっくりと頷きながら「孫娘じゃないからね」と返す。


「驚きだぜ」とカネヒラ。


 アデレイドは、皇帝の血縁者が次々に襲われている、と深緑殿が説明されたではないか、何を聞いておったのだとカネヒラを責める。


「アデレイド様。黒百合様の出自は極秘事項でございます。それに聖女様が襲撃されるなど誰にとっても衝撃が大きすぎます」と南方女辺境伯ヨハンナ・リートベルグが深淵の魔女を宥めれば、「偶には、こうして此奴を弄らねばならんのだ」と筋の通らないことを口走る。


 カネヒラは、アデレイドの戯れ事を受け流しつつ、そう言えばそうだったと思い返す。どうにも今日は思考の繋がりが悪い。飲み過ぎていたかなと彼は思う。


 頭痛を堪えるような仕草をしながらカネヒラが「誰から秘密が漏れた」と独り言のように呟く。


「血脈の証を示す神器を帝国は保有しておる。目端の効く者であれば、洗い出しの為に利用するであろう」と南方公爵エルンスト・シュバーベンがカネヒラの疑問に応えた。


 成程、神器に忖度はない。神器使用時に黒百合の聖女が皇帝の末娘であることが判明していたとしても、理由の如何に拘らず、皇帝ならば権力よって誰も知らぬ秘密として抑え込めるが、殺された後ではどうにもならない。

 現状の残りの疑問は、黒百合の聖女は知っているのかと言う事と、此処にいるミットヘンメル中央王国の有力者が何故、知っているのか、甚だ疑問である。


「ヒルデガルド様が黒百合様を解呪された際に見極められました。ご本人にも伝えてあります」と白曼珠沙華の聖女がカネヒラの疑問に直ぐに答えた。


 聖女の超越的能力を使って、おっさんの心を読むのは止めてくれ、と訴えたいところだが、聖女とは全くそう言った存在なのだから、どうにもならない。

 カネヒラは、この無機質な感じの聖女が苦手だと心中で謐きながら、キースに助けを求めて目配せする。しかし、彼は耳まで赤らめて顔を背けていた。横着者は一体何なんだと怪訝な表情を浮べた。若いキースが、あの生々しい解呪作業を思い出せば、そうならざるを得ないのだが、その場にいなかったカネヒラには掻い暮れ分からない。

 複雑な事情を知っていると思われる深緑の大司教に向き直れば、彼女は認識阻害の術をカネヒラに対して解くと、真の貌を向けて嫣然として微笑み返してきた。どうやらこのは悪戯好きのトンデモない性格をしているらしい。


 普段無表情なアデレイドが、ニマニマと笑顔を浮かべながら、戸惑っているこの横着者を一通り堪能した後に口を開いた。


「魔女の娘の元に帝国の皇女様が助けを求めてきたのだ。しかも件の簒奪者は、妾の妹を害そうとする身の程知らずなれば、思い知らせねばなるまい?」


 そう得意げに語るが、それはミットヘンメルの大義ではなく、深淵の娘にして魔女の娘が帝国の皇太子を殴り倒しに行く口実に過ぎない。ミットヘンメルを巻き込む必然性は皆無だ。

 

「そうやって、無理やり戦の口実を引っ張ってくるのは止めとけよ……」


「では神敵ならば如何いかがですか?」と深緑の大司教。


「ッ!?」


 カネヒラは驚いて息を呑むも、黒百合の聖女を襲撃した皇太子が神々の怒りを買うのは当然だった。


「御神託を賜った猊下は床に伏して御坐します」と白曼珠沙華の聖女が付け加えた。教皇の醜態を恥じる様な、苛立つ様な雰囲気が漂ってくる。


 何故、この聖女様ではなく教皇猊下なのだろうか、とキースを見つめるが、知る訳ないでしょうと冷たい半眼が帰ってきた。肩を竦めて「神敵か……」と呟いて、深淵の魔女に疑いの籠った表情を向ける。


「何じゃ?妾は魔女の娘ぞ。内なる神々の事情など知らぬわ」


 気まぐれに世の理を易々と捻じ曲げる者は奥目もなくそう言い張る。言葉通りに受け取るべきではないが、カネヒラは長年の付き合いから、今回に限ればアデレイドが横車を押したとは思えなかった。


「そりゃそうか……」


 これは困ったことになったと頭を掻きながら中年の冒険者は考え込む。


 確かに中央王国から派兵するに足る理由にはなるだろう。しかし、本来、神の御名で戦うのは、国家や人種を超えて大同団結し、魔物氾濫や魔王に対抗する為だ。それを国家間の争いで用いた前例は、古王国時代にまで遡っても見当たらない。一歩間違えれば絶滅戦争に化ける。ペルシアハル帝国の皇太子を神敵呼ばわりするのは絶対に避けるべきだ。


「この横着者は、猊下が神託を賜ったことに納得いかないようだが、構うことはない。具体的な話を続けてくれぬか」と深淵の魔女が軍務卿ゲオルグ・ラーヴェンスベルクに話を向ける。


「いやいや。待ってくれ。冷静になってくれ。頼む」


 カネヒラの言動は既に一介の冒険者の範疇を超えてしまっていた。冒険者組合長の執務室でアデレイドと二人きりで話している訳ではない。非公式とは言え、中央王国でそれぞれ立場のある重鎮たちを前にしている。余りの事態の所為で、身を弁えるという考えが抜け落ちていた。


「神敵ってのは不味い。ミットヘンメルが神敵を完全に打倒するまで一歩も引けなくなる。万が一、勝利を収めたとしても、それは神々の栄光を示したに過ぎない」


 カネヒラは、一旦、言葉を切って、軍務卿に水を向ける。歴代の軍務卿の中でも群抜たる優れた才覚を備える軍略家に意見を求めたが、彼は否定する事もなく、カネヒラに次の言葉を促した。已む無しと渋々と続ける。


「戦勝したところで、帝国の領土など寸土も得られない。ミットヘンメルは自国兵を無駄に損耗するだけだ」と付け加えた。


 アデレイドは、不奪不侵など不要と言い募り、惜しむべきは最良の機会であって、将兵の損耗や高潔無比たることではない、と傲慢さを隠さない。


「完膚なきまで叩きのめして、属国にでもすればよかろう。帝国の神器が皇女たる黒百合殿の存在を差し示したのだ。ミットヘンメルにとって最高の神輿ではないのか?」とアデレイドは主張する。


「国力の差があり過ぎるだろう……」


 カネヒラは現実の壁を差し示すが、アデレイドは現実から目を晒しているのは誰かと問い糺す。


「消耗戦を挑めとは言わぬぞ。それとも戦場において貴様に狩れぬ首があるとでも?」


 会議室にいた全員の目に、一瞬、カネヒラの輪郭が周囲の光を吸い込んだように映った。彼の姿に得体の知れない異形が重なるも、それは直ぐに霧散した。南方公爵と南方女辺境伯は驚愕して目を見開いている。


「俺の相棒がいる限り、それは無い」


 中年の冒険者が衒いなく返せば、ドロシア=エレノアが最初から其処に居たかのようにカネヒラとアデレイドの間に佇んでいた。彼女は怖気を誘う雰囲気を纏っている。


「アデレイド姉様。そんな煽り方するならカネヒラは貸さないよ」と耳を後ろに伏せた猫のように不満と不機嫌さを表明する。


 深淵の魔女は末妹に一暼をくれてから「やや短慮軽率であったか?」と横着者に訊ねた。彼女は悪びれることがない。


「いやいつもの通りさ」とカネヒラが何事もなかったように応えた。


「カネヒラは姉様には甘々——」


 そう言い残して、ドロシア=エレノアは虚空に滲み消える。


「扨も扨も、聖女様を奉りて神敵を討つ。如何にも英雄譚ではないか?」


 その言い回しは実に芝居掛かっていた。無貌の神の如く哄笑を湛え、皇太子を無力な愚か者と蔑視していることが伝わってくる。帝国軍など一突きで瓦解させられると軽んじている。

 しかし、真に厄介なのは皇太子ではないと、カネヒラは何処までも冷静であった。ミットヘンメルは皇太子を戦場に引き摺り出すまでに面倒な戦術的な勝利を積み上げねばならない。その間、侵攻軍に対する帝国の臣民の恨みは、堆く積み上がるだろう。帝国の臣民こそ恐れるべきであり、現状において、仮にも彼らの頂にいる皇太子という地位を侮るべきではない。


「ダメだな。戦後を考えれば悪手中の悪手だ。黒百合の聖女様が、帝国のまつりごとにどう関わるのか判らないが、外国勢力を自ら引き込んだという事実が残る。皇女であれば尚更避けるべきだ。帝国の兵士や民人の恨みを聖女様に押し付けるわけにはいかない」


 今回の戦では、神々の御名やら皇帝の忘形見やらを持ち出すべきではない。代替手段はあるが、それをカネヒラが言い出したところで、この場で通るかは別の話だ。


「我らと帝国とは、未だに西方域の騒乱における和議を結んでおりませんな」


 流石、軍務卿と思わず笑みがカネヒラから溢れた。戦略も政略もよくよく理解されている。指摘の通りで、大げさな理由など必要ないとカネヒラは思う。『フザケンナ、さっさと戦の賠償金払え誠意を見せろ』と言った破落戸ゴロつきの理屈で十分だ。


「侯爵様の仰る通りだ。帝国とは戦争状態。派兵の口実が欲しいのならば、騒乱状態の帝国に法外な賠償金を吹っ掛けるだけだ」とカネヒラは言う。


「払わないのであれば、取り立てに行けば良いということだな」と南方公爵は軽やかに賛成の意を表す。


「足場を固める前に皇太子の力を幾許かでも削ぎ落とせば、帝国内のその他が組み易しと勘違いすることでしょう」と軍務卿も言葉を添える。


「確かに一戦した後は、帝国の身内同士で始めるであろうな」と南方公爵が頷く。


 カネヒラは、公爵様もそう仰ったのだから、事は早めに進めるべきだと主張した。勝つことが前提となっていることに誰も疑問を挟むことはなかった。決して妄想の類を盲信している訳ではない。先の西方動乱にてカネヒラが神話の時代の英俊豪傑を率いていたかのように、僅か数百騎で万の騎馬軍団を擁する西方貴族連合の主将プファルツ・ジンメル伯爵を瞬時に打ち取り、その軍勢を瓦解させたのは、この場にいるミットヘンメルの重鎮たちの記憶に新しい。


「此奴め。聖戦を楽しげに矮小化させおる」


 先ほどまでは、中年冒険者がどうのこうのと言い訳していた割には、根っからの戦人であるかと、アデレイドは半ば呆れ顔で場を仕切るカネヒラを見守る。この横着者は、事前に帝国内の兵力構成と力関係を調べ尽くしていたことを深淵の魔女はその超越的な力によって理解した。

 カネヒラは、傍から冷たく鋭い視線を浴びせられていることに気づくと、申し訳程度にこの騒動の発端に関する始末に言及する。


「呪術師の件は、黒百合の聖女様の出自や解呪の件と一緒に、噂として広げるだけでいいと思うぞ」


 呪術師の悪行は添え物にすべきと諌めてくる。泡立つ種子を覗き見ることなく、顕現するであろう戦の筋書きを的確に読み解いて見せるのだ。全く忌むべき才覚とアデレイドは少々不機嫌になる。


「そう言えばそのような事もあったな。喃、深緑殿。それも捗々しいげんは得られるか」


 少しでも、揺らぎがあるのかと、彼女と同じように刻読みの力を備えた深緑の大司教にカネヒラの策が奏功するのかと尋ねるも返しは肯定的であった。


「卓爾たりえます」



臨淵羨魚りんえんせんぎょなれば退いて網を結ぶに如かず


「なれば決まりだ。破落戸の理屈を唱えた責任は取れよ」とアデレイドは嬉しそうにカネヒラに言い付ける。


「責任も何も問答無用で戦場に放り込むつもりだっただろう……」


 アデレイドは、果たしてそうであったかと小首を傾げ、艶かしい雰囲気をカネヒラに向けた。


「妾は魔女の娘。貴様は。仕方あるまい?」


「おい、その黴臭い——」


 深淵の魔女と中年の冒険者との遣り取りに興味深く耳を傾けていた深緑の大司教が幾分大きな声を上げる。


「嗚呼。素晴らしい。やはり守護者殿でしたかッ!」


 カネヒラはギョッとした表情を深緑の大司教に向ける。恍惚とした表情で両手を合わせ祈るような姿勢で、ヒルデガルドは冴えない男を見つめる。背後に控えているキースが二人を交互に見ながら、不可解極まりないという表情になった。

 南方公爵、南方女辺境伯、そして軍務卿が何事かと深緑の大司教を注視する。白曼珠沙華の聖女は残念そうに、己の師匠でもある深緑の大司教を見守る。


「失礼しました。子供の頃、大好きだったを急に思い出してしまいました」


 嘘である。


 教皇庁の禁書庫に眠る歴史上の断片的な記録。深緑の大司教ヒルデガルドは、嘗ては星詠の民とよばれ、今は魔族と蔑まれる種族たちと古代人間種の英雄との戦記を読み解いている。失われた文字で記された、最初の統一王たる資格を有していた最高の英雄の敗北が書き綴られた巻物に、黒い森の番人とその守護者の名前を発見していた。

 しかし、それは先史時代の神話にすら殆ど痕跡のない人間種の歴史。直感が囁いたのか、守護者という単語を耳にして、冴えない中年冒険者と関連づけたのだろう。尤も、聖ロングヒルの聖杯を対価を求めずに献上するような人物を特別な存在と評価するのも無理からぬことであった。


「ヒルデガルド様は、偶に民話などに失われた歴史の痕跡を発見されます。だからこそ聖ロングヒルの没地も発見されました」と白曼珠沙華の聖女が逐って訳を語る。


「御伽話や民話には、アデレイド様の手料理の隠し味の様に真実味がありますわ」と南方女辺境伯が追唱すると、深緑の大司教も然り然りと頷く。


 深緑の大司教ヒルデガルドは、奇跡や説教も優れているが、それ以上に神話や歴史書が好きで、歴史的な発見の為に奇行に走るという欠点も備えている。それは衆人が知っていた。唐突に何かを思いついては、突飛な行動をとる。深緑の大司教の日常であった。会議に参加している他の重鎮たちは納得する。一段落ついたと見えたところで、深淵の魔女は口を開いた。


「さて、公爵殿。当方の戦支度は如何に?」


 アデレイドが南方公爵を促した。


「今、動かせる兵力は——」と南方公爵が語り始める。


「我が領軍と女伯殿の全軍で3万5千騎。南洋への備えも必要であろう。2万5千騎が限度。西方は全軍2万騎」


「北の魔族に動きはないが、北方も多く見積もって1万5千騎」


 そう言って、如何かなと南方公爵が軍務卿を促す。


「東方殿はその半分程度でしょう。魔物が収まっておりませぬからな」と軍務卿が応える。


「北と東は不要。第一殿に背いた輩に手柄など立てさせぬぞ」


 アデレイドが不機嫌さを露わにする。その強い言葉に南方女辺境伯と深緑の大司教が穏やかな笑みを浮かべる。


「それならば、主将はヴィッテンベルク公ウィルヘルム・グナイゼナウ侯爵殿。副将にはヨルク・シュバーベン子爵を推挙いたしましょう」と軍務卿が西方と南方だけで遠征軍を組織することを提言する。


「後詰として、グレーヴェ伯とマルク伯も参戦いただきたいですね」と南方女辺境が言い添える。


「善き哉善き哉。第一殿も喜ぶであろう。督戦の為、第一殿には女伯殿の領都に暫し滞在して貰おうぞ」


 大いに隙を見せて野心を剥き出にさせてみるのも一興と深淵の魔女は続ける。


「南部軍勢の不在を突いて謀反でも起こせば、妾が手ずから石に変えてくれるわ」


「アデレイド様。お気持ちは、痛いほど分かりますが、仮にそうなった場合であっても抑えて頂けますと幸いです」と南方女辺境伯。


「ならばノルトハイムのボンクラに灸を据えるには如何いかがいたそうか……」


「私どもの聖女を従軍させましょう。然すれば、北も東も面目を失うことでしょう。フローラは赴いてくれるな?」と深緑の大司教。


「ヒルデガルド様。私の望むところにございます」


 そう言うと白曼珠沙華の聖女の周囲から光華閃々と神気が溢れ出る。彼女はふっと息を吐いて感情の昂りを抑える。


「コーニア一族は——」


 神気を抑える為にやや間があってから、一切の感情の抜け落ちた様な声音で続けた。


「私の勇者様を奪いし憎き仇にございます」


 キースとカネヒラは顔を見合わせる。まさか唐突に三条の滝の迷宮の最奥の事件の真相を知らされるとは思わなかった。あの異常事態は、コーニア一族の外法で生み出された呪物が惹き起した悲劇であったかと二人は思い知った。


「仇は討たねばなりませんな」と軍務卿が応える。


「白曼珠沙華殿が戦場に赴かれるのであれば、妾の冒険者組合から英雄ジェフリーと剣聖レイラと賢者ミーアを同行させよう」


「深淵の魔女様には感謝を申し上げます」と白曼珠沙華の聖女は深々と礼する。


「心の赴くままに帝国にて説法するが良い」


 黒百合殿の為にも大いに正教を語り、外法を弄する罪深さを西方大陸の臣民に教え伝えよとアデレイドは激励する。そうして、暫し、外法と迷宮について、深緑の大司教と深淵の魔女が対話することで、幾度と無く外法を用いて繰り返された帝国による侵略行為を同席したミットヘンメルの重鎮たちに語り伝えた。


「それで、当方が4万5千騎程度では不足やも知れぬが、向こうは身内を斬り過ぎて、動員できるのは精々6万程度であろう。如何に?」


「ご明察」と軍務卿が応える。


 あくまでも正面で戦う兵力が4万5千である。陣の設営、資材の運搬、装備の整備、衛生管理、食事準備と配給、量末、燃料、水などなどの運搬、後方支援の人員を含めれば、合計で7万人を越える。水や食料や衛生管理などは、普通の馬や龍馬用にも必要になる。この規模の戦に必要な物資の量を単独で維持できるのだから、南方女辺境伯領は極めて豊かである。


「尤も6万が10倍になろうとも問題にはならない。返って動員する兵力が多いほど速く弱体化する。奴らは自国で飢に苦しむのだ」


 カネヒラはアデレイドの発言を訝しく思う。


「敵国で敵軍を飢させるというのは現実的じゃないぜ」


 確かに、前線に過剰に派兵して、補給が追いつかない状況になることは稀にある。それでも国力があれば数日で解消される程度のことで、戦線が構築されれば、一ヶ月の後には、強固な防御線が構築される。そうして侵攻側が距離の不利により補給や補充が滞って撤退に至る。飢える可能性は侵攻側の方が高い。


「敵に戦線を延々と構築させるほど、貴様は戦下手になったのか?」


 馬鹿馬鹿しいとアデレイドはため息を漏らす。


「短期決戦は当然だ。だが、戦なんてのは相手のあることだからな……」


「交通の要所を押さえ、連絡線を遮断し、物資集積地を焼き払い、そうして帝都や帝国軍を食料供給地から切り離すだけじゃ」


 都市と都市は、街道や河川や運河で結ばれて、生産地と消費地を結ぶ交通路は複数ある。城塞都市であれば一年から二年の籠城を想定した物資の備蓄は当然のことだ。


「言葉にするのは簡単だが——」


 カネヒラは不意に考え込む。兵糧攻めを実行するには、綿の下、年単位の作戦行動が不可欠である。もし実行するならば、なかなか困難を極める作業となる。しかし——


「海上交易路は、直接帝都には届かず、北西から東南へと流れる二つの大河の河口を経由せねばならぬな」とアデレイドが告げる。


 なるほど深淵の魔女が指摘する通りだとカネヒラは合点が行った。南方公爵も軍務卿も納得したのか肯首する。

 帝国の二つの大河の下流域が穀倉地帯となっており、南東部のディアークーリ州の主要三都市を押さえることができれば、干上がらせるまでには至らなくとも、帝都を深刻な経済危機に陥れることは可能である。


「ああ、そういうことか……」


 何も本気で兵糧攻めなど行わなくても構わないということだ。皇太子に対して、綿密な計画に基づく侵攻であると思い込ませること、飢える可能性を信じ込ませること、そして敵対者が直ぐにでも蜂起するという恐怖心を煽ること。単に仕向けるだけだ。足元が不安定な今だからこそ、付け入る隙があるのだと魔女の娘が指し示したのだから。


「簒奪者に地の利を捨てさせ、決戦を挑むように仕掛けるには、まだまだ足りぬかも知れぬが、そういうことじゃ」とアデレイド。


「最初の一手では無血開城としたいところだ。策源地の城壁や城門も保全したい」


 カネヒラがキースを見遣れば、彼は透かさず顰め面を返した。戦に対する嫌悪感を露わにして、巻き込むなと手印ハンドサインを示す。已む無しとカネヒラは切り替える。


「多少の流血は已むを得まい」とアデレイドが物憂げな振りをする。


 彼女も今回はキースを参加させる気はないようだ。


「だとしても損害を極小にする為に黒百合様以外の旗頭が欲しいな」


 カネヒラが中年の冒険者には全く似合わない屈託のない笑顔をアデレイドに向ける。何らかの悪さに思い至ったのであろう。


「貸さぬぞ」と不機嫌なアデレイド。カネヒラが何を求めているかなど彼女には手に取るよにわかる。


 子供かよとカネヒラは一瞬思う。しかし、蒐集癖のある人間の気持ちは分らないわけではない。トレジャーハンターは入手までを楽しむが、その後はあまり頓着しない。コレクターは集めた後も蒐集物に対する執着が甚だしい。趣味趣向についてはそれぞれである。口出しすべきことではない。しかし、今回は背に腹は変えられない。


「全部とは言わない——」


 彼は言いかけて、瞬時に思い直した。


「あ、いや全部だ。全部。あの州の太守はアッシード家に恩義があった筈」


「妾の蒐集物コレクションぞ。滅多に入手できぬ貴重品に仕上がったのだ。黒百合殿には報酬ということでアッシードの跡取りを渡す約束を為したが、まだ手付かずに顕界のはざまに留め置いておる」


「深淵の魔女殿。何の話をされておられるのか?」と南方公爵が不可解とばかりに表情を顰める。彼は、不意を突いて、中央の三都市を力技で落とす事は造作もなく、何らの謀を必要とせずに十分な撒き餌を得ることができると考えている。


「大したことではない。此奴が、只々横着したいが為、ハールーン・アッシードを旗頭として解放区をつくり、黒百合殿を迎え入れるという姑息なくわだてを思いついたのだ」とアデレイドがカネヒラの構想を端的に説明した。


「ハールーン・アッシードはグナイゼナウ侯爵の麾下の術者が討ち取ったと伺っておりましたが……」と軍務卿が訝しげに尋ねる。


「細かな違いなれば大目に見給えよ」とアデレイドが言いながら、戦場の霧というのは彼方此方に湧いて出てくるもではないかと言葉を繋ぐ。


「おゝ、仮にハールーン・アッシードが存命であれは、現状において最良の筋立てを書き上げられるぞ」と南方公爵は喜ぶ。


「彼奴等が素直に従うと思われるのか?」とアデレイドが尋ねれば、「ハールーンに選択肢など残されておらぬ」と南方公爵は説明を続ける。


「アッシード家は代々帝室への忠義が厚く、またハールーンと黒百合殿とは特別な仲であったと聞き及んでおる。仮に帝国を一時的に弱めることになるとしても、必ずや黒百合殿を迎えるであろう」


「道理であるな……」とアデレイドは呟き、南方公爵殿が欲されるのであれば已むを得まいと言いながら、カネヒラには一つ貸だぞと釘を刺した。


「わかってるさ」とカネヒラが鬱陶しげに応えた。


 これでミットヘンメルの侵攻時にペルシアハル帝国が一枚岩になる可能性を完全に潰えさせることができる。否、そうならない為の手立てを用意できたという程度ではある。しかし、多少なりとも気が楽になる。


「簒奪者が聖女である黒百合殿を襲撃したのは確かに落手であったな」


 カネヒラの考えを見透かしたようにアデレイドが語る。


「これでアッシード家が蜂起すれば、暫くの間、帝国は北南で揉める。貴様としては上々な仕上げといったところか?」


 カネヒラは、そうそう都合良くは行くまいと見立てている。皇太子がどうにも影が薄くて、今ひとつ才覚が見えてこない。もしも凡庸とはかけ離れた一角の人物であった場合は厄介だ。


「戦機を読むに鋭敏であれば、戦立てなど構わずに帝都から中流域に一気に下ってくるやも知れませぬ」と軍務卿。


 人的資源が豊富で貧富の格差の大きな帝国ならば、将兵の血肉を燃やして敵をすり潰す消耗戦に持ち込むことも、一見愚策に見えて、戦理に叶う常套となる。


「気に病むことなど何もなかろう」と深淵の魔女は余裕綽々である。


「此奴に妾の傭兵団を率いて参加させるのだ。漏れなく虚空の娘にして魔女の娘たる我が末妹も助力しよう。最早、簒奪者の級首など掌にあるも同じよ」


 アデレイドは続ける。


「兵は拙速を尊ぶとはいえ、碌な戦立てもなく、妾の龍馬三千騎を一体誰が止められようか?」


「龍馬三千騎ですと?」


「此奴が群狼団を手懐けた」


「カネヒラ殿があの厄介者どもを懐柔されたと仰るかッ!?」


「成程、これは実に頼もしい」


 軍務卿が楽しげに語る。


「東も南洋も野犬に餌やりできなくなっただけだ。食い詰めたら餌をくれる新しい飼い主に尻尾を振るものさ」


 カネヒラは、冒険者組合長ギルマスは懐が深いからなと言いながら、自分から話題を逸らしにかかる。大袈裟に持ち上げられると忸怩するに堪えられなくなる。群狼団については、実際、自身の不可欠性など微塵もなく、深淵の娘に首を垂れたに過ぎないとカネヒラは非難を込めたような視線を軍務卿に向ける。


「古兵は、勇無きに従わず、誠なきを崇めず、仁無きに励まず、武無きを尊ばず」


 ああ、この爺様は巧言にして将兵を精励恪勤させる手合いだ、とカネヒラは気づき、逃げが効かない厄介な相手ならば、諦めて聞き流すと決めた。


「まあ、草臥れた輩が多いことは確かだ」


「刺突剣の如くか、それとも斧槍の如くか。グナイゼナウ侯の手腕次第ですかな」


「やることは変わらないさ」


 南方公爵は本筋から外れることを嫌って二人の会話に割って入った。


「我らミットヘンメルは、消耗線を避けつつ、帝国に決定的な一撃を与えることができるということだな」


 南方公爵と軍務卿は若かりし頃に学舎を共にし、親友といえる仲であったため、軍務卿の厄介な性格を心得ていた。助かったとカネヒラは直ぐに頭を切り替える。


「狙い目は、ディアークーリ州の食料集積地の三都市の一つ。ウルゥマだ。そこまで一気に軍勢を進めるのがいいだろう。皇太子は権威失墜を嫌い、親征して威を示さざるを得ない筈」とカネヒラは強気を以って主張した。


「決戦の地はエリィードゥ」と軍務卿が応える。


 ウルゥマ近郊の丘陵地エリィードゥに陣を構え、伏兵を配して、敵が此方を囲い込もうとする拍子で斬首する。やっぱこの爺さん全部わかってるなとカネヒラは舌を巻く。


D.E.ディー。出て来てくれ……」


「何処に連れて行けば良い?」


「最終目的地はウルゥマの西側の丘陵地だ」


「うん。分かった。じゃあ、南方辺境の領都バルトフューゲン近郊の西の平原に兵隊さんを集めてよ。其処からウルゥマの西側までなら簡単に転移門を開くことができる」とドロシア=エレノアが猫のように笑う。


「ご都合が良すぎるにも程がある……」


 いいだろう。いつもの通りだ。魔女の娘たちにはお手上げだとカネヒラは頭を振った。



■驕慢にして放縦なれば太盛は守り難し


 一見すると異様な光景である。南方女辺境伯ヨハンナ・リートベルクは、生ける屍の様な人物を応接用の長椅子に座らせ、対面に座して和やかに会話を交わしている。


「ふぉふぉふぉ。実に愉快でしたぞ」


 空気が抜ける様な笑い声を上げているのは、大賢者との呼声が高い魔術師ユッド・シャハム=イザーンである。白曼珠沙華の聖女フローラと共に三条の滝の迷宮で倒れた勇者と一党を組んでいた人物である。


「国王陛下でも第一王女殿下でもなく、代理人として私の名前で要求を突きつけたのですから、簒奪者殿の心中は暴風の如く荒れに荒れてましたでしょう」


 穏やかな笑顔でヨハンナ女伯は言葉を返す。


親書宣戦布告書をその場で破き捨てて、使者である儂を殺そうとする程度には感情に弄ばれておった」


 宰相にでも相手をさせる程度の知恵も回らない。齢四十半ばを越える者とは思えませぬと大賢者は続ける。


「何よりも己の武を過信しておる」


 大賢者ユッドは皇太子の認知のずれを指摘する。西方大陸は、中央大陸に比べて、魔素の密度が低く、また正教会の司祭に優れた人物が多く、戒律がしっかりと守られていることで、迷宮や魔物の影響を受けずに日々を暮らす事ができる。それ故に皇太子と取り巻きたちは奇跡を含めた魔術を軽んじていた。


「皇太子は、功臣たるアッシード家を追放し、聖女様を除く帝位継承者を悉く死に至らしめた」


「帝室の弱体化は取り返しがつかないでしょう」


「この蛮行は、生母が正妃ではない事が影響しているのかも知れぬ」


「それにしても、老公は簒奪者殿と直接面会したことには驚きました」


 南方女辺境伯ヨハンナ・リートベルグは大賢者ユッドにを託した理由は、ペルシアハル帝国の宮廷魔術師にして副宰相のユースフ・インバウムの知己を得ているからであった。この大賢者は、ラッセル商会の一団に紛れて、何の苦もなくペルシアハル帝国の首都に入城を果たしたが、直ぐに友人は地位を失い幽閉されていることを知る。失脚と幽閉の事由はその日の内に判明した。真っ当な方法では、親書という宣戦布告を現在の帝国の政治的な中枢に届けることはできないと判断すると、力で押し通すと決めた。

 翌日早朝、大賢者ユッドは、皇帝の居城の正門を守る衛兵隊に、中央大陸の大賢者が親書を携えて言祝ぎに参ったと伝えると、空中浮遊と重荷重の魔術を発動して押し入った。


「神聖結界が霧散していれば然も有りなん」


 皇太子による簒奪以後、神々の不興により神器は力を失い、また一時的な措置とはいえ宮廷から魔術師を全て遠ざけていたため、大賢者ユッドの暴挙を止める手立ては、皇太子には殆ど無かった。


「朝早いにも拘らず、ラッセルが偶然にも謁見室におった。彼奴が慌てて取りなしておったわ」


「ラッセルも冷や汗をかかされた事でしょう」


「儂が勝手にやったことよ。最後は、彼奴等の目前で派手に爆散してやったから、嘸かし、愉快な様態になったであろう」


 ヨハンナ女伯には、態々、大賢者ユッドが爆散などという擬態を使ったのであれば、皇太子の護衛としてコーニア一族が控えていたのであろうことを直ぐに理解した。確かに呪法陣と呪物が皇太子のための最終防御線として準備されていた。


「それにしてもラッセルめ。油断ならぬ。外法の一族とも繋がっておるのかも知れぬ」


「コーニア一族とですか?」


「散々、世話になりて陰口を叩くのは、何だが、彼奴は帝国の間者にも思える」


「商人とはその様な者共です。売れるものは何であろうと売りましょう。旗幟鮮明とは参りませぬ」


「忠誠心の所在は金。故に分かり易いとも言えるが、此度は少々目に余る」


「皇太子経由で西方大陸での商売を広げておりましたから、簒奪に必要な力を蓄えさせた者の1人と見なすこともできます。しかし、アッシード家の西方域浸透に加担していなかったのは、先見の明ありとも言えましょう」


「女伯殿は——」


 大賢者ユッドは言葉を止めた。改めて、ラッセルの後ろ盾を思い起こす。ミットヘンメルにて芸術公と名高い王弟だ。なるほどと得心が行く。

 ヨハンナ・リートベルクに落ち窪んだ眼窩を向ければ、橙色の仄暗い室内による陰影を携えて、人ならざる気配を醸し出していた。この掘り返しは彼女にとって不快であったかと、それ以上はラッセルについて語ることを止めた。深淵の魔女の高弟は、ラッセルが南部に不利益を為すようであれば、手ずから処断する筈だ。余計な物言いは不要。


 暫しの沈黙を経て、ヨハンナ女伯が尋ねる。


「ところで帝都の様子は?」


 死霊の様な恐ろしい相貌を崩して、大賢者は答える。


「中々、珍妙であった」


 其れ等は神々の怒りに起因する事であるのか、判然としないことではあった。


「黒百合の聖女様の結界が消失は予想の範囲内であったが、がほぼ使用できないことになっておるのには笑いしかでてこんかった」


 大賢者ユッドは、西の正教会の大司教どもが神々の怒りに恐れ慄いている素振りで不作為を決め込んでいると付け加えた。


「帝国は魔道具や自動機械が普及している筈ですので、生活には支障はないと思われますが——ああ、僅かな富める者が生活を維持できるということですね」


「帝都全体の衛生管理が厳しい状況に陥っておる。このままでは一年持つか怪しい」


清水しみずの供給と汚水の処理ですか?」


「左様。浄化の奇跡の効きがすごぶる悪く、貧しき者が難儀しておった」


 帝都において、本来の都市収容量の数倍の人口を支えていたのは神々の奇跡あってのことだ。


「帝都では、錬金術師、魔術師、そして呪術師やらが多方面に駆り出されておる。術者を属州からも広くかき集めた所為で、属州が早々に機能不全に陥ったのは間違いあるまい」


「降雨量が豊富な中部以南は猶予がありそうですが……」


「魔素の淀みが生じて、其処から魔物が出現し始めておる。其の分、術者の活躍のしどころではあるが、扨どうなるものか。色々と読めぬわ」


「迷宮が活性化する前に神々の怒りを鎮めねばなりませんね」


「その為には早々に皇太子は討ち取るのがよかろう」


「戦が長引くとは思いませんが、黒百合の聖女様には、一日でも早く、相応の儀式を中流域で実施していただく必要はあるでしょう」


「食料が魔素で汚染される可能性か」と大賢者ユッドは呟くと、暫し考えてか「ユースフの奴めに注意を促しておこう」と続けた。


 ヨハンナ女伯は、大賢者が帰り掛けの駄賃とばかりに、帝国の元副宰相を中流域まで逃れさせたことを知らされた。全く油断のならない御仁だと彼女は思う。

 今までの話を聞く限り、謁見の際に皇太子を斃そうと試みた可能性が高く、下手をすると全面戦争になっていた。尤も、コーニア一族が何の用意もしていない筈もなく、実際、大賢者ユッドが事前に時間逆行の祝詞と共に仕込んでいたに反呪と凝集と爆縮の魔法は、汚い花火程度で終わった。それも皇太子の自尊心を酷く傷つけるに十分な煽りとなった。怒りが収まらない内にミットヘンメル中央王国の軍勢が大挙して穀倉地帯を急襲すれば直ぐにでも軍を率いて親征するに違いない。其処まで読んでの悪戯なのだから始末に負えない。


 その悪戯の副次的な効果として、目前の干からびた死体のような風体である。呆れ半ば程で、ヨハンナ女伯は尋ねた。


「老公。つかぬことをお伺いいたしますが、そのお姿、気に入られたのですか?」


「謁見室とて一寸油断しすぎた。また時間をかけて戻さねばならぬ」


 難儀なことだと呵呵と高笑い。


 不死者の状態が気に入っているわけではないらしい。


「呪因を魔力爆縮させて霧散したように偽装したのだが、何ぶんにも呪因の量が多すぎた。あれは防御手段としてお粗末に過ぎる」


 ヨハンナ女伯は、一瞬、表情を曇らせた。呪因を生理的に嫌っているからだ。呪因は魔素の派生形態に過ぎない。高位の魔術師であれば、誰もが使うことができるが、好んで使うような者は少ない。一般には呪術師と呼ばれている変わり者が呪因を巧妙に操る。彼女は決して呪因に触れることはない。


 我々の身近な物で例えるなら魔素は原油であり、原油から様々な形態の燃料が抽出できるのと同じ様に、呪因は言うならば残油だ。安易に膨大な魔力を取り出すことができるが、使用者への反動が大きく、制御も難しい。


 彼女は、僅かな間ではあるが、魔術体系の初歩を思い出していたが、大賢者が「ああそうだ、バンシーでも召喚してやればよかったか」などと物騒なことを言い出したため、思考を本筋に戻すことにした。


「それにしても彼奴ら外法を安易に使いすぎるわ。あれでは、周囲の者どもの精神汚染が酷いと見立てて間違いない」


「反動を抑えるためには浄化は不可欠です」


 神々の怒りにより神器を失い、西の正教会にそっぽを向かれていては、浄化の手立ては、生命力によって自然に呪因が排出されることを待つことしかない。


「さて、ここまでのお話を伺う限り——」


 南方女辺境伯ヨハンナ・リートベルグは、一拍置いてから、言葉を続ける。


「簒奪者殿が操り人形というのは些か無理がございましょう」


「自ら好んで外法まみれの神輿に乗ったのであろう。軒を貸して母屋を乗っ取られるの類じゃな」


「妄執に囚われた権力者が利用されて、国を失うと言うことですね」


「左様。コーニア一族は、アッシードに仕えるより、直接帝室に入り込む方を選んだ。合理である」


 大賢者ユッドは、落ち窪んだ眼窩に赤い光を灯らせながら、首尾良く行くとは思えんと付け加えた。


「なるほど何方側も太盛難守たいせいなんしゅですね」



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