Googleさんに教えてもらったこと
【前九年の役(1051〜1062年)で行われた謀略】
① 敵を嵌めるための自作自演:阿久利川(あくとがわ)事件内容: 源頼義の陸奥守としての任期が切れる直前、頼義の陣営が「安倍氏のトップ(安倍貞任)に夜襲をかけられ、馬や人が殺害された」と騒ぎ立てました。これを口実に、一度は和平を結んでいた安倍氏の討伐を再開しました。効果: 実際には、もうすぐ京都へ帰らなければならない頼義が、安倍氏を滅ぼす口実を作るために仕組んだ自作自演の「偽旗作戦(陰謀)」であったという説が極めて有力です。これにより狙い通りに戦争を再開(泥沼化)させることに成功しました。
② 内部告発による離間(りかん)の計:平永衡の処刑内容: 安倍氏の娘婿でありながら源頼義の陣営(官軍)に属していた平永衡(たいらのながひら)に対し、頼義側から「永衡は敵(安倍氏)と内通して、銀の兜を目印に自分を攻撃させないようにしている」という密告(情報操作)がなされました。頼義はこれを信じて永衡を即座に処刑しました。効果: この処刑に身の危険を感じたもう一人の娘婿、藤原経清(つねきよ)が官軍を裏切って安倍氏側に寝返りました。経清は優れた知略と財力で源氏を翻弄し、一時は源氏を全滅寸前(黄海の戦い)まで追い詰める結果となりました。
③ 敵の同盟者を抱き込む買収工作:清原氏の参戦内容: 安倍氏の圧倒的な武力の前に敗北を重ね、兵力も尽きかけていた源頼義は、隣国(出羽国)の強力な豪族である清原武則(きよはらのたけのり)に対し、大量の財宝や臣下の礼をとるほどの熱意で見返りを約束し、味方に引き入れました。効果: これにより清原氏が1万以上の大軍を率いて参戦。圧倒的な劣勢だった源氏が一気に大逆転し、安倍氏を滅ぼす(厨川の戦い)決定打となりました。
【後三年の役(1083〜1087年)で行われた謀略】
④ 土地の不平等分配による「一族の共食い」誘発内容: 前九年の役で最大の勝者となった清原氏でしたが、一族内で内紛が勃発します。調停に入った陸奥守の源義家(八幡太郎)は、清原一族の清衡(のちの奥州藤原氏の祖)と家衡の二人に領地を分配する際、わざと片方に有利になるような不平等な分け方をしました。効果: 義家の狙い通り、土地の分配に激怒した家衡が清衡を襲撃し、清原一族は泥沼の自滅(内戦)へと突き進むことになりました。他国の勢力を弱体化させるための典型的な「分割統治(離間の計)」です。
⑤ 防衛ラインを崩壊させた寝返り工作:藤原千衡の内応内容: 最終決戦となった金沢柵(かなざわのさく)の戦いで、籠城する清原軍は非常に強固で、源義家・清衡の連合軍は攻めあぐねていました。そこで義家らは、城の守備の要であった吉彦秀武の甥・藤原千衡(ちひら)に秘密裏に接触し、寝返りの約束(内応)を取り付けました。効果: 千衡が官軍(義家側)へ内通したことで、金沢柵の鉄壁の防衛体制に致命的な穴が空きました。
⑥ 兵糧攻め(飢餓作戦)による心理的・肉体的破壊内容: 内部への調略と並行して、義家は城を完全に包囲し、一粒の兵糧も中に入れない徹底的な飢餓作戦を敢行しました。城内から降伏を申し出る女子供が来ても、敵の戦意を削ぐためにわざと一切容赦せず追い返しました。効果: 最終的に城内は凄惨な飢餓地獄となり、肉体的にも精神的にも限界を迎えた清原軍は内部分裂を起こし、金沢柵は陥落。清原氏は滅亡しました。
【まとめ】
これらの歴史から分かる通り、戦国時代の「忍者」のような専門組織がなくても、「偽の情報を流す」「敵の身内を裏切らせる」「不和の種をまいて自滅させる」といった高度な謀略(第五列の使役)は、平安時代の奥州合戦の時点で勝利のための必須戦術として確立されていました。