赤と緑。いつも、いつまでも。

呪文堂

いつも。いつまでも。

 身体が浮く。

 振動。

 無音。

 明かりが消える。

 赤いランプがつく。


 漸く、尋常でないことが起きていると認識する。

 地下鉄の改札口。

 蛍光灯の明かりは全て消えた。

 非常灯の赤い光が、点点と見える。


 また、振動。がらがらと遠くから響く音。地下鉄構内は地震に強いと聞いたが、危ないのだろうか。

 素早く周囲を見渡した。誰もいない。


 いや。

 少し離れたところに女性らしきシルエットが見えた。頭を抱えうずくまっている。

 とっさに声を掛けた。

「崩れるかもしれない、出口まで行った方がいい」

 彼女は顔を上げた。恐怖で体が動かないのか、じっとこちらを見詰めるまま。また、振動。僕は彼女の手を取り引き上げて、強く言った。

「急ごう!出口はすぐだ!」


 長い階段を上ると地下鉄の出口が見えた。上りきるまで後ろは振り向かない。しっかりと手を握って、一段一段上る。


 外は、土砂降りの雨だった。

 まだお昼過ぎなのに、外は真っ暗だった。下を見てぎょっとした。墨汁を溶かしたような黒い水滴。黒い水溜まりが出口フロアに広がっていた。


 黒い雨。


 ・・火山の噴火? だが、ここ東京に影響を与える火山など。・・富士山?

 もしくは、・・核、か。


「この雨には触れない方がいいです」

 僕は彼女の手を再び取って、雨が吹き込まない辺りまで階段を下りた。頼りない赤い光が灯すなか、僕らは階段に座り込んだ。

 スマホは、やはり通信が途絶えていた。ネットはもちろん通話もできない。

 爪先の方向には、地下へと進む闇が続いていた。誰も、登ってこなかった。

 背中では、強い黒雨が降り続いていた。誰も、入ってこなかった。

 

 彼女は震えていた。師走とはいえ、昼過ぎにしては馬鹿に冷え込む。僕は隣に座る彼女の背に手を添え、ゆっくりと摩擦した。一瞬、彼女はびくりと肩を揺らしたが、されるがままにいた。僕は、話をすることにした。なるべく静かに、ゆっくりと話した。


「すぐ近くに仕事場があって。古い雑居ビルです。仕事を初めてから、ええと、十二年くらい。一人でやっているので気楽ですが、忙しいときはてんてこ舞いで。仕事がなきゃ困るし、忙しいと苦しいし。なかなか難しい。自宅は高円寺で。そっちもボロアパートですがね。自宅兼事務所って、僕はどうも駄目なんです。怠け者なのでしょうね、仕事場を分けないと布団から出られない」

 彼女は、ふふっと笑った。ぽっと、明かりが点いたようだった。

 僕らは自己紹介を兼ねるようにして、ぽつりぽつりと語り合った。



「雨、上がったみたい」


 彼女が後ろを見ながら言った。横顔が見えた。そのとき初めて、彼女の顔をしっかり見た。綺麗な子だった。

 こんなときだというのに。どきどきしながら、僕は自らを心の中で叱咤した。ごまかすようにスマホを見た。午後4時過ぎだった。



 僕らは、恐る恐る外に出た。

 道路には墨汁を溶かしたような水溜まりがあちこちに広がり、ガラスが散乱しているところも見えた。

 空を見上げて、僕は息を飲んだ。


 ビルの間に広がる濃いピンク色の空と、紫色の入道雲。


 いつもの夕焼け空とは、まるで違う空だった。彼女がぎゅっと腕にしがみついた。僕もしがみつきたかったが、堪えた。

 真っ暗な夜空の方がましだった。奇妙な明るさを持つ空は、あまりにも不穏だった。

 まるで。

 終末の始まりを示すようだった。


 僕は無理して笑顔を作り、努めて明るい声で彼女に言った。

「おなか、空きましたね。僕の仕事場、すぐ近くなんです。大したものないけど、何か食べませんか?」

 食欲なんかなかった。でも、温もりが欲しかった。

 彼女も、同じだったようだ。こくりと頷き、静かに「ありがとう」と答えた。

 


 古いビルだが、骨格はがっしりしている。元々官用宿舎だったものが、払い下げられたらしい。周囲のビルのような洒脱さとは無縁だったが、頑丈であることだけは再認識できた。隣のビルは傾いたり崩れたりしていたが、このビルだけは普段通りだ。いつもくすんでいるから、黒い雨に濡れても外見に変化は見られなかった。

「ここの、三階です」

 彼女は僕とビルとを交互に見上げると、すいっと中に入っていった。僕は彼女を追いかけた。


 室内は書籍が散乱していたが、思ったほど被害を受けていなかった。どうせ、いつも乱雑な仕事場なのだ。女性を招き入れるには抵抗あるが、今なら『異変』のせいに出来る。

 電気は、やはり付かない。薄暗い室内を進み、キッチンにある電気ポットの蓋を開けてみた。白い湯気が上がった。よかった、保温はされていたようだ。

 僕はキッチン下の戸棚から二つのカップ麺を取り出した。そして、玄関に立っていた彼女を招き寄せ、その目の前に両手をにょきっと付き出した。右手には赤いパッケージの、左手には緑のパッケージの。

「赤いきつねと緑のたぬき、どっち?」

 付きだされたカップ麺を見て、彼女は少しうろたえた。

「あ、はい。・・でも、貴重な食糧ですよ」

「この状況じゃお湯の確保が大変だと思う。運良くポットのお湯が残ってました。食べるなら今をおいてない・・さあ、どっち?」

「あ、はいっ・・えっと、じゃあ・・」

 割りと真剣に悩んだ彼女は、遠慮がちに『赤いきつね』を指差した。

「了解っ・・水はまだ出るかもしれない、洗面所はそっちです」

「ありがとう」

 洗面所に向かう彼女の姿を見届けてから、僕は『赤いきつね』と『緑のたぬき』のビニールを破いた。蓋を半分開け粉末の入った袋を取り出し開く。あの、なんともいえない佳い香りが鼻腔を擽る。

 途端に、腹が鳴り始めた。非日常の景観に萎縮していた胃袋が、日常の『うまい香り』に救われて、再び力を得た瞬間だった。僕は嬉々としてポットのお湯を注いだ。


 彼女が、戻ってきた。

「あっ」

「え?」

「い、いや。・・髪型が変わった、かな」

「あ、おうどん、頂くから・・」

 彼女は髪の毛を後ろで結っていた。なるほど、長い髪が邪魔にならないように、か。

「そ、そっか。似合うよ。いや、さっきの髪型も素敵だけど。いや、つまりそのっ、・・そろそろ5分、経つね」

 僕はしどろもどろになりながら、喘ぐように言った。彼女は頬を染めながら、優しく笑った。

「3分は、過ぎちゃいました?」

 ・・やっぱり。

「どう、しました?」

「い、いや。どうぞ座って。はい、きつねうどん」

「わあ、ありがとうございます」

 武骨なテーブルと古いソファーが我が事務所の応接セットだ。僕はテーブルの上に赤と緑を置いた。彼女が赤で、僕は緑。

 僕らは蓋をじじーっと開けた。柔らかい出し汁の香りが漂う。

「頂きまーすっ!」

「頂きますっ」


 発泡スチロールの容器を持ち上げ、いつものように一口啜った。醤油ベースに鰹が効いた汁。ふわっと口に広がる。

 ・・ああ、この味だ。

 顔を上げると彼女も同じようにしていた。そして容器をテーブルに置くと、にっこりと微笑んだ。

「やっぱり、美味しいです」

「うん。いつもとおりに、うまいね」

 僕はずぞぞっと蕎麦を啜った。うまい。


 外の世界は見たこともない不穏さに満ちていたが、赤と緑はいつもとおりの、懐かしいような安らぎを与えてくれた。

 彼女は箸を持ち上げては、うどんにふーふーと息を掛けていた。僕と目が合うと、恥ずかしそうに笑った。

 ・・その笑顔を見て、確信した。


 僕は。

 彼女を、知っている。



 そのとき。突き上げるような振動がきた。今までと比べ物にならない、振動。僕は咄嗟に立ち上がった。飛び込むように彼女に覆い被った。









 世界は 暗転した


















「歩きスマホ、ならぬ歩き読書!やめなさいよ、危ないわよっ!」

「・・なんだ、美鈴みすずか。・・おい!よせっ!返せよっ!」

「どれどれ。ばか勇士ゆうじはなに読んでるのかな?・・ツァラトゥス・・なによこれ。相変わらずむつかしそうなのを・・どうせ分からないんでしょ?」

「うっさいんだよ、返せ」

「きゃっ!やめてよー、乱暴者~っ」

「どっちが・・」

「・・ねえ」

「あん?」

「・・また、見たよ」

「・・お前も、か・・」

「勇士も?」

「ああ。・・しかも今回は細切れじゃなく、通しだった」

「えっ・・あたしも・・」

「ホントかっ!・・」

 繰り返し見る夢。しかも、幼馴染みの二人が共通して見ているらしい夢。

「地下鉄から始まり、カップ麺を食って、終わりか・・」

「うん」

「・・なあ、美鈴」

「なあに?」

「あ、あの。・・ちょっと髪をさ。ほどいてみてくんない?」

「え?・・・こう?」

 美鈴は器用に手を後ろに回し髪を解いた。光る黒髪が流れた。広がり落ちた黒髪は、急に美鈴を大人っぽく魅せた。


 美鈴は艶々した唇をにゅっと曲げ、いたずらな笑みを浮かべて言った。

「どっちが、好き?」

「な、なぬっ?」

「ふふっ・・どっち?」


 勇士の身体中から汗が吹き出す。

 しかし、よくよく見れば美鈴も頬を赤らめ目を細めていた。

 それを認めた勇士は少し楽になり、静かに息を吐き出し言った。

「うん。・・たまには、赤いきつねかな」

「なっ!なに言ってんのよ!」

「え?赤か緑、だろ?お前いつも赤だろ。たまには俺が赤にするよ。あれに餅入れると最高なんだ」

「・・ばか勇士っ・・赤は渡さないから!あんたは緑に生卵でしょっ!」

「それそれ!緑のたぬきに生卵っ!それまた最高なんだよなっ!」

「ばかぁっ!」

「痛てっ!な、なんだよ!叩くなよっ」



 キーン コーン カーン コーン ・・



「いけない予備鈴!ばか勇士、急ぐわよ」

「へいへい」


 勇士は美鈴の手を引いて走った。美鈴は驚いた顔して勇士を見たが、掴まれるままにした。勇士はその手を少し力を込めて握った。美鈴もまた、少し握り返した。








 夢か。過去の記憶か。未来の予知か。

 解らない。


 しかし。

 この世が繰り返し繰り返し回るなら。



 重要なのは、今、このとき。



 この瞬間瞬間を。

 いつものとおりに、いつもの温もりを感じて生きること。


 蓋を開ければ何があるかは知っている。

 それで、いい。

 懐かしいくらいに変わらぬ悦びを、絶え間なく紡ぐのが生命だ。






 ちらりと見上げると、澄み渡った師走の青空が何処までも続いていた。






 握ったこの手は、離さない。


 いつも。・・いつまでも。





おしまい

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赤と緑。いつも、いつまでも。 呪文堂 @jyumondou

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