赤いきつねと緑のたぬきと黄色い満月

綾坂キョウ

赤いきつねと緑のたぬきと黄色い満月

「妊娠中は、お腹の赤ちゃんに栄養を送らないといけないんだから。ちゃんと食べなきゃ駄目よ」


 すれ違い様に聞こえた言葉に、あたしはぴくっと肩を竦めた。

 外はもうとっくに暗いのに、スーパーの店内はやけに明るい。ちらりと振り返ると、母と娘の親子のようで。「分かってるってば」と返事をしている娘さんの方は、ほんのりとだけど、お腹が目立っていた。


(あたしと、同じくらいかな)

 思わず、自分の腹をさする。

 待望の赤ちゃん――とは言え、正直嬉しいのと戸惑いと、半々と言ったところだ。夫の幸寿ゆきひさの方がなんだか張り切っていて、妊娠中にした方が良いこと、悪いことなど、やたらとネットで調べては、こちらに話してくる。


(お腹の子への栄養……かぁ)

 分かってる。だからちゃんと、大好きな肉より魚をメインにして、「まごわやさしい」な食材も意識してとるようにしている。


 吐き悪阻じゃないのは、ありがたかったけれど――代わりに食べ悪阻がひどくて、なにか食べていないとすぐ気持ち悪くなっちゃうから、つまみ食い用に干し芋やナッツとかも準備している。


 そんな生活を三ヶ月くらい続けてるけど――今日はなんだか、やけにしんどい。


(仕事中は気を張ってるからなんとかなるけど……家に帰ると昼間頑張った分のツケが出るんだよなぁ。夕飯……今日はもうなんにも作りたくない)

 弁当でも買って帰ろうか。魚系の弁当なら、幸寿も文句言わないかな? でも体重ちょっと増えすぎてるし、揚げ物入ってるのは嫌だな――そう、弁当コーナーを物色していると。


「あ」

 ふと、「お弁当のお供に!」とカップ麺のコーナーがすぐ近くにできているのに気がついた。無造作に展示用のかごに詰め込まれたカップ麺たち。その中に紛れて、「赤いきつね」という文字がピカリと一瞬光ったかのように、私には感じられた。

「うわ……こういうの、最近食べてないなあ」

 思わず手に取りながら唸る。だって、妊娠中はお腹の子に栄養がいくから、インスタント食品なんて食べたって仕方ないし。それより、焼き魚の弁当を買って。野菜の煮物とかもお惣菜コーナーで買おうかな。体重が増えすぎないように、糖質の量だってちゃんとコントロールして。だから――。


「だからカップ麺なんて買っちゃダメなのに……ダメなのに!」

 なぜか赤いパッケージをかごに入れてしまった自分に、頭を抱える。

(だって……だってなんか無性に食べたくなってきちゃったんだものっ)

 そう、胸の中で自分に言い返す。


 確かに妊娠前にだって、カップ麺は普通に食べていたけれど。今はその頃の比ではないくらい、ものすごく口の中が、頭の奥の方が、このパッケージ下で今は眠っている、少し柔らかく平たい麺を食べたくてたまらないと叫んでいる。甘じょっぱい汁を飲みたいと訴えている!


「……っあーもう! 知らないっ」

 言いながら、あたしは幸寿の分の弁当と、更に目に入った別のカップ麺をかごに突っ込み、急ぎ足でレジへと向かった。


※※※


「ええっ、カップ麺!?」


 私よりやや遅れて帰ってきた幸寿は、食卓に並べられた夕飯を見て頓狂な声を上げた。


「幸寿には、お弁当もあるよ。そのお供にこれ。緑のたぬきで良い?」

「ま、まぁ。これ好きだから別に良いけどさぁ」

 椅子に座りながら、幸寿が口を尖らせる。

「俺じゃなくて、蓉子ようこはそれで良いわけ? カップ麺だけって……栄養が」

「今日はもう良いの!」

 絶対に言われるだろうと思っていたからこそ、あたしは事前に考えていた想いをきっぱりと口にすることができた。


「毎日毎日毎日毎日、ちゃんと栄養取ってるし。たまには息抜きだって必要なのっ」

「だからって……カップ麺じゃなくても」

「今日はこれが食べたいのっ! これじゃなくちゃダメなのッ」


 そこまで言うと、幸寿は気圧されたように少し首を竦めた。畳み込むように、「それに」とあたしは言葉を続ける。


「カップ麺だから栄養が取れないってわけじゃないよ。調べたんだけど、赤いきつねと緑のたぬきは、ビタミンBとカルシウムが少し入ってるんだから」

 カップの側面に書かれた栄養価を指差すと、幸寿は驚いた声で「ほんとだ」と呟いた。


「妊娠中は塩分に気をつけないとだから、念のためスープは残しますっ。あと、乾燥ワカメを入れるでしょ。それからたんぱく質に卵!」

 ぺりぺりとふたをめくり、そこに生卵をぽとりと落とす。途端、幸寿が「えっ」と呻いた。


「赤いきつねに生卵って……」

「月見うどんみたいなものだから、合わなくはないと思うんだけど……まぁ見ててよ」

 幸寿の反応にちょっと不安になりつつ、卵の上に優しく熱湯をかけていく。透明だった卵白が、うっすら白く色づいた。


「あっ、粉末スープ忘れるとこだった。これもちゃんと入れて……」

「俺の蕎麦にもお湯入れてよ」

「分かってる分かってる」

「あっ、天ぷらの上にお湯かけないで」

「……わりとこだわるじゃん」


 たぬきの方もふたをしめ、ほうと息をつく。二人して無言で、じっとカップを見つめた。


「……まだかな」

 幸寿が先に口を開く。

「まだでしょ。お弁当食べちゃえば?」

「いや、蕎麦と一緒に食べたいし」

 なんだか、あたしより楽しみにしているような様子に、ぷっと吹き出してしまう。

「そう言えば、お弁当温めないの?」

「……これは俺の持論なんだけど。カップ麺食べるときって、冷や飯と合わせると最高じゃない?」

「ぶふっ!」

 とうとう吹き出すどころか、思いきり笑ってしまった。


「持論とか、かっこつけて言うからなにかと思ったら……っ」

「だって絶対旨いんだって! 温かい汁で、冷たくて少し固くなった米がほろほろ解れてく感じとか……」

「分かった分かった。好きにするが良い」


 頷いてやりながらふたを開くと、白い湯気と共に、甘じょっぱい香りがふんわりと鼻先まで漂ってきた。卵も、良い感じに熱が通って半熟になっている。


「なんか、卵が満月みたい」

 あたしが言うと、「旨そうな満月」と幸寿がちゃちゃを入れてきた。無視して、手を合わせる。

「いっただきまーす!」

「お、俺も! いただきますっ」


 やや太い麺を軽く解して、一気にずずずっとすする。口の中が、お待ちかねの味でいっぱいになる。

「これこれこれ! しょっぱさの中に出汁と甘みを感じるこの味っ」

 がぶりと、油揚げにもかぶりつく。味つきの油揚げは汁を吸って、かじりつくと濃いめの旨味がまた口の中に溢れ出してくる。

「おいひぃ……っ」


 ちらっと見ると、幸寿もズルッと勢いよく麺をすすっていた。

「緑のたぬきは、この縮れた麺が良いんだよなぁ」

 嬉しそうな顔で口をはふはふする幸寿に、「なんで?」とあたしは首を傾げた。

「こいつ、他のカップ蕎麦より麺が縮れてるんだけど、おかげでつゆがよく絡むんだよ。出汁が効いた汁と麺とが、ぐわっと口の中に入ってきて……更にそこで、少し柔らかくなった天ぷらを箸で割いて、一緒に口の中で味わうだろ。もう最高……」


 なんだなんだ。幸寿って、あたしが思ってたよりずっとこういうの、好きだったんだ。きっとあたしと一緒に、これまで我慢しててくれたんだな。


「そうだ。卵、卵っと」

 熱の通った卵の表面をつつくと、中からトロリとした黄身が溢れてきた。それを白い麺に絡ませて一口食べると――。


「んっ! あたし天才っ」

「えっ、なになに」

「半熟卵の濃い黄身の味が、甘じょっぱさをまろやかにしてくれて……めちゃくちゃ合う! 美味しくて栄養も取れるとか最高っ」


 すすりながら歓声を上げるあたしに、なぜか幸寿は「こっちだって負けないぞ」と何故か対抗してきた。


「時間が少し経って汁の染みた天ぷらが、ほろほろ崩れてきて……麺をすすったときに、味わいがジューシーになってくるんだ」

 あたしと幸寿の間でバチバチと火花が散り――だけどそれはえ、一瞬で消えた。


「幸寿。あたしが今、なに考えてるか分かる?」

「もちろん……」

 せーの、と声をかけ合う必要もなく。あたしたちは、声をそろえて言った。


「交換こしよう!」


 たぬきときつねが、あたしと幸寿の間を行き交う。目の前に来たそれをズズッとすすり、あたしたちは顔を見合わせ、また自然と声をそろえた。


「おいしいっ!」


※※※


「あー、食べた食べた」

 カップの中身もお弁当も空にした幸寿が、満足気に呟く。

「うぅぅ……スープ……もっと飲みたい……めっちゃあと引く美味しさ……これで茶碗蒸しとか作りたい……」

「あー、それ絶対美味しいやつ」

 呑気に呟く幸寿を、あたしはじとっと睨んだ。


「まぁまぁ。赤ちゃん産まれたら、好きなだけ食べれば良いじゃん」

「そ――」

 そうだよね、と言いかけ。過ぎった考えに、げんなりと肩を落とす。


「赤ちゃん……できたら、母乳あげようと思ってるし……」

「あー。じゃあ卒乳してから?」

「……あと二年くらい後かぁ」

 ぐすぐすと鼻を鳴らすあたしに、「そう気落ちしないで」と幸寿が肩に手を置いてきた。


「俺、思ったんだけどさ。なんか、今日久しぶりに、笑いながら飯食ってる蓉子見たなって」

「え?」

 思いもしなかった言葉に、あたしはしばらくぽかんとしてしまって。そんなあたしを、幸寿は笑った。


「栄養ある飯もすごい大事だけどさ。でも、たまにこうして、好きなものを味わうってのも――なんて言うか、同じように大事なんじゃないかなって」

「幸寿……」

 幸寿の言葉に、お腹と一緒に心がぽかぽかと温かくなる。


「少なくとも俺さ、きっと赤ちゃん生まれてからも、今日のこと思い出しそうだよ。赤いきつねと緑のたぬきと、あと満月を見たらさ」

 少しおどけて言う幸寿に、「確かに」と笑う。


 きっと――あたしも忘れない。

 薄茶色の空に白い平麺と一緒に浮かんだ、まろやかで優しい味の満月を。

 幸寿と二人で笑いながら食べた、この甘じょっばい時間を。

 これからも、満月のようにまぁるく膨らんでいくだろうこのお腹をさすりながら。私はそんなちょっと先の未来に想いを馳せた。


「――ごちそうさまでした!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤いきつねと緑のたぬきと黄色い満月 綾坂キョウ @Ayasakakyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ