第1話 初めまして神様

20☓☓年5月

「いってらっしゃい、りゅう

 見送りの言葉を聞き流しながら重苦しい曇り空を見やり、雨が降ると面倒だなと思いながら歩きだす。塾なんて行きたくないが、中学受験に失敗した自分にはもう抗議することすら許されていなかった。

 "今は何も言わずに従いなさい、次こそは望まれた高校に合格するように"と与えられた期待ノルマはどこの家庭も代わり映えしないもので、それを受け入れる自分もまた代わり映えしなかった。けれどそれをこなしている間だけが失敗を抱えた自分の存在を許してもらえる時間であったから、逆らうことは到底出来そうもなかった。

 緩慢な足取りでありながらも言いつけ通り十分前に目的地にたどり着いてしまったことに自嘲する。数ヶ月で監視がなくとも従順になるように変わってしまった自分を突きつけられるこの瞬間が一番嫌いだった。なんとか切り替えようと今日の授業について考えながら、足早に教室に向かう。



 暗闇にちらちらと踊る光を眺め、雨が降り始めたのだと気がついた。あと数十分で帰路につけたというのに、空はその少しの時間を自分のために待ってはくれなかった。暫く眺め続けたが止みそうもなく、何故か安堵を覚えた自分から目を背けるように授業に意識を引き戻す。

 ふと机を見ると、記憶にない紙切れが筆記用具に混ざっていた。よそ見をしている隙に入れられたのだろうそれは、よくあるノートを雑にちぎった紙に短い文章が走り書きされていた。


 "神様に会えるから、一緒に行きませんか。仲間になりましょう"

 

 神様ってなんだよ、そんなのいるわけないだろ。

 そう思いながら隣をちらりと見れば、いたって普通の同年代の女の子が熱心に先生の解説をノートに書き込んでいた。とてもオカルトに傾倒しているようには見えなかったが、整然とした文字列が無くなった端を避けて歪んでいることからどうやらこの子からのメッセージで間違いないようだった。

 あまりにも怪しいが、ただの宗教勧誘にしては随分と粗雑なやり口が却って私への熱心さであるかのように感じられてしまった。予め用意されたものではなく彼女が今まさに選定したのが自分であったことが、奇妙な喜びと好奇心を掻き立てたのだ。

 決して元より彼女のことが気になっていたわけではなく、寧ろ名前すら知ろうとも思わない程度の存在でしかなかった。しかし今は彼女のこと、特に彼女が信仰する"神様"というものの正体を確かめてみたいという気持ちが湧いていた。もし本当に会えるならば、何故自分が選ばれたのかを神とやらに直々に聞いてみようか。

 ぼんやりと考え込んでいると、彼女がこちらに顔を向けていた。気付けば授業が終わっていたようで、周囲は彼女を除いて皆帰宅の準備を始めていた。


「貴方は帰らないの?」


 彼女の遠回しな問いかけに、止めておくべきかと僅かな躊躇いが生まれた。

 だが、それ以上にもうあの場所に帰りたくないという気持ちの方が勝っていた。


「帰らないよ」


 そう答えると彼女は微笑んだ。

「ついてきて。一緒に行きましょう」

 彼女の後ろを黙って歩く。そういえば彼女に対して何を聞くか全く考えていなかった。

 自分が口を開く前に歩みが止まる。連れてこられたのは塾の駐車場だった。

 目立たない一角に停められた車の運転席に座る男性に彼女が会釈する。視線を滑らせた彼と一瞬目が合ったが、それ以上のこともないまま応答するように会釈を返してきた。

「彼は仲間だから安心して。ここから少し遠いから乗せてもらう約束だったの」

 車に近づいた彼女が後部座席の扉を開きながら手招きする。

 遠いってことは、いよいよ引き返せなくなるな。そう思いながら、導かれるままに乗り込む。

「失礼します」

 男性がこちらを向く。にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべる彼は、遠目から見ていたときとはかなり印象が違っていた。

「いいよいいよ、気を張らないで。仲間が増えるのは俺も大歓迎さ」

「ちょっと、あまり絡まないであげて。彼は貴方と違って初めてで緊張しているんだから」

 そう言いながら彼女も後部座席に乗り込んでくる。非難を受けた彼はしかしそれを気にしていないようで、何事もなかったかのように車のエンジンをかける。

「それじゃあ出発するよ。あっシートベルトはちゃんとしてね、事故っても保証できないからさ」

 進みだした車が塾を出て走りだす。

 見知らぬ場所を通り抜けていくことに不安を抱きながら、傘を教室に置き忘れたことを今になって思い出していた。



「しかし君が新しい子を連れてくるなんてね。ラーメイにでも感化されたのかい?」

「別にそんなつもりじゃないけど。ただ単に彼には神様が必要だと思っただけよ」

「そんなに否定しなくても。そうだったとしても連絡は入れておいたほうがいい。新しい子である以上、挨拶の準備はしておいてもらったほうが話が早いだろうし」

 会話のようすからどうやら彼女達以外にも仲間がいるようだった。自分の日常の近くで、知らぬ間に宗教が広まっていることに驚いた。それに本当に"神様"とやらに挨拶をする流れになっているようで、この宗教では神はそれほど身近な存在なのかとも考えていた。

「あの…神様ってどんな人なんですか」

 言ってから聞き方が悪かったのではないかと後悔した。これではまるで彼女達の神様を人間だと見下げているようで、気分を害してしまうのではないかと思ったからだ。

 しかし、そんな思いなど知りもしないように彼女達は答えを返してきた。

「おっようやく緊張がほぐれてきたかな?で、神様についてだっけか。なんだ、なにも話さずに連れてきたのか。案外乱暴だね、詳細を聞いて彼が気変わりしたらどうするつもりだったんだ」

「別に会えばわかるしいいでしょ。それにきっと彼は変わらないわ。でも、うん。折角聞いてくれたし話しておこうかな。」

 彼女が改まってこちらを向いて口を開く。

「私達の神様は愛の神様なの。神様は私達に愛の喜びを与えてくださるわ。一人一人の望む多様な愛の全てを満たせるだなんて、とても素敵でしょう?」

「愛を与えるって…一体何をどうするんですか?」

 そう聞き返すと彼女は少し困ったような顔をして考え込みだした。この様子を見ると神とやらは特別なところなどなく、彼女は何か騙されているだけなのではないかと思い始めた。しかし、そんな彼女を助けるように代わりに彼が答えを返してきた。

「んーまぁ説明が難しいけど、神様…この呼び方は慣れないから俺は映山紅えいさんこうさんって呼んでるんだけど、彼女は想像もつかない力で俺らに幸福を与えてくれるんだ。こればっかりは体験しないことにはどれだけ説明しても理解できないと思うな。幸い今晩は寵愛の日だから一緒に参加すればわかるさ」

 まるで誤魔化すかのような答えにますます疑念が募る。だが、それも直ぐに解消されるというのだからあまり追及する気にもならず、取り敢えず頷いて納得したかのように装った。



 訪れた静寂に居心地の悪さを感じていたが、それから間もなくして目的地に着いた車が緩やかにスピードを落として停止する。

「はい、到着!先に行っておいで、俺はもう一件拾いに行くからさ。連れてきたからにはちゃんと面倒みてあげるんだよ?」

「ありがとうございました。彼は私が案内します」

「うんうんいいね。じゃあまた後でね、寵愛のころにはみんな揃うだろうから、そのときに会えるのを楽しみにしているよ」

 自分も彼に一礼して、彼女に連れられるままに車を降りる。

 どうやらここは古びた教会のようだった。他の神を信仰するために建てられたそれをそのまま流用していることに彼女は何の疑問も抱いていないようで、掲げられた十字架を見上げて歩みを緩めた自分を袖を引っ張って急かすばかりであった。

「入口で待っていらっしゃるから、早く行きましょう」

 その言葉につられて前を見れば、開け放たれた扉の奥で黒色の衣装を纏った女性がこちらに向かって手招きしていた。

 異質な雰囲気にあの人が映山紅さんなのだろうかと思いながら、そのまま入口に向かう。

「こんばんはラーメイさん、この人がご連絡していた新しい仲間です」

「そう、貴方がそうなのね。初めましてこんばんは、私はラーメイといいます。貴方についてはまたどこかでお話しして頂戴ね。さぁ中へどうぞ、アザレア様がお待ちでいらっしゃるわ」

 そう言うとラーメイさんは真っ直ぐに続く廊下を先導し始める。すぐ突き当りの扉まで通されると、彼女が振り返る。

「この先が礼拝堂よ。アザレア様にはお伝えしてあるから、いってらっしゃい。私達は挨拶のときは一緒についていかないことになっているから、他の部屋で待っているわ。また後で会いましょう」

 にこりと微笑んだ彼女は、送り出しの言葉を掛けながら自分が礼拝堂に入るのを見届けるつもりのようであった。

 その視線に背を押されながら、いよいよ神様とやらに対面する緊張感に深呼吸をする。瞬間ふわりと頭が浮くような奇妙な感覚に包まれて、そのまま勢いに任せて扉を開け放った。



 そこはいたって質素な礼拝堂であった。

 暗い夜の光が祭壇の奥の小さなステンドグラスから差し込んで、木製のベンチに座る人物を緩やかに照らしていた。

 扉が閉まる音に反応するように、その人が語りかけてくる。


「こちらへどうぞ」


 甘い声が静寂を揺らした。それは女性の声のようで、しかし何故か性別を捉えられない不思議な声であった。

 抵抗することもなく言われるがままに彼女に近づいていく。

 自分を見つめる鮮烈なピンク色の瞳に、全てを染め上げられてしまいそうな気がした。けれど視線はその美しさに縫い付けられ逸らせないまま、気づけば触れ合うほどに近くまで距離を詰めていた。


「初めまして、私は貴方を歓迎するわ。私は貴方も愛するわ」


 その言葉が思考を溶かしていく。

 彼女が伸ばした腕が自分の頭を柔らかく撫で上げる。

 広がる温もりと芳香が冷えた自分を包み込んでいた。


 ふと、彼女のうららかな笑顔を見て、無意識に言葉が零れていた。


「初めまして神様」


 それが神様と私の初めての挨拶でありました。

 

 

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アザレアの神に捧ぐ 白金魚 @siroitaiyaki

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