最終号 カノジョのヘンジ

 カノジョは、動かなくなってしまった。


 白い肌も薄紅の唇も長いまつ毛も美しいままに。

 いくらカノジョの名前を叫んだところで、カノジョが目を醒ますことは無かった。


 ぐったりと力の抜けたカノジョのカラダを、お姫様抱っこの要領で持ち上げる。

 カノジョが歩くたびに跳ねていた黒髪が死んだように枝垂れた。


 私は努めて冷静に。

 (カノジョに外傷はない。恐らく、内部構造に故障が発生したのだろう)


 冷静に。

 (神経接続ニューロンに異常をきたしているならばあの装置で修復できるがそれには多少のオーバークロックが必要でいやしかしハードの問題であれば――)


 涙で滲む階段を、一段一段。

 (駄目だ部品がなければ――)


 カノジョの重みを抱いて上る。

 (修理再会のしようがない)


 希望カノジョと下った階段を、絶望カノジョを抱いて上り終える。

 私はそのまま階段を見下ろす。

 このままカノジョと同じように落ちることが出来たのならば、きっと心安らかに地獄に行くことが出来るだろう。


 このまま勇気の一歩を踏み出して、そして踏み外せばいい。


 幼稚園の頃、オリンピックを目指して水泳を始めた時のように。

 小学校の頃、甲子園を目指して野球を始めた時のように。

 中学校の頃、進学校を目指してテキストを読み漁った時のように。

 高校の頃、東大を目指して筆を走らせた時のように。

 大学入学の頃、薔薇色の大学生活を目指してテニスサークルに入った時のように。


 いつものことじゃないか。

 叶うはずもない夢を持ち、果敢に一歩を踏み出し、阿呆みたいに転倒する。

 その都度私を拾い上げるのは、悪意と加虐心に満ちた集団だった。

 大学では様子が違ったが、どちらにせよ決定的に歪んでいる。間違っている。


 カノジョが、最後の望みだったのだ。


 私は変われない。

 私は変わらない。


 緩慢に右足を持ち上げる。

 膝を曲げ、乾いた風の吹く虚空に足をかけ、全体重をかけペットボトルを踏み潰すように虚空を踏み砕く。

 ほんのわずかな浮遊感。

 重心が一気に傾き、極度の前傾姿勢のまま重力に引きずられるように頭から階段の底に落下する――直前、空中で私のもやしボディの体重が抱きかかえたカノジョと重さに敗北し、後頭部を糸で引っ張られるように、体が上向きに開いていく。

 重力の曳航はそのままに、大きく体勢を崩した私は尻から着地する。尾てい骨一点で二人分の体重は支えきれない。そのままホップするように、尻で階段を駆け下りていく男子大学生。

 その様を見ている神はきっと痛快だろうが、私の尻は激痛鈍痛で泣いていた。


 ぽすっと尻から地上に降り立った時、私は痛みのあまり、


「――はははははははははははっ‼」


 涙を流しながら、笑っていた。

 ダメだ、情けなくって笑いが止まらない。肺が酸素を吸ってくれない。苦しい!


 私はまたもや踏み外したようだった。

 地獄への道でさえ転倒するとはまた、私の才能は計り知れないものだ。

 私は尻もちをついたまま、胸の中のカノジョを見る。

 瞳を閉じたまま、寝息すらたてないカノジョは夢を見ない暗黒のような眠りについている。

 私は童話の眠り姫を想起した。

 ぷるんとした唇に口づけすれば、カノジョは目を醒ましてくれるだろうか。

 一度そんなことを考えてしまうと、カノジョの唇から目を離せなくなってしまった。

 心臓が高鳴る。

 キスしたいという衝動が、足元から、湯船に湯を張るように波を打ってせり上がって来る。


 ……落ち着くのだ、私よ。

 こんなところで二十年熟成された童貞力を発揮するな。

 私は唇の魔力いろを振り切るように、星々が煌めく漆黒の夜空を仰いだ。

 

 私は童貞のまま、星になるわけにはいかない。

 想いを伝えないまま生きるのは、死ぬことより恐ろしい。


「……きっと、君を直してみせるよ」

 

 その時、私に新たな夢が出来た。



 翌日、私のポストに『週刊製作カノジョ廃刊のおしらせ』が届いた。

 不思議と落胆は無かった。

 一度は死のうとして踏み外した命だ。

 今の私には出所不明の万能感が漂っていた。

 私が、カノジョを作り直して見せる。

 畳の上で横になっているカノジョに、私は決意を込めて微笑んだ。


 まず私は親と交渉し、大学院に進むことにした。カノジョの修理には恐らく年単位の時間がかかる。とても働いてなどいられない。それに、学を修めるのに学生という身分はこの上なく便利だ。

 カノジョを直せるのならば教授のパシリでもメイドでも何でもやってみせようではないか。私にホワイトプリムは似合うと思うのだ。


 それからは、アルバイトと研究の日々であった。

 カノジョを構成する学問は実に幅広い。修理のためにハードの仕組みを理解しなければならない。加えてボイス機能を実装するにはハードだけでなく、画像音声処理や言語メディア処理、さらに発展して人工知能における倫理学などを含めたソフトを開発せねばならない。

 人ひとりの身で修められる範囲を超えている。

 だが、そんなのは言い訳だ。

 私は図書館教授研究所など、使えるものはすべて使った。

 

 ……しかし、そこで問題が発生した。

 実に有用な研究を行っている張本人が学内にいると聞いて、研究室までやってきたのだが、その研究者は私に蜘蛛の糸を垂らしてくれた教授だったのだ。

 そして私はその蜘蛛の糸を自らぶった斬っている。私に対する教授の印象は、著しく悪いものだと予想された。


 ここで悪癖を放置したツケがまわってきたか。

 私は観念した。ここで断られてしまえば、数年分のロスになってしまうだろう。しかし、私はそれを受け入れなければならない。

 

 過去とは不変である。中二病のノートも欠席回数も変えることは出来ない。

 故に私は、私の過去を受け入れなければならないのだ。


 私は意を決して教授と対面した。

 私を見るや否や、教授の顔面のしわが険しくなった。しわで出来た暗闇は、遥か海底の深淵のようでもあり、ゴキブリがいると分かっているソファ下の暗闇のようでもあった。

 ……つまり、もう近づきたくはなかった。


「……い、遺伝的アルゴリズムによる機械学習の研究を拝見して伺いました。是非ともその知見を共有して、い、いただきたく思うのですが……」


 声が上ずる。

 教授にとって学生は獲物に過ぎない。しかも今回その獲物は、自分の情けを無為にして、そのうえで協力しろと言って来たのだ。

 私であれば当然――。


「いいでしょう。こちらに来なさい」


 教授は身をひるがえし、奥のデスクへと向かった。

 私はといえば、呆気に取られてその場を動けずにいた。

 

「何をしているんですか」

「いや、その。私のことは覚えていらっしゃいますよね」


 私のつまらない問いに教授は頷いた。「当たり前でしょう。近年稀に見る問題児でしたから」


「ではなぜ協力してくださるのですか」


 教授はパソコンを操作しながら、すらすらと答える。


「私は君のことが大嫌いだがね、学びたいという意思には誰であれ敬意を抱くべきだと考えている。大学とは、個人の属性に左右されずに学習できる現代最後の聖域だよ。学ぶ機会も学ばない意思も、ここでは平等に尊重される。学ばなければ夢を叶えられず、しかし勉学よりも重要な遊びはあるからだ。

 私は君のことが大嫌いだ。教授の誰もが君のことを嫌っているに違いない。

 ただ、それだけのことだ。学びたい君が気にすることではない」


 それから、教授は二時間に渡って研究について説明や解説をしてくれた。

 私は教授の懐の広さに感謝した。しわの深さと懐の深さには、何か相関関係があるのやもしれない。

 私はお礼に、教授のことが嫌いだと告白した。

 教授はにこやかな笑顔で中指を突き立てた。私は見なかったことにした。

 大学とは、ロクでもない素敵な場所だと知った。


 研究室から退出し、廊下で充実とこれから歩む道のりの困難さを味わっていると、かの悪友とばったり遭遇した。

 久しぶりの邂逅であった。

 いつものように陰気な挨拶を交わす。

 しかしなんだか悪友の言葉の歯切れが悪い。いつもその悪辣な舌で個人をバッタバッタと斬り伏せる通り魔的毒舌の持ち主なのだが……切れ味がなまったか?

 理由を探るべく問いただしてみると、驚くべきことが判明した。

 悪友もまた、『週刊製作カノジョ』を手にし、理想的な人生を歩もうとしていたところでカノジョが故障し、童貞卒業から手を滑らせてしまったらしい。

 なるほど、水族館で見たのはカノジョとデートしていたということだったのか。

 

 霊長の恥さらしのような男と初センスのデートが被っていたことにショックを覚えた反動で名案を閃く。


 ――私とお前。

 負と負の概念もかけ合わされば、カノジョの修理への力になるだろう、と。


 お互い反吐が出るような関係性だが、その反吐から美少女が生まれることもあるだろう。

 私は青白い手を伸ばし、その手を枯れ枝のような手が握った。

 ここに、実に四年にもなった、人の不幸で飯を食うという最悪な対立関係は終了し、煩悩と夢に塗れた前向きな共闘が始まった。


 いわく、恋人はお互いに向き合った状態に例えられ、夫婦はお互い同じ方向を向き合った状態だと例えられるが、まったくやかましい話である。


 *


 それからの極めて知的な苦悩の月日について語り尽くしたいところではあるが、決してその道のりは日曜劇場になるようなドラマチックなものではなく、誰のニーズにも応えられる気がしないので割愛する。

 ひげもじゃの男二人が女体の神秘について学術的に語り合うシーンに需要はないだろう。


 実に――。

 ――実に十年の月日が流れた。


 共闘者の目元のクマはより青黒く。

 私は下っ腹が気になってきた頃だった。


 シンポジウムの帰りに閃いた考えを軽い気持ちで実行した結果、それが最後のピースだった。

 十年間一切変わらない美しいままの姿をしたカノジョを眺めていた時、不意にカノジョのプログラムが起動した。

 具体的には、昼寝から醒めたように至極自然な動きでもってカノジョの目が開いたのだ。

 あまりに自然で、唐突な出来事に私は声も出ずにその場で立ち尽くした。

 カノジョの目には、白衣姿の私。

 

 私の視界に、温かい涙がゆっくり染み込んでくる。

 滲んだ視界のなかで、カノジョが戸惑うようにきょろきょろと辺りを見回している。

 あぁ、そうだろう。場所も、私も、プログラムも変わったように見えるだろう。

 しかし君は変わらずに――私の想いもまた不変だ。


 そのことを今、伝えよう。

 私は熱くなった頬を張り気合を入れて、口を開いた。


「……おはよう。起き抜けで悪いが、聞いてくれ。

 ――私は君のことが好きだ。ずっと一緒に居て欲しい」


 短くも私の全てである言葉を、カノジョは抱き上げるように聞いてくれた。

 そしてカノジョは向日葵のような笑顔を咲かせて言った。


「分かったわ! ずっと一緒にいましょうね!」


 パパ――だと?

 予想外の衝撃に意識が揺らぐ。


 視覚メディア認識プログラムに異常が……しかしこれは自然に発生する問題ではない!

 確かに私は今や三十代。

 そんな中年の迫る変態男がうら若い乙女と付き合うのは問題だからと、事実に沿うように対象の認識を秘密裏に『パパ』に改変イタズラした。しかし悪戯を仕掛けたのは共闘者――悪友のカノジョの方だったはず。

 まさか、悪友もまた私のカノジョに同じことを――。


「……パパ?」


 カノジョは大きな目を丸くして、不思議そうに首を傾げた。

 なんと愛らしい、守ってやりたくなるような顔をする。


「……なるほど、人は変わらないな」


 私は諦めと期待混じりに納得する。

 私は、どこまでいっても童貞のままらしかった。


 


 



 

 

 


 


 

 


 

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『週刊製作カノジョ』創刊号 麺田 トマト @tomato-menda

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