ぽっかぽか
片葉 彩愛沙
ぽっかぽか
セシルはカップ麺を両手に腹を鳴らしていた。彼はスーパーマーケットのインスタント麺コーナーによく通っていた。毎日の食卓に彩を与えてくれるそれらを選ぶのが楽しみであった。
いま手にしているのは、赤いきつねと緑のたぬき。どちらも甲乙つけがたいが……
「まあいいや、どっちも食べよ」
タイマーをセットして待っていると、インターホンが鳴った。
出てみると十三日ぶりに会う彼の恋人であるハーパーがいた。
「こっ、ここ校長先生!? 明日まで出張とおっしゃってませんでした!?!」
セシルは、ハーパーの学校の清掃員として働いている。最近雇われたばかりのセシルは、いまだにハーパーの名前を口にすることにおこがましさを感じて、『校長先生』という役職で呼ぶことしかできない。
ハーパーは薄く開いた口から白い息を吐いた。
「ええ。切り上げてきました」
セシルは驚いた。ハーパーは校長先生という役職にふさわしい真面目な男だ。いくらセシルと恋人であるとはいえ、そんなことをする人間ではないと思っていたのだ。
「どうして……」
そう言うとハーパーは少し顔を曇らせた。
「……今日はお邪魔だったようですね」
「いえ!! 全然!!! ちょうど今夕食ができあがったところなんです! ぜひ一緒に……あっ! あの! ちょっと待っていてくださいね!」
セシルは慌てて部屋へ戻った。
それから数分後、テーブルには湯気を立てるうどんとそばとお茶二つが並んだ。二人は向かい合って座る。
ハーパーはフォークとうどんの入った深皿を手に取った。
「美味しそうですね」
一口食べた。そしてゆっくり咀嚼する。飲み込むと再びフォークを動かした。セシルはその様子に見惚れた。食べる姿すら美しいとはどういうことだ。
自分のそばに目を落とした。スープの色は薄い茶色をしていた。甘い匂いが鼻腔を刺激する。途端に空腹感が増してきた。セシルは麺を巻き取って食べ、スープも一緒に含んだ。うまい。彼は夢中で食らいついた。
ふと視線を感じる。見るとハーパーがこちらを見つめている。目が合うと微笑んだ。セシルは自分の顔が赤面していくのを感じた。急いで目をそらすとまた麺を食う。なんだか恥ずかしくてたまらなくなり、セシルは叫んだ。
「あー美味しい!!!!」
ハーパーは再び笑みを浮かべると食事に戻った。その笑顔を見たとき、セシルはこの人のことが好きなのだと改めて実感した。
結局セシルとハーパーはうどんとそば両方を食べてしまった。もう一度カップ麺に湯を注いだのだ。満腹になったところで二人とも立ち上がり、食器を流し台へ運んだ。カップ麺が入っていた元々の容器がゴミ箱から覗いている。恥ずかしくなったセシルはそれを押し込むと、食器を手際よく洗っていく。
「私も手伝いましょうか?」
ハーパーの言葉にセシルは動転して振り返り首を振った。
「いっ!? いいいえいえいいんです。私がやりますから、どうぞ休んでてください!」
セシルはスポンジを持って洗い物を続けた。水音だけが響く。
やがて流し台の水が透明になり始めた頃、後ろで椅子を引く音が聞こえた。振り向くとハーパーが立っている。
「もう終わりですか? ではそろそろ帰ります」
セシルは慌てて言った。
「ああ、はい! ありがとうございました。会えて嬉しかったです!」
ハーパーは玄関へ向かった。セシルはその後を追う。せめて駅まで送ろうと思ったのだ。しかしドアノブに手をかけた時、ハーパーがセシルの方を振り向いた。
「明日は朝早いのですよね」
「え……はい、七時には家を出ないといけません」
ハーパーは眉を下げて笑うと言った。
「では早く寝ないといけませんね」
「あ、う……そうですね」
「おやすみなさい」
「はい、お休みなさい、校長先生」
ハーパーはじっとセシルを見つめていたが、ガチャンという音をたてて扉が閉められた。セシルはしばらくその場に立ち尽くしていた。やがて踵を返し寝室へ向かう。
ベッドの上に放っていたスマートフォンを手に取り起動させた。SNSを開くと通知があった。先程まで一緒に食事をしていたハーパーからだ。
『今日はとても楽しかったです』
短い文章を見て胸が高鳴る。この気持ちを誰かに伝えたくなった。誰に伝えればいいだろう。そうだ、職場の同僚たちに話せば共感してくれるはずだ。彼ら彼女らは皆優しい人たちばかりだ。
セシルはキーボードを開き文字を打ち込んだ。
『今日は校長先生と一緒にご飯を食べました!』
《校長と?!》
《どこで食べたの》
『自宅でカップ麺を食べました!!』
《マジかよ》
《チョイスは何ですか》
『赤いきつねと緑のたぬき』
《どこのインスタント麺よそれ》
『日本』
送信ボタンを押してから、急に巨大な虚しさに蝕まれた。自分は何をしているのかと自嘲気味な笑いが洩れた。
ハーパーと過ごせて嬉しかったのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。これは何なのだろうと考えて、セシルは入力を続ける。
『とても楽しい時間でした。幸せでした。でもなぜか寂しくなってしまいました。私はおかしいでしょうか?』
送信ボタンに触れようとした瞬間、画面が切り替わった。着信画面が現れた。相手はハーパーだ。セシルは慌てて通話に出る。
「はい、校長先生?」
「こんばんは、セシルさん」
「は、はい、こんばんは!」
「突然電話をして申し訳ありません。今大丈夫ですか?」
「はい、もちろんです!」
ハーパーは小さく息をつくと話し出した。
「実はさっきあなたに送ったメッセージのことなんですが……」
「はい」
「あれは本心ではありません。嘘を書いてしまいました。本当はもっと別のことを書きたかったのです」
「えっ?」
「だから書き直させてもらえないでしょうか?」
セシルは戸惑った。嘘だったということは、自分と居て楽しくなかったということだろうか。もっと別のこととは、何だろう。
セシルは刹那の間にそう考えたが、すぐに答えを出した。
「……わかりました。どうぞ、書き直してください」
「ありがとうございます。少し待ってくださいね」
ハーパーは深呼吸をした。そして言葉を発する。
「愛しています」
「……へっ!?」
「こんな形で伝えてしまうなんて自分勝手でひどいと思います。本当にすみませんでした。それでは失礼します」
ブツッと回線の切れる音がした。
セシルは呆然としながらスマートフォンの画面を見つめていた。
愛してる。誰が誰のことを?
当然、自分のことなのだと気付き、セシルは情けない悲鳴を上げ熱くなった頬を覆った。
混乱する頭の中で、ハーパーの言葉が反覆される。
――愛しています。
その一言は、セシルにとって福音だった。
ぽっかぽか 片葉 彩愛沙 @kataha_nerume
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます