父さんとの時間

カラスノエンドウ

第1話

 父さんは昔から赤いきつねが好きだった。


 夜中になると母さんの目を盗んでは「夜食だ」なんて言ってお湯を沸かすんだ。そんな時はいつも、台所の灯りがひっそりと廊下に伸びていて、麵をすする音だけが微かに響いていた。


 時々、私が灯りのついた台所に行くと、父さんは何も言わずに2人分のお湯を沸かしてくれた。父さんはいつも仕事で忙しかったから、一緒に赤いきつねを食べるその時間が私はすごく好きだった。


 私と父さんはいつも何も言わずに2人並んで麺をすすっていた。そして、いつも父さんは私が食べ終わるのを待って、私に一言声をかけてくれた。「うまかったか」って。私が大きく頷くと父さんは私の頭をなでてくれた。今にして思えば、きっと父さんは頭なんて撫で慣れていなかったんだろう。父さんの大きな手は、とかしつけられた私の髪をぐしゃぐしゃにした。だけど、父さんの手は温かくて、くすぐったくて、それがなんだか気恥ずかしかった。


 だから、いつも父さんに面と向かって言えなかった。父さんもこの時間も大好きだよって。




「父さん」


 灯りの漏れる台所の戸を開ける。こんな時でも父さんはいつも通りだった。父さんは私の方を一瞥すると、閉めたばかりの蛇口を再び捻った。ポットの0.5リットルのメモリを超えて水が注がれていく。私は何も言わずにリビングの丸椅子を2脚持ってきて台所に並べた。父さんはお湯を沸かし始めると戸棚の奥に入っている赤いきつねを2つ取り出してくる。


「これを食べたら早く寝ろよ。明日は早いんだろ」

「うん。けど、どうしても目が覚めちゃって」


 父さんは冷蔵庫に張られたカレンダーに目を向けた。明日の日付を囲うように赤い丸が何重も書かれている。そして、赤い字で大きく『結婚式!!』と書いてあった。私たちは口を閉ざしてお湯が沸くのを待った。台所はブクブクと鳴るポットの音だけが響いている。私と父さんこの時間も、今日までなんだろうか。

 ふと、父さんが動き出した。どうやらお湯が沸いたらしい。


「俺はな」


 父さんが赤いきつねにお湯を注ぎながらぽつりとこぼした。その小さな声を聞き逃すまいと耳を傾ける。父さんの背中は記憶の中の背中と違い、小さく見えた。そう見えるのは私が幼かったからなのか、父さんが年を取ったからなのか。私には分からない。


「もっと、お前と一緒にいてやるべきだったって思うんだ」


 父さんはお湯を注ぎ終わると、フタを閉めてその上に箸をおいた。


「仕事ばかりしていないで、学校の行事なんかにも出てやるべきだった」


 台所の壁にかけられた時計が秒針を動かす。フタをはがすまでにはまだ時間がかかりそうだ。


「お前があんなに練習していた運動会だって、俺は仕事だからって見に行かなかった。母さんから聞いたよ。お前は俺が見に来るのを楽しみに待ってたってな」


 フタの隙間から、だしのいい香りがする。出来上がるのはもうすぐだ。


「俺はお前に父親らしいことなんて何もできなかった。それに気づいた時には、もうお前は子供じゃなかった。もう俺なんか必要としないくらい、立派な大人になってたんだ」


 5分。時計の針が5分間を刻み終えると、父さんはゆっくりと立ち上がってフタをはがす。まるで懺悔のようだった。父さんはいつも多くを語らなかったから、こんな風に弱音を吐く姿なんて見たこともなかった。


「だからお前はな、自分の子供ができたら、できるだけ一緒にいてやれ。子供だけじゃない。お前が大事に思っている人ともだ」


 脳裏をよぎったのは明日から私の家族になる人。父さんが頭を下げて、私を幸せにしてくれと懇願した相手。

 父さんは本当に父親らしいことなんて何もできていないと思っているのだろうか。


 父さんが赤いきつねを手渡してくる。私は夢中になって赤いきつねを食べた。かつおだしの香りが、こしのある麺が、つゆのしみたお揚げが、今までの父さんとの思い出をよみがえらせてくる。


 父さんが一緒にいてくれなくて寂しいと思ったことも、悲しいと思ったこともあった。だけど、それ以上に父さんが仕事の合間を縫って私と一緒にいてくれた時間が、楽しくて、幸せだった。最後につゆを飲んで赤いきつねを食べきる。父さんはそんな私を見て、いつもと同じように声をかけてくれた。


「うまかったか」


 私は大きく頷いた。父さんはいつもと違って、頭をなでる代わりに目を細めた。今日こそは言わなければならない。私がこの家を出てしまう前に。だって、これで終わりになんてしたくないから。


「父さんは、父親らしいことなんてできなかったって言ったけど……。私にとって、父さんは最高の父親だよ。今までも、これからも」


 しんと静まり返った台所に私の声がこぼれる。鼻がツンとしてきた気がする。本番は明日だっていうのに。これもきっと思い出の香りのせいだ。


「だからまた一緒に、赤いきつね、食べよう。私がどれだけ大人になっても、父さんの子供だっていうのは変わらないから」


 父さんは何も言わずに立ち上がった。そして、不器用な手つきで私の頭を撫でてきた。もうとっくに成人しているのにも関わらず撫でられるのはくすぐったくて恥ずかしい。だけど――


「私、父さんのことも、父さんと赤いきつねを食べるこの時間も大好きだよ」


 父さんの顔は見えないけれど、その顔はきっと笑っているはずだ。だって、頭をなでる父さんの手はこんなにも優しいのだから。

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