第47話 番外編 結婚記念日





狩野田航太は困惑していた。



「何これ……」



会社での勤務を終え、くたくたになった身体を引きずりアパートへ戻ると、玄関ドアに見覚えのないプレートが下がっていたからだ。


おそらく特注で作られたであろうそのプレートは、シックな長方形の黒タイルでできている。

そこには手書き風の白字の筆記体で、こう刻まれていた。



『〜Ristorante Tsukkun〜』



航太は肩がドッと重くなるのを感じた。

彼の伴侶——狩野田宰は、元々妙な方向に浪費する癖がある。


思い返せばここ二週間ほど、宰はこそこそとスマホをいじって何かを見ていた。

「次にグッズを密造したら別居する」ときつく言ってあったため、何か他の良からぬことを企んでいるのだろうと航太は思っていたが——まさかレストランプレートを発注していたとは。

そこまでは予想できなかった。


たしかにこれは、航太のグッズではない。

しかし、この日のためにわざわざ作るべきものでもない。


一体いつからここに下げているのか。

宰は今日有給を取ったと言っていたから、もしかしたら航太を見届けたあと、すぐに設置したのかもしれない。

この部屋の前を通ったご近所さんが、この奇天烈なプレートに気づいてしまったかもしれない……そう思うと航太の胃はしくしくと痛んだ。


謎のレストランごっこをしているカップル。

今後周囲の住民たちからそんな目で見られる可能性にため息をつきながら、航太はそっとプレートを外した。


ふたりは今日で、入籍から一周年—— つまり結婚記念日を迎える。

正直言って、航太はこの日のことをすっかり忘れていた。

しかし今朝、感激した様子の宰から「これからもよろしくね、航ちゃん…!」と言われて思い出したのだ。


気まずいことこの上なかった。

宰の作るオリジナル記念日があまりにも多すぎて、航太は一番大事な記念日までおろそかにしてしまった。

さすがに胸が痛んで、会社帰りに何か買って帰るべきかと悩んでいると、宰から「今日はとっておきのディナーにします(^^)v」とメッセージが届いたものだから、足早に帰ってきたのだが。


「……ただいま」


もう何が起こっても驚かない、と心に決めて、航太は玄関のドアを開けた。

キッチンからは食欲を誘う香りが漂ってくる。


「航ちゃん!おかえり!」


嗅覚がそれを捉えるのと同時に、サーモンピンクのエプロンを着けた宰が顔を出し、パタパタと駆け寄ってきた。

航太はその胸元を見て絶句する。

今朝見た時には「新婚」と刺繍されていたはずの部分が「一周年」に変わっていたためだ。

おそらく日中に宰が書き換えたのだろう。


——いや、驚かない。驚かないぞ……。


航太は自分の精神を必死に立て直しながら、やたらと重厚感のあるプレートを掲げてみせた。


「宰、このプレート……」

「ああっ!そうだった!」

「うん……あのさ、テンション上がるのはいいんだけど、こういうのを外に下げておくのは」

「ごめんね航ちゃん!ふふ、『おかえり』じゃなくて、『いらっしゃいませ』だったね……」

「…………」


いや、そうじゃないよ。


航太が突っ込もうとしたところで、宰は髪をかき上げた。

そして腹が立つくらいに爽やかな微笑みを浮かべ、航太の手を取る。


「んん、改めまして。ようこそRistorante Tsukkunへ……」

「だから何なのそれ」

「とっておきのディナーをご用意しております……ふふ、さ、御手を洗いになって」


航太の手を引いて洗面所まで来ると、宰は「それでは僕は準備を……」と言い残し横歩きで消えていった。

航太は冷めた目でそれを一瞥した後、手を洗い自室で部屋着に着替えた。

こうなるともう最後まで付き合うしかない。


「それでは航ちゃん、こちらへ」

「……いつも通りでいいんだけど」


リビングへ向かえば、待ち構えていた宰がキメ顔で航太の椅子を引いた。

ずっとその顔のまま見つめてくるものだから、航太も根負けして大人しく座る。

テーブルの上には真っ白なクロスが掛けられ、中央には真紅の薔薇が活けられていた。

そして二人分置かれた、やたらとでかい平皿と、ナイフにフォーク。

皿の上にはこれまた真紅のナプキンがリボン状に折られている。

どれもこれも、航太には見覚えのないものばかりだ。


「…………」


これも買ったのか。

航太は心底呆れた。


宰はいつも形から入りたがる。

特別なディナー、イコール特別なテーブルコーディネートと考えたのだろう。

浪費癖はいつまでも治りそうにない。


「航ちゃん、こちら、おビールでございます」

「うん……」


傍らに現れた宰は、持ってきたワイングラスを航太に手渡すと、いそいそとビールを注ぎ始めた。

この雰囲気でビール?と疑問が湧いたが、おそらく航太がワインをほとんど飲まないからだろうという予想はついた。

Ristorante(リストランテ)というのも、ただ単に響きが気に入ったから採用したに違いない。


宰は薄い笑みを浮かべながら、おもむろにオーディオに手を伸ばす。

カチ、とスイッチを入れると、そこからは昭和歌謡を思わせるムーディーな音楽が流れてきた。

宰が作った、オリジナルミュージックである。

かつては航太の声を合成した曲もあったが、それらのデータは航太が自らの手で全消去した。

マイナー調のアコーディオンが奏でる旋律に、なんとも言えない気分になりながら、航太は憮然とした表情を作る。


一方の宰は、自らの席についてビールを手酌すると、グラスを掲げ航太にウインクを投げた。

航太は反射的に少し身体を傾けて避ける。

何度やられてもウインクはきつかった。

「ふふ、照れ屋さん」と呟いてから、宰は凛とした声で告げる。


「航ちゃん。一年間どうもありがとう。僕の気持ちは一年前の今日と変わらず……いや、それ以上に熱く燃えています」

「あ、そうなんだ……」

「改めて誓います。航ちゃんと僕のエターナルラブを……ここに」

「…………」


キメッキメの宰とは対照的に、航太は再び疲労を感じていた。

仕事終わりからの怒涛の宰(つっくん)ワールドはなかなか身にこたえる。


「Cheers!」

「チアーズ……」


航太が弱々しく掲げたワイングラスに、宰は身を乗り出してグラスを合わせてきた。

カチン、と涼やかな音とともに黄金色の水泡が弾ける。


使い慣れないグラスに戸惑いながらも航太がちびちび飲み進めていると、宰はいそいそと部屋の奥に隠れた。

今度はなんだ、と航太が訝しむ間もなく、宰は満面の笑みを浮かべて戻ってくる。

ご丁寧に一周年エプロンからギャルソンエプロンに早着替えも済ませていた。


普段の航太であれば、新鮮なギャルソン風宰をちらちら見つめるところだったが、彼の視線は宰が抱える肉の塊に釘付けだった。

生ハムの原木である。


「宰、それ、めちゃくちゃ高いんじゃ……」

「まずはこちら、Antipasto(アンティパスト)のジョルジョルッピセレツィオーネ……」

「えっ、ジョル……?え、」

「7キロございます」

「なな……?」


二人しかいないのに7キロの生ハム?


航太が唖然と口を開いているうちに、宰はナイフを取り出し、愛する伴侶の皿の上に生ハムをスライスし始めた。

見る見るうちに山盛りになる生ハムに、航太は狼狽する。


「ふふ、航ちゃん……良いところでストップと言ってね!」

「いや、そんなに食べられないしもういいよ……」


航太が力なく首を振っても、宰のナイフ捌きは止まらない。


「もう!航ちゃん!今日くらいは良いんだよ!遠慮せずに!」

「遠慮とかじゃなくてさ……、もう少しお金の使い方を……」

「はっ!いけない!ここはメロンと合わせていただかないと……。ふふ、僕としたことが……うっかり屋さんなところが出てしまった……」

「いいから、普通に食べようよ……」


宰はこの上なく張り切っていた。

航太の目の前には、彼が聞いたことのない横文字の前菜と冷製スープが次々とサーブされた。


途中、宰が頬を紅潮させ「カンツォーネも練習したんだけど……」と言い出したが、航太は黙殺した。

宰が生まれつきの並外れた能力で何でもやってのけることは重々承知だが、航太にはビールのつまみに伴侶の独唱を聴く趣味はなかった。

部屋にはムーディーな曲が流れ続けている。


「さ、そろそろメインディッシュとしゃれこもうかな……」

「…………」


あらかた前菜を片付けると、宰はおもむろに立ち上がり、再びにこにこと部屋の奥へと引っ込んだ。

航太はもう表情筋を動かすことをやめていた。


次に登場したとき、宰は板前が身に着ける前合わせの白調理衣を纏っていた。

手には寿司桶を持っている。


「……それも買ったの?」

「もちろん!」

「ええ……」

「何を隠そう、ここ三ヶ月、僕は寿司職人の通信授業を受けていてね……」

「…………」


夜にこそこそ動画を見ていたのはそれだったのか。

航太は宰の地道な努力に苦笑いを浮かべた。


宰の無駄のない動きにより、テーブルの上には、あっという間に寿司ネタが並ぶ。

宰は晴れやかな表情で手を拭った。

一方の航太は、無言でビールを口に含む。


「航ちゃん!江戸前鮨だよ!」

「……リストランテは?」

「ふふ、やっぱり最初は航ちゃんの好きなエンガワかな!」

「…………」


スーパーαの手捌きは鮮やかだった。

次々と寿司を握っては、愛する伴侶の前に置いた敷板に、とっておきのネタを並べていく。

もはや突っ込むことを諦めた航太は、大人しくそれを口に入れる作業に勤しんでいた。


悲しいほどに絶妙な握り加減に、航太の心中は複雑なものとなった。

一体宰は、どこを目指しているのか。


「航ちゃん!どう?」

「……おいしい」


ありがと、と呟くと、宰はガタガタとテーブルを鳴らしてよろめいた。


「ウッ……!かわいい……!」

「…………」

「毎秒ごとにかわいさが増していく……ッ!」


目元を抑えて天を仰いだ宰を見て、航太は困ったように眉を下げて笑った。


一緒に暮らし始めて一年以上が経ったが、宰はどこまでいっても宰だった。

仕事で疲れているときは、そのテンションがうざったくなることもあるが、それでもその底抜けの明るさに、航太は幾度となく支えられてきた。


ディナーの締めは、宰特製のスウィーツだった。

宰は部屋の明かりを落とすと、またもや部屋の奥へ姿を消す。

そして一本だけロウソクを刺したケーキを持って、宰はドヤ顔で戻ってきた。


「こちら、僕の手作りです!」

「…………」


どう考えても二人で食べるサイズではないショートケーキの上には、宰と航太の顔を象ったと思われるアイシングクッキーと、「T♡K」とチョコレートで優雅に描かれた文字が踊っていた。


手作りでよかった、と航太は内心ほっとする。

こんなケーキを外部に発注されてはたまらない。


航太の隣で、宰はうきうきと言葉を紡ぐ。


「来年は、このロウソクを二本にしようかな、と」

「再来年は三本?」

「そう!そうだよ航ちゃん!」

「……ぶっ」


子どものような喜び方に、航太は噴き出した。

ろうそくの数でここまで喜べる男も珍しい。


そうやって笑う航太を、宰は満足げに微笑んで見つめていた。

航太にはそれがむず痒く、それでいて嬉しく思う。


行儀が悪いと思いつつも、航太はフォークの先で生クリームをすくい、そのまま宰の口に詰め込んでやった。

驚く伴侶に悪戯っぽく笑いながら尋ねる。


「おいしい?」

「もちろん、僕の特製だからね!」

「なにそれ」


どこまでも自信家な伴侶といると、つい笑みがこぼれる。

自らもフォークを伸ばしながら、航太は続けた。


「宰」

「はい、航ちゃん」


瞳をきらきらと輝かせ、宰が応える。

口にした生クリームは甘すぎず、じんわりと舌の上で至福の味を広げていった。


「ロウソクを立てるところがなくなったら、和菓子にしよっか」

「…………」

「そのころにはおれ達も、ケーキじゃきついし」

「航ちゃん……」


くさいこと言ったな、と航太は少しだけ後悔した。

しかしその隣では、スーパーαの伴侶が感極まって涙を浮かべている。


「やっぱり、僕たちはエターナルラブだね……!」

「………」




その後狩野田家では、結婚記念日には必ず、Ristorante Tsukkunがオープンしたという。


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