第46話 【9年後】物語は続く【完】
台所から聞こえる心地良い音と匂いで、航太は目を覚ました。
米の炊き上がりを知らせる甲高いメロディと、コトコトと音を立てる味噌汁の香り。
航太はゆっくりと身体を起こし、小さくあくびをしながら伸びをする。カーテンをわずかに開いてみれば、窓の外は秋晴れが広がっていた。良い休日になりそうだ、と航太は朝日に目を細める。
軽くうなじを掻くと、最近ようやく慣れてきた感触が指先に触れた。これ以上ないほどきれいに付けられた、噛み痕がそこにある。
「航ちゃん、おはよう!」
「おはよ、宰」
航太の起きる気配を感じたのか、宰が寝室へ顔を出す。そしてにこにこと近寄ってきて、慣れた様子で航太の額に軽く唇を落とした。すっかり朝の日課になってしまったそれを、航太はこそばゆい気持ちで受け止める。
宰は胸にでかでかと「新婚」と書かれたエプロンを身につけていた。工藤と風間から結婚祝いとして贈られた、赤が際立つシュールなひと品。彼らは冗談で買ったつもりだろうが、ハイセンスすぎる宰は、このプレゼントを随分気に入っている。
「朝ごはん、もうすぐできるよ!」
「ごめん、寝坊した」
「いいよいいよ!」
「ありがと。夜はおれが作るから」
航太はベッドから降りて、顔を洗った。少しずつ頭が冴えていくのを感じる。ダイニングへ向かうと、今や遅しと待っていた宰は、しゃもじを手にぱっと顔を明るくした。
「航ちゃん、ごはんどれくらい?」
「いつもより少なめがいい」
「分かった!」
茶碗にご飯をよそい始めた宰の横で、航太は温まった味噌汁を腕へ移した。
宰が東京へ戻ってきたのを機に、ふたりはカップル向けのアパートを借りた。以前住んでいた部屋よりも広い空間には、一緒に選んだ家具が並ぶ。
一人暮らしの長かったふたりが、足並みを揃えて毎日を送るのにはわずかな衝突もあった。洗濯物の干し方だとか、掃除のやり方や頻度だとか、ごみのまとめ方だとか。けれどそのたびに、宰と航太は話し合って落とし所を見つけてきた。
きっと、これからもそうなる。
航太は穏やかな気持ちで、わかめと豆腐の味噌汁をすすった。宰は出汁の取り方ひとつから、いちいち細かい。一緒に暮らし始めたころ、朝を菓子パンで済ませようとしたら「菓子パンだと血糖値がどうのこうの」と珍しく宰に叱られた。航太の伴侶は、健康管理に厳しい。
その厳しい伴侶は、手を止めてだらしなく頬を緩めて言った。
「今日、どこか行く?」
「うーん……。あ、風呂の洗剤もう少しで切れるから、買いに行きたい」
「分かった!」
航太がもそもそと食べ進めるのを、宰は飽きることなく笑顔で見守っていた。「見てないで食べなよ」と航太が言えば、宰は「はい!」と背筋を伸ばし箸を取る。ゆったりと流れる時間のなかで、航太は呆れたように笑った。
形の良い玉子焼きに箸を入れたところで、航太はふとあること思い出し、「そういえば」と切り出した。
「風間のとこ、二人目だって」
「へえ、そうなんだ! お祝い考えないとね!」
「単行本買えって言われて終わりそう」
「単行本を買った上で何か贈ろう」
「それならいいかも」
パワフルな風間は、子どもを産んでもバリバリに仕事に励んでいる。つい三日前に会ったときは、真顔で「あと三人は産む」と言っていた。ここまで来ると、そのパワフルさに畏敬の念すら感じてしまう。
あらかた食べ終えた後、航太は宰に尋ねた。
「工藤くんはまだ落ち込んでるの?」
「そうだね。彼は良い奴だが振られやすいんだ」
「優しすぎるのかな」
「僕には優しくない!」
「宰の友だちやってくれてるだけで十分優しいよ」
実際のところ、航太とつがいになったあと、「突然アルジャンテと話せなくなった」と落ち込む宰を一番親身になって励ましたのは工藤だった。
工藤は宰に「チャリはそもそも喋らないんだぞ」「お前もまともになり始めてきた証拠だ」と、くり返し言い聞かせていた。
宰は反発しつつも、工藤が寄り添ってくれることに慰められたようだった。
そのときの妙な友情を思い出してくすくす笑いながら、航太は食器を流し台へと運ぶ。腕まくりをして皿を洗う後ろで、宰がテーブルを拭いた。
明確に役割分担をしなくても、進んでいく生活がそこにはある。航太はその心地よい空気が好きだった。
「夜、なにがいいかなぁ」
「航ちゃんが作るなら何でもいいよ!」
「『何でも』が一番困る」
「じゃあ豚肉!」
「それ、素材じゃん。まあいいけど」
ふたりで出かける支度をして、航太は冷蔵庫を開けて中を確認した。残った食材を見渡して、今晩のおおよその献立を考える。
庫内の
航太が冷蔵庫を閉めるのと同時に、宰が突然「あ!」と声を上げた。そしてそのまま自室へ向かうと、なにやら厚みのある茶封筒を手に持ち戻ってくる。
顔いっぱいに浮かぶ宰のにやけた笑みを見た途端、航太はあからさまに顔をしかめた。
たぶん、ろくでもないものを持ってきた。
これまでの経験で培った勘が、そう告げている。
「なにそれ」
「ふふふ、なんだと思う?」
「……グッズだったら怒るよ」
「今回ばかりは違います!」
宰は高らかに言うと、誇らしげに胸を張った。
「吉川先生が、僕をモデルに漫画を描いてくれたんだ!」
「えっ、宰を?」
「ふふ、厳密に言えば、僕と航ちゃんのラブストーリーをモデルに、かな」
「……はあ?」
軽くウインクしつつ爆弾発言をしてきた宰に、航太は思わず声を上げた。
ラブストーリー。
宰と、航太の。
「……聞いてない」
「つっくんプレゼンツ、とびきりのサプライズです!」
「いやいやいや、こういうのは言おうよ」
「ええっ! でも風間くんはサプライズの方が航ちゃんが喜んでくれるって……!」
「風間が……?」
航太は、三日前に風間と会ったときのやり取りを思い出す。いつもと変わらない様子で、他愛もないことを話したはずだ。
いや、しかし。航太は口元に手を当てた。
別れ際に風間が、口の端を歪めて言った言葉が脳裏に蘇った。
『狩野田とは今後も色々あると思うけど、まあ、人生にサプライズは多い方がいいだろ』
たしか、そんなことを言っていた。そのときは聞き流したけれど、今思えば、あれは何かを隠している顔だった。
——あいつ、やりやがった。
航太は歯噛みした。きっと航太に隠れて、宰とこそこそ打ち合わせを進めていたに違いない。吉川さんの熱烈なファンである宰が、「君をモデルにしたい」なんて申し出を断るはずがない。
今度会ったら文句を言ってやる。
風間に口で勝てる気はしないけれど。
険しい表情になった航太に臆することなく、宰は楽しげに続けた。
「ちなみに表紙と巻頭カラーを飾っております!」
「…………」
しかし自分たちがモデルになっていると聞けば、さすがに内容が気になる。航太は怖いもの見たさで、宰に手を差し出した。
「……ちょっと見せて」
「はいどうぞ!」
待ってました! と言わんばかりに、宰は勢いよく茶封筒から少女向けの漫画雑誌を取り出した。航太はそれを受け取り、絶句する。
全体的にフローラルかつピンクの表紙には、見覚えのあるママチャリがどアップで描かれていた。自転車の色は、磨きあげられたシルバー。後輪の泥除け部分には、黒と金のダサいステッカーが貼られている。
「これ……」
航太は絶望的な気持ちで表紙を見つめ、それから隣に佇む伴侶に視線をやった。
得意げなスーパーアルファが、優雅に微笑む。ぶん殴りたくなるその顔に、航太は頬を引きつらせ、再び表紙に目をやった。
どアップのママチャリには、宰によく似た青年がまたがり、苛つくほど爽やかな笑顔を浮かべていた。初めて航太が宰と会ったときの笑みと、よく似た表情だった。
恐怖でしかなかった、九年前の、あの邂逅。
あれがすべての始まりだった。
航太はしばらく唖然として、言葉を発することができなかった。しかしその後、堪らず吹き出し、肩を震わせ雑誌をテーブルに置いた。腹の底から笑いがこみ上げて仕方なかった。
なんだこれ。
これでいいのかな。
こんなバカみたいな話、通用するんだろうか。
涙を浮かべて震える航太に、宰は張り切った声色で言う。
「ファンレターを書かないと」
「ええ? なんて書くの」
「ふたりの未来を応援してます、って」
「はは、なにそれ」
航太は笑って宰の肩を軽く小突いた。
宰がやさしくその手を取り、微笑む。
「だって、長く続いてほしいから」
そう囁いて、宰は愛するつがいに、ゆっくりと顔を寄せた。
テーブルに置かれた分厚い漫画雑誌の表紙には、ひときわ大きく、派手な見出しが踊っている。
——純愛の名手、吉川先生がおくる待望の新連載!
『チャリで来た!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます