彼女の言うことにゃ
真野てん
第1話
仕事帰り。
妻の
出勤前に手渡された会員カードにお金をチャージをすると、買い物かご片手に広い店内を散策する。とは言え、無駄なものを買って帰るとまたぞろお小言を頂戴しそうだ。
さっさとお目当ての商品だけ手に入れて、レジへと並ぼうか。
今晩のメニューは鍋である。
たっぷり白菜と豚肉のシンプルなヤツ。味付けはお
年の瀬も見えてきて、日に日に寒くなっていく今日この頃。
帰って温かい食事が待っているというありがたさは、この上ない。
さて今日のお目当ては調味料。
具材は揃っているものの、どうやらポン酢が切れたらしい。
正直、酸っぱいのがそんなに得意ではない僕としてはどうでもいいのだが、うちの奥さんはそういうのに非常にこだわるのである。
とくにこのところは味覚の変化が著しいので「いる」と言い出したら聞かないのだ。
僕はポン酢を買い物かごへ入れると、ついでに買い置きの商品を物色し始める。
ウェットティッシュの詰め替えや綿棒、キッチンペーパーはまだあったっけ?
最近は自分も台所へ立つことが多いので、ビールやおつまみよりも先に日用品へ手が伸びるようになった。
「カップ麺も買って帰るか」
しかしながら疲れて帰ってくると、さすがに家事をする気も起きないので、そんなときに強い味方になってくれるのがインスタント食品だ。
お湯を沸かすだけで食べられるのはもちろんのこと、洗い物が少なくて済むのがいい。
物価の上昇と共に、お財布事情までは庶民的とは言えなくなったものの、それでもなおどうしてもたまには食べたくなる「日本食」である。
僕は一度は通り過ぎたカップ麺の陳列棚を目指して、お客さんの流れを逆走する。
くねくねと身体を揺らし、ひととひととの間を器用にすり抜けていくと――なんか武術の達人にでもなった気がして、ちょっとだけ気分がいい。
まあ、こういうことを妻に言うと大抵「バカじゃないの?」で終わるのだが。
乾き物の裏手にあるカップ麺の陳列棚には、それはそれは色とりどりのパッケージが並んでいる。このところ食べる機会が遠のいていたから見覚えのない新商品もたくさんあった。
そんな中でも慎ましく、かつ「我らこそがパイオニア」とばかりに鎮座している商品がいくつか存在する。かの安藤百福が生み出した関西発のヌードル商品は言わずもがなだが、僕にとってはこいつらだ。
赤いきつねと緑のたぬき。
マルちゃんブランドでお馴染みの、築地市場で産声をあげた即席めん業界の雄「東洋水産」が誇る、言わずと知れた商品である。
それぞれが揚げの乗ったきつねうどん、天ぷらの乗ったたぬきそばとして販売され、古くから年齢性別を問わず、幅広い支持層に親しまれた傑作即席めんであり、僕も学生のころにはとてもお世話になったものだ。
僕は赤いパッケージのそれをひとつ手に取ると、あの日の出来事を思い出す。
「わたしはお揚げの乗ったおそばが食べたいの!」
当時付き合っていた彼女がかんしゃくを起こした。
原因は些細なことだったと思う。
そんな彼女の機嫌を取るため、僕は自分の赤いきつねからお揚げを取り出すと、彼女の緑のたぬきに乗っている天ぷらとを交換した。
それから僕らは赤いきつねと緑のたぬきを食べるとき、こうして具を交換することが習慣になった。
のちに「紺のきつね」というきつねそばがマルちゃんから発売していることを知ったが、なかなか店頭では見当たらなかったし、わざわざネット通販で買うのもなんだかね。
当時は学生で、そんな発想もなかったし。
そう言えば最近、赤緑合戦という人気投票イベントの末に歴史的な和解と称して、公式からお互いの具を交換した商品も販売されたと噂に聞いたが、なんだが自分の思い出が世間さまに知れ渡ってしまったような感覚があって妙に気恥ずかしかったものだ。
思い出し笑いでニヤニヤとしそうなのを頬の筋力で無理やりねじ伏せる。
僕は赤と緑をそれぞれひとつずつ買い物かごへ入れると、足早にレジへと向かった――。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ」
帰宅すると妻は大きなお腹を片手で支えながら、もう片方の手におたまを持ち、鍋の灰汁をすくっていた。
そろそろ八か月になる。来春には我々もひとの親だ。
「ポン酢買ってきたよ」
「ありがと。あ、カップ麺買ってきてる」
「たまにはいいだろ? 夜食用に」
「じゃあ、お揚げとそばはわたしのだからね」
そう。
あのとき付き合っていた彼女も、いまでは僕の妻である。
学生時代に交わした約束事も続いたままだ。
これから生まれてくる我が子は、どっちのマルちゃんが好きになるのかな。
妻と同じく、きつねそばが食べたいとなると面倒なことになる。
ああ東洋水産さま。
どうか「紺のきつね」の販路をもっと広げてくださいな。
そんなことを思った。
冬のある日でした。
彼女の言うことにゃ 真野てん @heberex
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