最終話

 日本語の設定に少し苦労したけれど、以後、借り受けたタブレットは軽快に仕事をしてくれている。こんな小さな画面でも、久しぶりに見る病室以外の風景は格別だ。まるで異世界に繋がる窓のよう。

 家族に無事を伝え、謝罪する内容のメールを書いたら、ものの五分で返信が来た。向こうの時刻は深夜も深夜、十二時をとっくに越えた時間であるにもかかわらず。

 お小言に塗れたそれに「次はまた明日連絡する」とだけ返す。申し訳ない気持ちはあるけれど、今日のところはもう寝て欲しい。

 続いて、文面に迷いながらベルティ氏、アヤさんとメールを送るころにはすっかり左手が痺れてしまった。利き手ではないというだけでなく、脚や腕を固定された状態でお腹にタブレットをのせて作業をするのは思ったよりも疲れる。ずっと下を見ていたので心なしか首もだるい。姿勢を見直す必要があるらしい。

 いつもは味気ないと感じる夕食も多少楽しめたのは、いろいろなことが前に進んだからだろう。そう、ゴールに近づくということは楽しいことでないといけない。

 突然の入院で経過を知ることができなかったツール・ド・フランスの終盤を簡単にチェックしてから就寝。ニースで俺たちの前を駆け抜けていったあの若手選手は、優勝争いには絡んでいないものの、リタイアすることなく毎日戦っているらしい。その姿を想像するだけで、勇気が湧いてくる気がした。


 翌日、朝食後に診察をしてくれた先生が、一言「退院です」と言った。

 急な話に戸惑いながら「退院ですか」とオウム返しに訊き返すと、「そうです」ともう一度。どうやら聞き間違えではないらしい。

 完治までは時間がかかると聞いていた俺には寝耳に水な話だった。あれよあれよという間に腕や脚の固定を外され、洗面所に連れていかれる。ここ数日伸ばしっぱなしだった髭を剃り、運び込まれたときに着ていた服に着替えさせられて車椅子にのって玄関へ。腕と脚のギプスは付いたまま。

「右手に負担をかけないために三日は松葉杖の使用は控えてください」と諸々の注意事項と処方薬。最後に「退院おめでとうございます、お大事に」と看護師さんに言われて放置。この人の笑顔、初めて見たなと驚いているうちにさっさと院内に戻ってしまった。

 当然のように他に見送りもいない。

 え、俺、これからどうしたらいいの? 脚なんてまだ術後の抜糸も済んでないんだけど……。

 昨日までこの病院を抜け出すことばかり考えていたものの、いざ自由になってみるとかなり困る。それに事件の調査とか領事館とかどうなったの?

 膝の上に少ない手荷物と松葉杖をのせて途方にくれていると目前に車が停まる。有名なドイツ車のマークがついた如何にもオフロードに強そうな四角い車。

 このご時世に大排気量な感じのエンジン音を轟かせている。

 アイドリングを維持したまま左側のドアが開かれ、降りてきた人物がティアドロップ型のサングラスを外す。その顔には見覚えがあった。

「ベルティ……さん?」

 昨日メールを送ったばかりの相手。サラの父親。

「きみがタイチ君か」

「あの……」

「とにかく乗ってくれ、ここだと他の患者さんの邪魔になるからね」

 と後ろに停まったワゴン車に視線を向けながら。そう言われてしまうと従うしかない。

 目の前の助手席を開いてもらうと、思いのほか座り心地の良さそうな座面によじ登る。高めの車高に怪我した脚で難儀している間に車椅子は手早く折りたたまれ、後部座席に片付けられてしまった。そこにサラがいることを期待していたのだけれど、無人。どうやらこれから俺はベルティ氏と二人きりでドライブに行くことになっているらしい。

「あの、サラは……」

「…………」

 二人ともシートベルトをとりつけるや否やすぐに質問してみたものの返事はもらえなかった。

 ただ思ったよりも静かに車体が発進し、病院のロータリーを抜けて車道へと向かう。一時停止、左へのウィンカーを出してからベルティ氏は口を開く。

「……無事だ。少なくとも君ほどの怪我はしていない」

 ……そうか。言い方は気になるけれど、とにかく『無事』という言葉が聞けただけでもありがたい。どうやら予想通り、彼女は早い段階でお父さんとコンタクトをとることに成功していたらしい。

「……元気に、していますか?」

「そうだな、だいぶ調子を取り戻していると思うが……、詳しいことを話す前にいくつか伝えておくことがある」

 正直に言えばこのまま続けて欲しかったけれど、そういうわけにはいかなかった。話題が俺自身のことだったから。どうやら退院に関わる事務手続きをしてくれたのはこの人らしい。感謝していいのかどうか迷うところだけれど……。

「きみは、この国で自分がどういう扱いになっていたのか知っているか」

「……事件に関与している疑い、ってやつですか」

「そう、うちの娘を連れまわしてくれた容疑だ」

 ぼかし気味に聞いた部分を明確に言い直されてしまった。

 聞けば、やはり事故に会ったサラは早い段階でお父さんを頼り、合流に成功したとのこと。その時点で俺への救助依頼は済んでいた。

 次に問題になったのが経緯。なぜ、どうして二人があの場所を自転車で走っていたのか。サラはあまり詳しいことを説明しなかった。けれど事前に連絡をとっていたお父さんは状況を理解している。

「……ここ何日かの間で、私は殺したいほど憎いと思った相手が何人かいる」

 急に物騒なことを言い出すベルティ氏。表情を確認しても、サングラスをかけて信号を見つめる横顔からは何も読み取れない。

「中には君も含まれている」

 薄々予想はしていたけれど、言われると凄く怖い。もしかして俺はこれから人のいないところへ連れていかれて処分されてしまうのだろうか……。今更ながらほいほいと車に乗ってしまったことを後悔する。

「考えて見てくれ。どうあっても、……聞きたくなかったニュースがとびこんできた。しかも娘は逃亡中で正確な行方は不明。やっと連絡がとれたと思ったらぼろぼろの恰好でやってきて『助けてくれ』という。何年も親としての責務をちゃんと果たせていなかったこの私に、だ。……世界中を敵に回してでも戦おうと思ったね」

 転落事故ではやはりサラも無事では済まなかった。俺のように入院する必要はなかったものの、あちこち擦り傷を作って痛々しいことになっていたようだ。

「誰のせいか。決まっている。男といっしょにいると聞いたときから悪い予感がしていたからな。きみに報いを与えなければいけないと思った」

 誤解ですと言うより先に続きがある。

「とはいえ、その時点で一番重要なのはあの子の身の安全だし、私が法を犯すわけにはいかない。まず然るべきところに通報して、万が一にもきみが娘に接触することがないように取り計らった」

 病院内での扱いがドライだった理由はそれか。概ね予想は悪い方で当たっていた。

「娘は錯乱しており、とにかくきみの所に戻ろうとする。密接に生活することで被害者が誘拐犯に強く思い入れを持つ。よくある症状だと思った。だからきみのことは大丈夫だと言い含めてから、引き離す方針をとった」

 事故後に何があったのか、概ね掴めたと思う。

 けれど、それならばなぜ俺は、こうして助手席から車道を眺めることになっているのだろう。

「――だが、それが良くなかったらしい。いくつか混乱を招く事態に発展してしまった」

「混乱、ですか?」

「ああ、そうだ」

 どうやら、サラの治療が済んだ後、二人はここから南西のバレンシアに向かう途中にあるベルティ氏の実家へと向かったらしい。道中はけっこう距離があるので、お互いにいろいろな話をしたようだ。……おそらく亡くなったお母さんについても。

 サラは俺が唯一持っていた通信手段であるスマホが壊れていることを知っていて、どうにか連絡をとりたいと主張し、ベルティ氏はこれを利用することにした。すなわち、自分が代わりに病院に確認しておくと伝えた。しばらくの間は安静にする必要があるから会話は難しいかもしれないが、容態が安定すれば連絡をもらえるように言づけておくと。

「でも、誰も連絡なんてくれませんでしたが……」

 ナディアさんが来てくれるまで、孤独そのものだった。

「それは、私が嘘をついたからだ」

「嘘……」

「……この件について、きみに謝らなければならない。いいわけになるが、とにかく娘を守るために必要なことだと思った」

「……何を言ったんですか」

「きみの家族が来て、日本に連れて帰ったようだ、とそう伝えた」

 同時に、ベルティ氏は警察や病院等に『娘の誘拐』に関する被害届は出さないという連絡もしたらしい。これはサラとの会話で事件性が低いことがわかったから。そう簡単にいくのが疑問だけれど、法律に詳しい氏なら澱みなく手続きを済ませられたのだろう。俺の元に警察の取り調べがなかった理由がわかった。


 次に氏はバルセロナにある日本総領事館へ、探りを入れるような形で電話をするつもりでいた。娘がいっしょにいた人物について知りたいという名目。これによって彼らに事件に介入する口実を与え、俺を早期に帰国させるように誘導する。ついた嘘を後付けで事実にしようとしていたわけか。しかし……。

「私が手続きを進める前に、あの子はいなくなってしまったんだ。書置きだけを残して。『自分の目で確かめる、タイチは何も言わずにいなくなったりしないから』と」

「…………」

「バルセロナへ行こうと思ったら、バスかタクシーを使うことになるが、チケット代に足りるほどの現金は持っていないはずだった。代わりに家からなくなっていたのはあの子の自転車と地図、毛布、鍋、そして水と食材だ」

 誕生日プレゼントにもらった自転車。

 まさか、という気持ちはある。そしてサラならできるという思いも。

「……私は信用されていなかったのだと気付いたよ。嘘をついたのだから当然のことなのに、それでも強く後悔した。必死であの子のことを探した」

 結局、バルセロナへ向かう道の途中でサラは捕捉されたのだという。

「家から四十キロほど離れた場所だった。私自身はそんな所にいるとは全然思っていなかったから、偶然目撃証言を得られなければ、あの子はもっと遠くへ行っていたと思う。それこそ、二度と手が届かない場所まで」

 俺の知らないところで大きな問題になっていたのか……。

「駆けつけて、不貞腐れるようにこちらを見上げるあの子をみて、安心して、悔い、それから『嘘をついてすまなかった』と謝った。本当の意味で私たちが親子の対話をすることができたのはそれからだ」

 とにかく、また事故に遭っていた、なんてことがなくて良かったと胸を撫でおろしていると、ベルティ氏は続ける。

「私は今度こそ、ちゃんと父親の仕事をしなければならない、……今更と言われようともね。きみとこうしているのもこのためだ。知る限りの事実を伝えて謝罪をする。そのための時間が欲しくてサラには向こうに残ってもらった。それに――」

 運転しながらサングラスを外し、一瞬だけこちらに目線を向けると、

「――礼を言わせて欲しい。私の、私たちの宝物を守ってくれてありがとう」

 こればかりは本人の前では言えないからと、そう言いながら前を向き直したベルティ氏は目を細める。スペインの夏の日差しが眩しかったのか、涙を我慢しているのかは、俺の位置からはやっぱりよくわからなかった。


 到着した家にサラはいなかった。

 また行方不明というわけではなく、どうやら散歩に出ているらしい。氏のお母さん、サラの祖母にちゃんと言づけていた。いわく「一足先に約束の場所に向かうね」と。

 首をひねるベルティ氏に、この近くに海水浴ができる場所はないかと訊けば、あるという。小さいけれど、美しく、知る人ぞ知るスポット。何度か家族で行ったことがあると聞き、ピンときた。ここで間違いない。


 短い距離をわざわざ車で移動してもらい、向かった砂浜を松葉杖で不格好に歩く。本当はギプスを外したばかりの右手はもうしばらく使わない方がいいのだけど、こればかりは仕方がない。車椅子では砂地を移動することができないから。せめて体重をかけすぎないようにと、けんけんとびのような歩き方になっている。これがまた砂浜と相性が悪い。

 それでも、目的の場所にはペダルを漕ぐように確実に近づいていく。


 視線の先には一人の女の子が、それぞれに真っ青な空と海に向かって雪と見紛うような白い砂の上に立っている。大きな帽子を被っていても誰だかわかる。それくらい、ずっといっしょにいたから。


 あともう少し前に進んだら、声をかけるつもり。

 なんて言おう。やっぱり「ひさしぶり」かな。たった数日離れていただけなのに変だろうか。

 最初の言葉ははっきりとは定まらなかったけれど、一つだけ決めていることがある。


 それは約束をすること。


 二人の間に、新しい約束が欲しい。

 できるならまたいっしょにどこかへ旅立つことができるような。

 中途半端に途切れてしまった道から新たに飛び立つ理由になるような。


 予定の場所にたどり着くよりも少しだけ早く、少女はこちらを振り向いた。同時に強い風が吹いてつばの広い帽子を持っていってしまう。

 その風は、同じ青色なのにはっきりと境目のわかる、海と空の狭間から来たのではないかと、そう感じられた。




-了-

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ヨーロッパ横断自転車旅行に出かけたら女の子の国外脱出を手伝うことになった 瓜生久一 / 九一 @ccsand91

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