第34話

 ――考え事はノックによって遮られた。誰だろう。

 前述の通り、ここを訪れる人間は少ない。朝、決まった時間に診察に来る先生と看護師さんだけ。この時間には両方とも来たことがない。

 とっさのことに返事もできずにいると、ノックが繰り返される。今までそんなことをする人はいなかったので驚く。だいたいみんな何も言わなくても勝手に入ってくるから。

「ど、どうぞ」

 言うや否やスライド式のドアが勢いよく開かれた。

 最大まで開いてなお留まらず、がちんと音をたててから反動で少し閉まる。

 あっけにとられているうちに入室してきた人物の顔には見覚えがあった。

「……ナディアさん?」

 眉筋の通った意志の強そうな顔立ち。俺から見ればそれなりに年上だけれど、若いといってよい年齢の髪の長い女性。

 ……叔父の大切な人。俺が、今回の旅で自転車を届けるつもりだった相手。

「…………」

 怒涛の勢いでやってきた彼女は、一転、こちらを見下ろして沈黙している。なんだか圧迫感があって怖い。

 右手を胸の前にだしたかと思うと、ぐっと握りこむ。ぱきりと指の関節から音がした。拳は俺の顔の前までやってきてすっと開かれ頬に添えられる。一瞬、殴られるのかと思った……。

「……ちゃんと生きてるわね」

「あ、はい、お陰さまで」

 触れたままだった手でぎゅっと頬をつねられる。かなり痛い。

「お陰さまで、じゃない! あなた何してるの! あれだけ気を付けるようにって言ったのに! 日本から連絡もらった私の気持ち、わかる!?」

 ぐいぐいとほっぺを引っ張られながら、聞かされるお説教は正直全然頭に入ってこない。ただ、こういう人だったな、という感覚だけが実感を持って思い起こされる。

「ゎ、わ、ごうぇんわさい」

 一向に離してもらえない頬をそのままに、とにかく謝る。身動きがとれない俺にはこれしかできない。

「せめて! 自分で連絡! してきないよ! まったく! 心配したんだからね!」

 韻を踏むように力強く主張すると頬をつまんだまま引っ張ってはなす。ばちんと音がした気がした。

「したくてもできなかったんです。本当に」

 自由になる左手でつねられたあとをなでながら、やっと話らしい話ができるようになった。

「……なんだか大変だったのは本当みたいね。日本領事館の職員じゃ、じかに連絡がとれないからって、御実家の方から泣きつかれたの」

「そんなにおおごとになってるんですか……」

 どうやら思っていた以上にたくさんの人を巻き込んでしまったらしい。領事館? 実家? いいわけをしなければいけない相手がどんどん増えて混乱してきた。

「呆れた、何も知らなかったわけ?」

 毒気を抜かれたように眉尻が下がったナディアさんによると、状況はこうだ。

 事故が発覚し、俺が身元証明のためにパスポートを提出した段階で在スペイン日本大使館および領事館に連絡がいった。そこを経由して実家の方へも電話があったようだ。

 幸いなのかどうなのかわからないが、バルセロナは大都市で日本の総領事館がある。すぐに状況を確認するために職員が派遣されたのだけど、そこで問題があったらしい。

「事件への関与が疑われる……」

「そう。あなた何したの? 『葉っぱ』でも運んだわけ?」

 国内の犯罪に外国人が関わっていた場合、国外に逃亡されると自国の司法で裁くことができなくなる。それを避けるために容疑者の身柄を拘束した、みたいな感じ……。れっきとした国際犯罪者の扱いだ。自分のことだと思うと苦しくなってくる。

「実際には国と国の関係もあるから、そこまで大ごとになってないけれど、当人は怪我をしているし、捜査を控えている手前、現時点で干渉して欲しくない、みたいな話になったらしいわね」

 それを聞いた家族が心配してナディアさんを頼った、と。

 やはり、知らないうちにサラとのことが大きな問題になってしまったようだった。

 とにかく、普通にお見舞いに来る分には認められているだけマシなのだろうか。

 考えなければいけないことが一気に増えた、けれど……。

「……あの、すみませんでした」

「謝罪はさっき聞いたけど?」

「今の話のこととかもあるんですけど、やっぱりちゃんと謝っておかなきゃって、そう思ったので」

 一度、呼吸を整える。

「……叔父さんのことがあったのに、自分なら大丈夫って過信して心配をかけてごめんなさい」

 あれから一年とちょっと。気丈な彼女はこうして普通に振舞っているけれど、辛くないわけがないのだ。

 大切な思い出だって、しばらく距離をおく必要があることもある。それをサラとお母さんの話で学んだ。

「…………」

 沈黙の間もナディアさんの目はこちらを向いたまま。

 俺も逃げずに視線を合わせて待つ。

「いいわ。その赤いほっぺと元気そうな姿に免じて許してあげる」

 緊張で止めていた息を吐く。

「それにしても、うまくなったわね」

 なんのことです?

「スペイン語。前はもっとカタコトだったじゃない」

 この旅を始めるにあたって連絡したときのことだろうか。

「……勉強、したんです」

「この病室で?」

 枕元の辞書を見ながら、そんなわけないわよね、という感じの返答。

「ちょっと長くなるけれど、いいですか」

 元々、話すつもりだった。俺の旅がどんな風に想定外の方向へ転がり出すことになったのか。

 お父さん探しがうまくいかず事故に遭っていなければ、サラとふたり、頼りにしていたのは彼女だったのだ。

 今の混乱した現状を理解してもらう助けにもなるだろう。

「そうね、せっかく何時間も車をとばしてきたんだから、聞きごたえのある感じで頼むわ」

 今日になるまで誰も座る事がなかった備え付けの丸椅子。それを引っ張り出すとナディアさんはやっと俺を見下ろすのをやめてくれたのだった。


 二人の間に起きたことを、彼女はそれなりに感情を起伏させながら聞き、いくつかの点で俺を叱った。その上で大まかな筋道と俺の判断については否定しなかった。良いとも悪いとも言わず、困った顔をしただけ。

「そろそろ時間だから」と立ち上がる彼女はどうやら次に警察署へと向かうらしい。そこに事故現場に放置されていた俺たちの荷物が保管してあり、受け取りの手続きをしてくれるらしいのだ。本来は持ち主である俺がやらなければいけない作業ではあるものの、身動きなんてとれないので委任状にサインをする必要があった。

 慣れない外国語の書類に慣れないアルファベット署名。とっておきに慣れない左手での記載は本当にちゃんと俺の委任を証明してくれているのだろうか。疑問だ。

 書類を書いているうちにナディアさんは持っていたカバンからタブレットPCを取り出す。

「連絡手段がないと困るでしょ。貸してあげるから使って。このままネットに繋がるけど今月は残り四ギガくらいだから節約すること。大丈夫?」

 ……本音を言えば、彼女を一番神々しく感じたのはこの瞬間だったと思う。

 隔離空間に下ろされた蜘蛛の糸は存外に太く、動画や音楽の視聴をしなければかなり余裕がある。これまでほそぼそと通信を制限してきた俺なら一月もたせるのも余裕だ。受け取るときには誇張抜きに手が震えたほどである。

 ……これがあればサラと再会できるというわけではない。けれど道のりを大きく前進したのは間違いない。ペダルを回し続ければ、必ず目的地には到着する。

 貸した本人はそんな俺の心中の感動には気が付かずに、さっさと帰り支度をすませるとドアの方へと向かい、くるりとこちらを振り返る。

「また顔を見に来るわ。そのときはメールを送るから」

「はい」

「……あいつがさ、旅で困ったことがあったときに言ってた口癖があるんだけど、知ってる?」

 なんだろう。叔父さんはいろいろと思わせぶりな言葉を吐く癖があったけれど、何か一つというと思い浮かばない。仕方なく首をふる。

「『旅は失敗するのも悪くない、また旅に出る言い訳ができる』って」

 聞いたことがあるかどうかは思い出せなかった。けれど叔父さんらしいなとは思う。

「でも、あいつは言い訳もなく旅立っていった。だから、あなたはこの言葉を嘘にしないで。お願い」

「……わかりました」


 叔父のあとを引き継ぐはずだった俺の旅は方々に蛇行した末に、結局リタイアに終わった。

 怪我は松葉杖なしに歩けるようになるまで一月ほど。旅のために確保していた猶予では自転車に乗ることができるようにはならない。ここから前に自分の足で進むことは、もうできない。


 ときに人は、目指していたものを有無を言わさず奪われる。

 けれど、だからこそ俺はここで終わりにしたくない。叔父がやり遂げられなかったこと、サラが足を止めた理由。そういったものを全部まとめて運ぶのが、この旅の大きな目標だったから。どんな順番になっても、どれだけ時間がかかってもやり遂げたい。

 叔父がナディアさんに遺した言葉は、そんな願いを叶えるための魔法の一言だった。

『次は頑張るしかないね』と笑って済ませる。次があると勝手に決めてしまう。

 運命というものが有無を言わさず立ちはだかるのなら、有無を言わさず前に進む。そんなやりかた。今、こうしてやらかしてベッドに縛り付けられ、家族から国まで巻き込んで途方に暮れるしかない自分が、もう一度サラと会うための第一歩。

 諦めるつもりなんてない。

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